第89話 閑話休題 林檎飴と東の民②
(1)
天井に届くほど高い本棚に囲まれた部屋は、かすかに乾いた臭いがする。
ここは住処の図書室。読み切れない、端から読むつもりもない多くの蔵書を展示、保管することで顕示欲を満たす──、満たしていたのは先代までの話。ノーマンが城主として君臨する現在、彼を始め城の住人たちはしばしばここを利用している。
圧迫感を覚えそうな室内の中央、天板の縁、脚に銀の彫り細工が施された長机が等間隔に置かれている。間隔に一mmのズレなく並び、年季は入っているが手入れが行き届いた机の中、ひとつだけ大幅に列を乱していた。机上には古い本が山積みだ。
崩れ落ちそうな本の山に埋もれながら、ミアは真剣な表情で古い本を読み耽っていた。あまりに真剣過ぎて目が真ん中に寄ってさえいる。その集中状態は少なくとも三時間以上続いてたが、ミアが集中力を切らすことは一度もなかった。
「うーん、これも違ったかも……」
本をぱたり、閉じる。目に見えない埃が飛び、くしゃみが出て軽く二、三度咳き込む。本の山を崩さないよう、読んでいた本をそっと机の空いてるスペースに置く。
目が疲れてきた。次の本は少し休憩してから読もう。
座ったまま伸びをする。疲れているのは目だけじゃない、肩もか。
昔から一日中本を読むのはちっとも苦じゃなかった。正直身体を動かすことよりも好きだし、気持ちの上ではまったく疲れていない。ただ、身体がついていかないだけ。
さすがにここ一週間以上、食べる間も寝る間も惜しんで図書室に籠りきりなので全身が凝り固まってきた。起床後と就寝前の筋力トレーニングはずっとかかしてないのになぁ。
ふーっ、と息を吐き、文字通り背もたれに深くもたれかかる。少し頭が痛む気がする。
背もたれの上に後頭部を乗せ、軽くぐりぐり押さえる。痛い。痛いけど、気持ちいい……。
「やりすぎると却って痛める。程々にしなさい」
「ん??」
痛気持ちいい感覚に目を閉じ恍惚としていたら、上から誰かが声をかけてきた。
図書室だからか声量を抑えているが、この声は──
パッと目を開けてみる。濃紺の単眼がミアの顔を覗き込んでいた。
「わわぁっっ!!」
「おっと!!」
反射的に顔を上げるより一瞬早く、イェルクも顔を上げた。おかげで額をぶつけ合う惨事は免れたものの、まぬけ面を見られたことには変わりない。
「あの!もっと早く声かけてくださいっ」
「??入る前にノックしたし一声かけたぞ??」
「~~っっ!!」
何を怒っている??と言いたげに首を傾げてくるのが益々羞恥を煽ってくる。何の反応もない方が余計に恥ずかしかったりするのに。
これが容赦なく揶揄ってくるだろうアードラやノーマン、イヤミのひとつふたつ言いそうなスタンの方がいっそマシに思えてくる。
「…………」
「どうした??」
スタンのことを思い出した途端、ミアの表情が曇っていく。
自らの血をあえて吸血させたことに後悔はない。後悔はないが──、彼の尊厳を手酷く傷つけたことは確かであり。なので、あれ以来、彼の顔を一度も見れていない、見ないように避け続けていた。
吸血鬼に関する文献調査を名目に、朝早くから深夜近くまで図書室に閉じ籠って。否、調べ物に関しては真剣に取り組んでいる。
住処へ来た当初、ノーマンから『図書室には国内外(国外の物は数少ないが)新旧問わず、吸血鬼の文献資料がたっくさん保管されてるんだ!気が向いたらでいいけど、一回は読んどいた方がいいかもねっ』とは言われていた。
でも、当時のミアは体力武力を身につけるのに精一杯で、読書に時間を割く体力気力が皆無だった。何より吸血鬼の話なんて全然関心が持てなかった。それはそのときに始まったわけじゃない。吸血鬼城で暮らしていた頃からだ。
吸血鬼城には当然吸血鬼の文献資料はあった。おそらく住処の図書室よりも数が多かったかもしれない。だが、ミアは一冊も目を通したことがない。ミアの興味関心が外の世界、人間や人間の暮らしにしかなかったから。今思えば、
そう、住処の図書室や生まれ育った城の本をちゃんと読んでいれば、あのとき、もっと違う対処法があったかもしれない。もしかしたら、同じ本でも人間側と吸血鬼側で内容が変わっていて、違いや矛盾を発見できたかもしれない。
後悔先に立たず。だから今やれることをやるしかないわけで──
「ほら、また難しい顔してる!」
「…………」
「調べ物も結構だが無理は禁物だぞ??」
「ムリなんて……」
してない、とはとても言えない。実際あんまり食べてないし寝ていない。
「若くとも不摂生は感心できないな。あまり根詰めないように!」
「……ですね」
「……と、説教はこのくらいにして。本題に入らせてもらおう」
なんだろう。私、なんかしたかな。それともスタンの身にまたなにか起こった、とか?!
しかし、イェルクの口から出てきた『本題』はミアの予想を良い意味で裏切ってくれた。
「えっと……、つまり、ロザーナとエリカの気晴らしに私も付き合ってほしい……ってこと??」
「そう!君がいてくれた方があの二人を連れ出しやすい」
「……かもしれない、ですね。そっかぁ……、うん。じゃあ私も付き合います!」
「ありがとう!助かった!」
自分のための
「えっと、おでかけはいつの予定ですか??」
「明日行こうと思ってる」
「明日?!また急な……、あ、私は全然だいじょうぶだけど」
明日、と聞いて不安になってきた。
エリカはともかく、ロザーナは首を縦に振ってくれるだろうか。
「あの、私からロザーナに」
「いや、君はこのまま調べ物を続けてくれればいい」
「……うん」
「話はこれで終わり!邪魔をした。あぁ、ロザーナ達のため、というのは内緒にしておいてくれ」
ミアの頭に大きな掌がぽんと置かれた。
えっ、と思ったときにはもう、イェルクの広い背中は扉へと向かっていた。
(2)
書斎机がひとつ、机と横並びにシングルのベッドひとつ、窓際にはサイドテーブル、丸いパイプ椅子数脚あるだけの、広さ六畳程度の部屋へ入る。
窓からの日差しを浴びながら、ロザーナはスタンをパイプ椅子に座らせ、彼の髪を切っていた。が、イェルクの大柄な影を認めると、ロザーナは鋏を持つ手を止める。
「相変わらず、か」
イェルクの嘆息に対し、ロザーナは微笑を浮かべて頭を振った。
スタンは伏せた顔をピクリとも上げようとしない。ロザーナが動きを止めても、イェルクが近づいてきても。
身体は回復しつつある。口数は極端に減ったが、会話も可能になってきた。
ただし、ほぼYES/NOを答えるだけの非常に簡単な会話でしかないが。
「ロザーナ、今夜も
「だいじょうぶっ!あたしがついてるわっ」
ロザーナはいつも通り元気そうに笑ってみせる。しかし、疲れはどうにも隠しきれていない。
当然だ。自責の念によって、スタンが周囲に心を閉ざしてしまったのだから。
「今夜は君の代わりに俺がついている。自室でゆっくり休むといい」
「でもぉ」
「……というのが半分、あと半分は君に頼みがあってな」
「なぁにぃ??」
「ここのところ、ミアも図書室に籠りっきりでろくに寝てないらしくてな。身体のために今夜はちゃんと寝なさい、と言ったんだが、聞いてくれるかどうか……」
「ミアがまた無理して起きてやしないか、あたしがさりげなぁく見張ってればいいのねぇ?」
「そうだ」
「ミアはのめり込みやすいものねぇ……、ちょっと心配よねぇ。……わかったわ!今夜は部屋に戻ることにするっ」
思いの外あっさりと受け入れてくれ、安堵と共に拍子が抜ける。
「あ、でもでもぉ、スタンさんの髪だけは切らせてねっ」
「あぁ、それともうひとつ!、明日、ミアとエリカを気晴らしさせるために外出するんだが、ロザーナも来てほしい」
鋏を動かしかけた手が再び止まる。
「あたしも??なんでぇ??」
「君がいてくれた方がミアを連れ出しやすい」
ロザーナは答えず、黙って再びスタンの髪を切り始めた。
しばらく伸びっ放しだった鈍色の髪は、前髪と襟足の長さを残して以前と同じ髪型に変わっていく。
室内の沈黙は散髪が終わった後も続いた。
床に落ちた髪を箒で掃くときもロザーナは一言も喋らない。喋らなかった。
「……え??」
集めた髪を塵取りに掃き入れていると、呆けたようなロザーナの声が小さく聞こえた。
気になってロザーナを見返せば、箒を握ったまま硬直している。視線の先には、微動だにせずパイプ椅子に座り続けるスタンが。
「え、なぁに??」
ロザーナは箒を投げ出し、スタンの口元に耳を寄せる。
投げ出された箒を受け取るとイェルクもふたりを注視したが、二、三、短い会話を交わしただけでロザーナはすぐに立ち上がった。イェルクに向き直った菫の双眸はまんまるに見開かれていた。
「……『行ってこい』だって」
「で、本当に君は来るのか??」
二度目の沈黙が室内を満たす。しかし一度目と違い、二度目の沈黙はすぐに破られた。
「うん、ミアが行くならあたしも行こっかなぁ……」
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