第86話 綺麗事

 南棟へ近づくごとに大きくなる疑惑と不安を、ミアは否定し続けていた。

 採血直後に全速力で走るなんて本当はやっていけないこと。下手すれば失神しかねないが、身体的辛さよりも不安と焦燥の方が勝り、皮肉にも動力となっていた。


「え、また……」


 隔離部屋がある階へ到着した途端、爆発音と硝子が砕ける音、建物の揺れが起きた。正確に数えた訳じゃないが、三回目くらい??音と爆発の規模から予想するにロザーナのかんしゃく玉に間違いない。

 間違いないけれど──、再び超音波を発生させてみる。


 スタンは吸血鬼城の者たち(例えばヴェルナーとか)に命を狙われていたかもしれない。

 だから、あえて帰ってこなかったのに、結局帰ってきてしまった。

 そして、彼の生存を知った吸血鬼たちが彼を襲いに来た。大胆不敵にも組織の根城へ──、とか??


 ロザーナはスタンを守るために戦ってるだけ。スタンも手負いながら加勢してる。

 最初に自分が飛ばした超音波は誤感知だったかもしれないし。だったら、尚更自分も加勢しなきゃ。

 きっとそう。そうに決まってる!


 しかし、熱感知したのは一度目と同じくふたりだけ。

 あまりに信じ難く、ミアは廊下で足を止めてしまった。


「なん、で……??」


 ふたりが争う意味がまったく理解できない。

 折悪く、急に立ち止まったせいで強いめまいと吐き気に襲われた。

 倒れるわけにはいかない、と、その場にしゃがみ込む。治まれ治まれ、と念じ、気分を和らげる間にまた爆発と揺れが起きる。


「行か、なきゃ……」


 もどかしいほど、ゆっくりゆっくり、顔を上げ、立ち上がる。

 一歩前に踏み出せば、くらり、めまいで視界がぶれる。しっかり!と両手で頬をぱん!と叩き、気合を入れる。直後にまた爆発音が。

 もう気分の悪さは吹き飛んだ。急がなきゃ。急ぎ駆けつけなきゃ!


 隔離部屋付近へ辿り着いたときには、火薬の煙が廊下に充満しきっていた。

 煙に噎せながら、爆発音に混ざって聞こえてきた話し声に耳を疑う。

 でも、混乱している場合じゃないので、一時的に思考を放棄する。そうして見えてきたのは、煙と粉塵と共に流れる銀髪、見慣れた後ろ姿。着物の袖を翻し、滑り込むようにロザーナの隣へ一足飛びに駆けていく。


「ロザー……」


 相棒の顔を見るなり、絶句した。

 澄ました猫のような美貌の左半分が朱に染まっている。


「あ、気にしないでぇ。怪我自体は大したことないのよぉ??血がいっぱい出ちゃっただけだからぁ」


 ミアが受けたショックの意味を察すると、ロザーナはバツが悪そうに笑った。その笑顔は悲しそうでもあり、ミアまで悲しくなってくる。


「それよりミアの方がだいじょうぶぅ??顔色悪いわよぉ??」

「馬鹿か。吸血鬼なら顔色悪いのは当然だろうが」

「もぉー!同じ顔色の悪さでも違いはちゃんとあるんだからねぇ?!」

「ね、ロザーナ……」


 ミアに対してならともかく、スタンがロザーナを馬鹿呼ばわりするなんて。

 益々深まるミアの混乱は、ロザーナの吐き捨てるようなささやきによって治められた。新たな絶望と引き換えに。


「そんな……、でも、ハイディは」

「予備の血液を保管してたんだって」


 ハイディ以外の吸血鬼の仕業、つまり──


「ロザーナ……」

「違う、ミアはなんにも悪くない、なんにも」


 謝っても謝りきれない。たぶん、今の自分の顔は死体より血の気が失せた顔をしているだろう。

 悪くないと言われても、そう簡単に気持ちの切り替えは──


「危ないっ」


 壁際に突き飛ばされた次の瞬間、右手の袖が盛大に引き裂かれた。

 ぱらぱらと落ちてくる粉塵を払い、即座に立ち上がる。反対側の壁際へ視線を走らせれば──、シャツの左肩を真っ赤に染めたスタンが、片手でロザーナの首を絞め上げている。飛びかかってきたスタンから自分を庇ったせいで!


「ほら見たことか。あいつは足手まといじゃないか……」


 スタンが皆まで言い切る前に、彼の頭上高く、電流黒棒を放り投げる。

 わずか数秒程度の時間稼ぎ。だが、ミアには充分だった。


 スタンが反射的に黒棒を見上げた。その数秒程度の隙に乗じる。

 姿勢を低め、走り込む。床に片手をつき滑り込み、ふくらはぎへ一発蹴り入れる。想定よりも当たりは強く、スタンの膝が折れ、右手がロザーナの首から離れる。

 ロザーナはその手を振り払い、傾いたスタンの身体を押しのけ、ミアを引き起こそうとした。しかし、スタンはすぐに体勢を整えると彼女を抑えつけ、壁際へと再び追い詰める。


 早く、早く何とかしないと。落下してきた黒棒を宙で掴み取ろう──として、何度目かの、これまででいちばんキツイ眩暈に襲われた。黒棒は伸ばした腕をすり抜け、床に転がった。ミアもとうとう膝から崩れ落ちていく。


「こんな、ときに」


 拾いたいのに、ほんの少し動くだけで吐きそうになる。右手の、裂かれた着物の袖に血が滲み出ている……、だけでなく、腕から指先へ血がだらだら伝い、痺れも感じ始めていた。


 なぜ、自分はいつもこうなんだ!肝心なときに限って役に立たない!

 だが、今回ばかりは嘆く前に死ぬ気で動かなければ、ロザーナが、危な──


 重くなる一方の頭痛と吐き気に苛まれながら、ふらふら、立ち上がる。途中、がくっ、と膝が折れかけたものの、どうにか立っていられる。


「スタン、さん……??」


 白く靄がかった視界でミアはある変化に気づく。スタンはロザーナから離れ、ミアの方へ向き直っていた。

 薄青から柘榴色へ変化した瞳、下唇まで伸びた鋭い牙。牙を伝って垂れ落ちる涎。

 ふー、ふー、と、鼻息荒く肩をいからせる様も相まって全身が総毛立つ。異様さに圧倒されつつ、自らの右腕を濡らす血の臭いに不快を催す。しかし、自分は不快でもスタンにとってはどうか。

 あぁ、そうか。スタンがこちらへ向き直った理由は自分にあるとミアは理解した。


 スタンは右手でこきり、首を鳴らし、舌なめずりした。まずい、理性より本能が勝っている。

 逃げて、と、ロザーナの口が開きかけ──、悲鳴に切り替わった。

 ミアに向かって伸ばされた片腕を避ける余裕が、残っていない。

 スタンを拘束しようとロザーナも動くが、間に合いそうにな──、


 何者かが息せき切り、こちらへ駆けてくる。誰、と思ううちに、スタンは横方向へ吹き飛んでいった。


「ムッツリ!!おま、なにやってんだよっっ!!!!!」

「ルーイくん?!あ、」

「ミア姉はちょっとじっとして!」


 眩暈と貧血で身動き取れないなりに状況を整理。

 ミアに襲いかかったスタンを、逆にルーイが飛びかかって床へ落とし、馬乗りになって彼を抑え込んでいる。


「おまえ、ホント、どうかしてるんじゃないの?!仲間襲うとか、ありえねー、絶対ありえないっ!しかもロザーナの……、いって!」

「ミア、だいじょうぶ??立てるー??」


 ロザーナはミアの下へ歩み寄り、手を差し伸べた。素直に甘え、差し出された手に掴まり立ち上がる。


「ルーイくん、あの」

「あのねぇ、ルーイ。スタンさんはねぇ」


 普段通りの口調でロザーナは、手短に事の経緯をルーイに語る。

 スタンと格闘中のルーイが話しに耳を傾けるのは至難の業では、と余計な心配がよぎったが、「まーたハイディかよぉおお?!いい加減にしてくれよなぁ?!」とこの階中に響き渡る叫び声を上げた。頭痛が酷いのでちょっとカンベンしてほしい。


「ミア姉、ロザーナ!俺が抑えてるからさ、今のうちに伯爵グラーフに報こ……、うわっ!!」

「ルーイくん!」


 ルーイとスタンの位置が反転。スタンはルーイを抑えつけ、この場にいる者全員に歯を剥き威嚇する。


 どうすればいい??

 どうすれば、スタンは、正気を、本来の自我を取り戻す。

 どうすれば──、ううん、どうすればいいかなんて、もう、気づいてる。


『ハイディと一緒になりたくない』想いは変わらない。全然変わっていない。

 でも、守るべきはプライドや綺麗な理想論じゃない。仲間の尊厳と命が何よりも大切で最優先すべきもの。

 必ず守れるかは──、やってみないと分からない無謀さを秘めているが、試さないよりは──


 血を吸収し、重くなった袖を肩口までまくり上げる。血の臭いを嗅ぎつけ、スタンは徐にミアを見上げてくる。

 全面赤に染まり、白い部分が見当たらなくなったガーゼを引き剥がす。

 そうして、採血痕からまだ出血が続く腕を、スタンへと突き出してみせた。

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