第87話 脱皮

 ロザーナとルーイが止めようと動くよりもずっと速く、スタンはミアの右腕に噛みついた。

 突き立てられた牙、吸血の痛み。加えて何度目かの貧血に耐えながら、スタンを引き離そうとする二人へ左腕を伸ばし、制止する。


「ミア姉?!何かんがえ……」

「ミア、まさか……」

「ロザーナごめん」


 菫の双眸に冷たい怒りが宿る。一瞥のみで氷漬けにされそうだ。

 でも引くわけにもいかない。ミアも負けじとロザーナを睨み返す。

 険悪な雰囲気を醸し出すミアとロザーナに、え、え??とルーイは戸惑いを隠せない。


「本当にごめん。スタンさんを戻すにはもう、これしかない気がして。わかって」


 話す間に、スタンの牙はより深く突き立てられていく。

 ロザーナは脂汗をたらたら流すミアと、貪るように吸血するスタンを見比べ──、大きく苦いため息を露骨に吐いてみせた。


「……わかったぁ。その代わり、絶っ対に成功させてねぇ??」

「し、失敗したら??」

「絶対、でしょお??いーい??成功以外、あたしは絶対認めないし許さないからぁ」


 底冷えする冷徹さから一転、ロザーナはぷんっ!と頬を膨らませ、思いっきりミアから顔を反らした。ルーイはあえてスタンにミアの吸血させていると理解……、というより、どうにか納得したようだが、更におろおろ、うろうろと挙動不審に陥っていく。


「スタンさん……、ハイディの支配からどうか外れて。元に戻って。私はあなたを強制支配する気なんてないの。元のスタンさんに戻ってくれれば、それでいいから……!」


 また視界が白くなり始めたし、閃輝暗点がちらついてきた。気を抜くと遠のきそうな意識、倒れそうな身体を気力を奮い起こし支える。

 しかし、限界は意外に早く訪れた。耳鳴りと強い眩暈によろめき、尻もちをついた弾みでミアの腕からスタンの牙が外れてしまった。


 どうしよう!スタンの様子にまだ変化が見られないのに!

 もう一度、もう一度腕を突き出せば、また食らいつてくるかな。


「スタンさん……??」


 スタンは床に突っ伏したまま、つい先程までの暴走が嘘のように微動だにしない。息をしてるかすらも怪しく思えてくるくらい、静かだ。

 様子を窺いたいが、貧血で頭も身体も思うように動いてくれない。甘えて申し訳ないが、それとなくロザーナへ、ちらと視線を送る。

 ロザーナは一瞬でミアの意図を汲むと、警戒しつつスタンの傍へと膝を寄せた。


「スタンさん??」


 ロザーナが遠慮がちにスタンの背中を擦る。反応は……、ない。

 再び背中を、さっきより大きく揺さぶる。肩が少しだけ跳ねた。


「ね、スタンさん??……あっ」


 床に伏せていたスタンががばり、勢いよく身を起こす。

 ロザーナとルーイが驚きと警戒で距離を取る中、大きく見張った目は柘榴色から元の薄青に戻っていく。


 もしかして、ハイディの強制支配が外れたのか。

 思わず三人で互いに視線を交わし合う。


 引き続き様子を窺っていると、血で汚れ、半開きになった唇がわなないた。

 震えているのは唇だけじゃない。手も背中も足も。全身がひどく震えている。

 正気に戻ったのか??それならひと安心……、でもない。正気に戻ったら戻ったで再び厄介な事態が発生するのは火を見るよりも明らか。その前に──


「ルーイ!スタンさんの意識を落とし……、あっ」

「うわあっ!」

「しまった!」


 ロザーナとルーイ、二人掛かりの拘束を躱し、スタンは必死の形相で駆ける。かんしゃく玉で破壊された大窓へ駆ける。

 ロザーナとルーイに続き、ふらつきながらミアも慌てて後を追う。だが、三人が追いつくより先にスタンは窓の外へ、飛び込んだ。


 ロザーナの悲鳴が階一帯に響き渡った。

 三人分の伸ばした手はスタンに届かない。もう間に合わない──

 誰もが最悪の結末しか想像できなかった。



「全員下がれ!」


 隣の大窓付近から、太く低い声での叫び。

 この声の主が語調を荒げることは滅多にない。滅多にないせいで、図らずもミア達は反射で窓辺から離れていた。にしても、がいつ、ここへ来た(状況的に侵入が正しいかもしれない)のか全然誰も気づけなかった!

 声の主、もといカシャは窓枠に足をかけ、腰に巻いた縄を素早く回すと落ちていくスタンめがけて投げ放つ。輪になり、拡がった先端はスタンの身体を絡めとり、抵抗を許す間もなく締めつけた。


「口に何か突っ込んでくれ!」


 スタンを引き上げるなり、カシャは再度叫ぶ。ルーイは慌てて自らのシャツの袖を裂き、丸めたものをスタンの咥内へ強引に押し込む。待っていたかのようにカシャは膝をつき、廊下に転がしたスタンの首筋に手刀を入れる。意識を失くしたスタンを囲み、誰もが安堵で脱力した。


「イェルクと伯爵グラーフを呼んでくる。お前たちはじっとしていろ」

「あ、あの」


 立ち上がったカシャを呼び止める。ミアが問うより先に、察したカシャは端的に答える。


「一旦仕事に出ようとしたが、胸騒ぎがして途中で住処に戻ってみたら……、南棟から煙が上がっていた。正面玄関入って中から南棟向かうより、外壁這い上がって向かう方が早いと判断した」

「這い上がるぅぅうう?!」


 素っ頓狂なルーイの大声に耳を塞ぎ、カシャが入ってきた大窓付近を注視する。


「カシャさん……、命綱は」

「ない。なくとも、この城の外壁くらい登れるだろう??」


 顔に傷持つ強面がきょとんと首を傾げる様はかわいらしい、といえなくも、ない。が、不思議がる内容はそこそこ物騒である。ルーイは「スゲーんだかこえーんだかわかんねー……」と軽く引いていた。


「お喋りはもうやめだ。とにかく、三人ともここで待機」


 意識ある三人を順に見回すと、カシャは今度こそ背中を向ける。

 服を着ていてさえ分かる、筋骨隆々な背中を見送ったあと、三人は揃って床へ倒れ込んだ。


「ど、どうなることかと思った……」

「う、うん。でも、とりあえずは良かった、の、かな……」


 ルーイのつぶやきに答える形で独り言ちてみたが、いちばんの心配はスタンの処遇。

 ヴェルナーの言葉が真実で、ノーマンの憶測が本当なら──、ミアはスタンを支配できている筈。でも、支配できていたとして、組織にとって、なによりロザーナにとって納得できるものでなければ。


 そうだ。ロザーナは。

 身体の向きを変え、おそるおそるロザーナの様子を窺う。


 ロザーナは、完全に自失したスタンを抱きしめる形で寄り添っていた。

 目を伏せ、伸びた鈍色の髪を指で梳く姿に、今は話しかけない方がいい、と、元の姿勢に戻りかけた、が。


「ミア」


 消え入りそうな声で呼び止められる。


「な、なに??」


 振り向くことなく答える。

 しかし、そこから先、ロザーナの言葉は途切れた。

 ミアは黙って待った。続きは言いたくなったら言えばいいし、逆なら無理に言う必要はない。

 ミアとロザーナ、ふたりの空気に当てられたのか、ルーイも一言も発さない。粉塵がぱらぱら舞う音だけがときどき、空しく響いていた。


「ミア」


 二度目の呼びかけ。やはりか細く儚い呼び声に、今度はあえて返事しなかった。


「ありがとぉ。ごめんねぇ……」


 違う。ロザーナは謝ることなんてない。ひとつもない。

 謝るのはむしろ──


 という言葉は、口に出す直前で飲み込まれた。

 カシャに引き連れられ、ノーマンとイェルクが駆けつけてきたからだ。



 ごめんって言わなきゃなのは、むしろ私の方。

 ロザーナだけじゃない、スタンにも。ふたりだけじゃない、みんなにも。

 でも、嫌というほど分かってしまった。


 ちっぽけな正しさを振りかざすだけじゃ、何も守れないって。










*これにて七章終了。

少しお休みいただきまして、最終章開始したいと思います。

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