第85話 怒髪天を衝く
破裂音と閃光が室内を支配し、視界を焼きつける。薄目で、感覚を頼りに扉を目指し、ロザーナは駆ける。
あと少しでドアノブに手が届く。と、思いきや、後ろから腕をきつく引っ張られた。
振り払おうにも掴まれた腕はびくともしない。手負いなのになんて強い力!
全身がびっしょりと汗ばみ、浅く息が漏れる。ほぼ同じタイミングで、スタンがシイィィーと牙を剥く音が聞こえた。
ゴツッ!!
反射的に裏拳を繰り出せば、拳は再びスタンの顔の中心にめり込んだ。今度も鼻や歯を折るまでには至ってない筈。多分。
再び緩んだ拘束。二度目の
ドアノブを握り直し、蹴りと同時に扉を開け放ち、廊下へ──、飛び出すなり、全速力で駆けだす。
「馬鹿が。俺から逃げ切れるとでも??」
開きっ放しの、激しく傾いた扉の前でスタンは助走をつけ、廊下の天井へ跳躍。照明器具に飛び移り、鼻血を拭いとると床へ急降下。ロザーナの背中に狙いを定め、蹴飛ばしにかかった。
咄嗟に壁際へ跳ぶ。飛び蹴りで背骨を砕かれる難は逃れたが、息つく間もなく、スタンは右手に何かを握りしめ、ロザーナへ振りかざしてくる。身を躱し、壁際から再び廊下の中心へ、駆ける。
スタンが手に握るのは割れたティーセットの一部。ロザーナが欠片を投げつけたことで、武器代わりになると判断した模様。
一見何の役にも立ちそうにもない、ただの
スタンが扱っているなら尚更……などと分析しかけて、振りかざされた刃先がロザーナの左頬を掠った。頬を伝う血を拭うよりずっと早く、小さくも切れ味鋭い凶器は容赦なく迫りくる。
「いっ……たぁ!」
ロザーナは左目を押さえ、スタンから数歩分距離を取る。
危なかった。咄嗟に目を瞑り、顔を反らさなければ確実に潰されていた。瞼を薄く切られただけで済んで本当に助かった。
助かったけれど──、流血のせいで左目が使いものにならなくなった。
血が固まるとあとで困るし、早く拭わなきゃ。
しかし、そのほんのわずかな隙さえスタンは与えてくれなさそうだ。
スタンとの距離を更に拡げる。拡げた分だけ、否、拡げた以上に距離を詰められるかと思われたが、スタンは呆然と立ち尽くしたまま、微動だにしない。
本当に助かった。左目の血をさっと袖で拭う。クリーム色のニットだと朱がやけに目立ってしまうが、気にしている場合なんかじゃない。それよりも気になるのはスタンの様子だ。
スタンは次の攻撃を仕掛けてくるでもなく、依然棒立ちの状態でいる。薄青の黒目が三白眼から四白眼に変わるほど見開かれ、怯えた顔で引け腰のようにも見える。
ひょっとして、彼本来の自我が戻りつつある、のか……??
それとも、そう見せかけて油断を誘っている……??
わからない。でも、もしも前者の場合だったら。
揺さぶりをかけてみるのも手かもしれない。
「スタンさん!」
圧の籠った声音に自分でも驚く。遠く向かい合うスタンは益々怯えた顔になり、二、三歩後ずさった。
こんな弱気な顔など一度も見たことない。見たことないが──
「どっち、かしらぁ……??」
ロザーナを傷つけたことで本来の自我が自責の念に駆られているか。
心配させて近づいたところで攻撃してくるか。
ロザーナへの謝罪らしき言葉を、小声でぶつぶつ繰り返すスタンは今にも泣きそう、に見える。
そんな顔はこっちも正直辛いが、感情に流されてはいけない。
「スタンさん!あたし、ひとつ、訊きたいことがあるのぉ!」
黙っていれば永遠に続きそうな謝罪を、必要以上の大声を出し、無理やり中断させる。
「ロザーナ……、すまな」
「それはもういいからぁ!あたし、全然怒ってないしぃ!」
怒ってないと言うのは大きな嘘。
厳密に言えば、スタンに対しては一mmも怒っていないが、彼にハイディの血を飲ませた者、(直接手を下した訳じゃないが)彼を強制支配したハイディには怒っている。物凄く怒っている。
「あたしに『
「俺が、お前に、『
結果はどうやら前者だ。
(ロザーナは決してそう思わないが)己自身の存在を卑下し、流れる血を心底忌み嫌うスタンが自分から求婚するとは到底思えない。それに、彼は、形あるものに縛られたくないロザーナの意思を尊重する。いくら生死の境を彷徨い、弱気になっていたとしても、きっと、そこは変わらない。
では、強制支配の力で言い出した求婚なら。なぜ、わざわざ口にしたのか。
新たな疑問が芽生えたとき、スタンの表情に変化が現れた。
知らない者が見れば、同じような歪んだ表情で何も変わっていないように見える。だが、ロザーナにはよくわかった。同じ歪みでも泣きそうな顔から憎々しげな顔への変化。
いつでも迎撃できるよう、太腿のハーネスから暗器を抜く。数瞬遅れでスタンの歪んだ顔が間近に迫る。
振り下ろされる白磁器の破片を細身の剣身で薙ぎ払う。腹を狙った蹴り足を避け、スタンの頭上を宙返り。その途中で、飛び上がったスタンの切っ先が喉元へ届く。ヒヤリとしたが、掠っただけで薄皮一枚切れたのみ。
着地と同時に暗器を投擲する。難なく避けられてしまったが、それでいい。攻撃したいわけじゃない。少しでも長く、スタンをこの場に留めおきたい。そして、騒ぎを周りに気づかせたい。
「なぜ本気を出さない??」
欠片に付着したロザーナの血を舐め取り、スタンは問う。
「出したくないからに決まってるでしょお?!」
「求婚して
スタンの顔で、声で、なんて嫌なこと言うんだろう?!
自分が言われることが腹立たしいんじゃない。彼が到底言う筈のない言葉、言ったと知ったら絶対苦しむ言葉を、植え付けられた偽物が口にする。
奥歯がカタカタと煩く鳴る。恐怖ではなく怒りによって。
全身の血が沸騰し、身体が異様に熱く感じる。
「なんだ、ちゃんと怒れるじゃないか。お前みたいな間の抜けた女でもそんな顔ができるのか」
「……えし……」
「よく聞こえない。はっきり言え。」
「……返して」
「なんだって??聞こえな」
「スタンさんを返せって言ってんのよ!偽物は出て行け!!クソ野郎っ!!」
ウエストポーチから残りのかんしゃく玉をすべて引っ張り出す。
スタンは、軽侮と憐れみを綯交ぜにした一瞥を送ると、次の瞬間にはロザーナの視界から消える。
ロザーナはスタンの行方を完全無視し、等間隔に並ぶ廊下の窓へ向け、次々とかんしゃく玉を投げ放った。
かんしゃく玉が投げ放たれる度、建物は揺れる。閃光と爆発音で目と耳がイカれそうだ。
「なるほど、お前の狙いは俺の感覚を弱らせ、動きを封じるためか」
「それだけじゃないけどぉ!」
爆発で発生した煙の中から、スタンの姿を視認。すると、軽やかな足音、げほげほと煙に噎せる声が徐々に近づいてきた。
スタンも気づいたらしく、ロザーナへの攻撃を止め、警戒をあらわにさせた。だが、相手が誰かを悟るなり、あからさまに肩を竦めてみせる。
「助っ人どころか足手まといがおでましか」
「さぁ、どうかしらぁ??」
煮えくり返った
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