第126話 決着のとき

(1)


 ロザーナに支えられながらゆっくりと身を起こす。

 本当は立ってしまいたかったが、大量の失血と全身の痛みで半身起こすだけでやっとだった。

 もっと言えば、気を抜くと今すぐ眠りに落ちそうなくらい強い眠気が押し寄せている。

 さっさとハイディに強制支配の言葉をかけ、一刻も早く休んだ方がいい状態だろう。


 それでも。

 無理を押してでもミアはハイディに言いたいことが山のようにあった。

 全部を伝えきるには体力と時間が許しそうにないが、言えるとこまで言いたかった。


 当人であるハイディも身体のあちこちから血を流し、床に長い爪を立て、うつ伏せから起き上がろうとしていた。


 だが、ミアみたいに助けてくれる者など誰一人いない彼女は自力では起き上がれない。

 無理に力を振り絞り、何度も身を起こそうとしてもできず。終いには床に立てた爪が何枚も割れ、指先に血が滲みだす。


「ハイディ。もう、おとなしくして。本気で死ぬよ」

「……誰のせい、だと、思ってるわけ。あんたたちが」

「なんでもかんでも人のせいにしないで。傷つける以上、傷つけられる覚悟はあって当たり前だよね」


 うつ伏せで顔のみを上げ、ハイディは下から睨み上げてくる。

 動けないのなら、せめて目線で殺してやると言わんばかりに。


「あんた……、馬鹿なの、死ぬの??なんで……、私まで傷つかなきゃ、いけないのよ」

「……質問変える。なんでそんなに人を傷つけたいの。傷つけてまで何がしたいの」

「やめておけ!この気狂い女には常識も道徳もまるで通じやしない!!時間の無駄だ!!」


 見兼ねたスタンの苛立ちに満ちた呼びかけに、ミアは「そんなの、わかってる……」と歯噛みする。

 ミアのつぶやきに対し、背中を支えるロザーナまでが無言で首を振ってくる。


「ミアはわかってない。ハイディマリーが人を傷つけることに意味なんてない」

「ロザーナまで……」

「ごめんねごめんねぇ……。そうねぇ、しいて理由挙げるとしたらぁ……、ハイディマリーは傷つけて優位に立つことでしか自分を肯定できないの。自己満足を得たいだけなの。その先のことなんて、なぁんにも考えてないの」


 そんな、と反論しかけて口を噤む。

 笑顔を消し去ったロザーナの左頬にはハイディが残した、文字通りの爪痕。

 白い柔肌に斜め走る大きな三本傷はいずれも深く、皮膚だけでなく肉まで達していた。


 適切な治療したとて今後も痕を残すであろう大きな傷。人並外れた美貌を損なわせる傷跡を凝視し、固まるミアにロザーナはようやく眉尻を下げ、少し表情を緩めた。


「前にも同じようなこと言ったかもだけどぉ……、ハイディマリーはねぇ、永遠におもちゃを欲しがる子供でしかないの」

「おもちゃを欲しがる……、子供??」


 たしかに以前、メルセデス邸でハイディを追いつめた時もロザーナはそのような話を口にしていた。


「でもね、結局どんなおもちゃが欲しいのか全然わかってないの。だから手に入れても手に入れても満たされな……」

「……うるっ、さい!!」


 青緑ターコイズの双眸がぎらぎらと殺意で濁った輝きを宿す。

 ミアがまだ賞金稼ぎになる前、否、メルセデス邸で対峙したときですら、恐怖を感じた青緑が、今じゃちっとも恐ろしいと思わない。むしろ──、哀れみする覚えてしまう。

 ロザーナもミアと同様、ハイディに向ける目は憎しみよりもどこか哀れみが勝っている、気がする。


「ハイディ……」

「上から見下して、んじゃ、ないわ……、よ……」


 見下すも何も、上体を起こすミアとうつ伏せのハイディでは自然、そういう形で向き合うことになる。別に見下しているつもりなどまったくない。


「ハイディがずっと人を見下してきたから、そう見えてしまうんじゃないかな」






(2)


 ハイディマリーの爪が一段と深く床にめり込んでいく。

 右の人差し指から薬指、左の小指の爪の割れ目は更に深く裂け、やがて剝がれた。

 青白い指からぽたり、冷え切った床にぽたり。

 ぽたり、ぽたり、深く濃い赤が垂れ落ちる。


「私より愚かな奴見下して、何が、悪い……。ミアの癖に知った風な口利くな。人間の世界に憧れと言う名の現実逃避していた癖に。吸血鬼の世界に馴染めなくて逃げ出しただけの癖に」


 言葉を詰まらせたミアにいい気味だと内心で嘲笑う。


「血統と先祖返りの能力だけが取り柄の癖に。自分自身の力で築き上げたものなんて何一つない癖に……」

「それはあんたも同じでしょお??」


 気の抜けた口調の割に辛辣な響きを持つ声。

 ミアからロザリンドへと殺意を迸らせた視線を投げかける。

 しかし、ロザリンドは腹が立つほど平常通り、頭の悪い喋り方で尚も続けていく。

 顔の醜い傷にも堪えた様子が微塵も感じられない。


「うーん、全然同じではないかぁ。言っておくけどぉ、うち双頭の黒犬の精鋭は誰でも簡単になれるわけじゃないしぃ、身体的にも精神的にもきっつい場面はかなり多いしぃ。吸血鬼の能力だけでやってけるほど甘くないわよぉ??そこ勘違いしてくれちゃ困るわねぇ」


 だから??と言いかけたが、口を挟ませない勢いでロザリンドが言葉を被せにかかってくる。


「ミアとあんたの決定的な違い、教えてあげよっかぁ??ミアは自分が一人で生きるには心もとないって自覚してるけど、あんたは知らないし考えもしない」

「で、だから??何が言いたいのよ。相変わらず頭の悪い……」

「知ってるからミアは周りと信頼関係を築くことができる。けど、あんたにはそれができない。いつまでたってもひとりぼっち」

「は……、何を言い出すかと思ったら……!」

「うん、わかる。あんたがこれから言おうとすることは手に取るようにわかる。信頼関係なんてくだらない、クソくらえって思ってる。だって、あんたにとっての他人は見下して、従わせて、都合よく扱うだけのためにある。そうでしょお??」

「当然よ」


 間髪入れずに答えてやるとロザリンドはごく一瞬のみ残念そうに目を伏せ、即座に表情を引き締めた。


「ふうん。じゃあなんで、いつまでたっても自力で起き上がることすらできないのぉ??一人じゃ何もできない。誰とも信頼関係築かない。どちらかを変えようとする努力もしない」

「うる、さい」

「本当のあんたは他の誰よりも弱い。違う??」


 限界点を突破した上、更に上を越えていく怒りは却って頭の中を真っ白に塗り変えていく。

 これほどまでに筆舌し難い、強烈な屈辱を感じたのは十九年間の人生初めてである。


「あたしは一人でも生きていける。あえてする必要がないからしないだけ。あんたと違ってねぇ」


 醜い傷跡があるにも拘らず、言葉と裏腹なロザリンドの笑顔は自信に溢れ、息を飲む程に美しかった。


 この笑顔が世界で一番疎ましかった。

 叩いても殴っても蹴っても。詰っても嘲笑っても怒鳴りつけても。

 何をしても消えることのない、確固たる強さを奪ってしまいたかった。心から跪かせてやりたかった──



「なんだ、そうだったの……」


 ミアの消え入りそうなつぶやきが耳を掠めていく。

 我に返り、ロザリンドからミアへと凄みある目つきで視線を移す。ハイディマリーの目つきなどまるで意に介さず、ミアはまた独り言めいた言葉を発した。


「ハイディはロザーナの強さが怖くて……、心底羨ましかったんだね」

「……は??」


 私がロザリンドを??

 怖い??羨ましい??


 違う。

 跪かないのが癪に障るだけ。泣いて赦しを乞わせたかっただけ。

 己の価値がどれだけ低いか知らしめたかっただけ。


 ミアが投げかけてきた言葉の意味など全然理解したくない筈なのに。

 頭の中で幼少期にロザリンドと過ごした時のことが、濁流のごとく流れだす。


 生まれも生活も容貌も才智も、太陽のように輝かしいのはハイディマリーの方なのに。

 美貌以外は底辺、常闇に寂しく浮かぶ月のように孤独なのはロザリンドの方なのに。


 ハイディマリーは常に怒りと苛立ちに駆られ、ちっとも満たされない。

 足りないものだらけの筈のロザリンドは常に幸せそうに微笑んでいる。




 なんで──??






「わぁあああああああ!!違う!絶対違う!認めない!絶対に認めない!!!!」

「ハイディ?!」


 額を床にこすりつけ、ハイディマリーは狂ったように叫んだ。


 私がロザリンドを怖がることも羨ましがることも絶対に、絶対に有り得ない。有り得て堪るものか!

 この女は自分にとって言葉も文化も相容れない、遠い異国の野蛮人みたいなもの。むしろ良い様に奴隷扱いしてしかるべき。


「奴隷同然のお前なんか怖くも羨ましくもない!さっさと跪いて足を舐めろ!!ロザリンドだけじゃない!男どもも!お前ら全員やれ!!」


 叫びすぎて、激しく咳き込む。喉もすっかりカラカラだ。

 もう一度睨みを利かせようとして目を瞠る。

 霞む視界の中、ロザリンドとミアはハイディを憐憫の目で眺めている。


「そんな、目で見る、な!」


 ぐるり、視線を彼女たちから逸らし、更に遠くへ──、スタンとヴェルナーの方へ。


「お前たちも、そんな目……、やめろ!!私は、私は私は、わたし、は……──」


 ロザリンドとミアと同じ意味合いを持つ視線に気が触れそうだ。


「わたし、」

「もう楽になろっか、ハイディ。おやすみ。もう二度と誰一人、人間も吸血鬼も傷つけないで。すべての罪を、自分の弱さを……受け入れて」


 耳を塞ごうと思ったのにもう間に合わない。

 誰にも触れさせなかった己の核が奪われていく。絶望的な錯覚に襲われていく──






(3)


「ミア」


 強制支配の言葉を口にしかけた時、よろよろと近づいてきたスタンの手が肩に置かれた。


「こいつはもう支配する必要なんかない」


 頭を振るスタンから蹲ったままのハイディをちらと見返し、悲しそうに頷いてみせる。


 ハイディは蹲ったまま独りで笑っていた。

 ミアたちに向けてか、己自身に向けてか。


 ただ、完全に正気を失くしてしまったことだけは確かに伝わってきたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る