第125話 終焉の兆し

 激しい怒りと苦痛で顔を歪めつつ、床に叩き落ちることなくハイディは蝙蝠羽根を拡げた。

 ぜえぜえと荒い呼吸、きつく押さえた左肩は血でぐっしょりと濡れそぼり。ロザーナに刺突された左足からもぽたぽた、ぽたぽた血が滴り、漂う血臭にくらりと眩暈がした。


 この芳しい匂いに捕らわれてはいけない。ハイディの血を口にしたら再び酷い発作を起こしてしまう。

 発作以前に吸血なんてしたら最後、全てを裏切り、水泡に帰すことになる。


 ホルスターからペイント銃を引き抜く。構えると同時にハイディの顔面を狙い、撃ち放す。

 がくん、と膝から崩れ落ちるように……見せかけ、ハイディの高度が下がる。顔面こそ外れたが、弾はわずかに彼女の側頭部を掠った。


 致死性なしのペイントが掠る程度であっても、まったくの無傷じゃいられない。

 激烈な異臭が沁みついた黄金の髪はペイントの赤の他、ハイディ自身の血も確実に混じっているだろう。

 かつてミアも訓練で思い切り当たったことがあり、あの時も臭いと共にごく小さく怪我も負った覚えがある。何より赤く汚れた髪から香る、ごくごく微量な血の匂い。惑わされるな。


 ミアより低い位置にて滞空するハイディは身体ごと右へ左へ、大きく横へ揺らす。今にも落下しそうだ。失血の加減で意識も朦朧としかけている。


 今なら、飛びかかってもハイディに避ける力は残されていない。

 飛びかかったらすぐさま電流黒棒を叩きつけ、気絶させる。

 そしたら、ハイディを抱えて下に降り、拘束する。


 ハイディが何度も目をしばたたかせている。

 目ももう、よく見えていないかもしれない。


 蝙蝠羽根を拡げ、羽ばたかせ──


「いたっ!」


 ロザーナへ踏み台代わりに差し出した右肩の痛みが急に増した。

 しかし痛みを堪え、改めて羽根拡げ。庇うように肩にわざと力を入れ、黒棒ごとハイディへ腕を振り下ろす。


「え」

「……馬ぁ鹿。利き腕の肩、痛めでもした??……ご愁傷様!」


 振り下ろした腕は渾身の力を持って弾かれ、黒棒を握りしめる力が弱まった。

 ハイディにまだ抵抗を試みるだけの気力が残されていたなんて!


 驚いたほんのわずかな隙──、相手が人間であれば隙にすらならない短さになるが──、ハイディはミアの痛む右肩を、長い爪で切り裂き、細い首筋に牙を突き立てる。


 ロザーナの悲鳴とスタンとヴェルナーの怒号が入り混じり、耳をざわつかせる。


 ハイディは墓穴を掘った。

 ミアの血を吸えば、逆に強制支配の力で彼女を制御できるじゃないか。


「……ハイディ。もう、おとなしく、し……、ぐっ」


 しまった。

 スタンの時と違い、首から吸血されているせいでうまく喋れない。

 ハイディもそれを見越して首に噛みついただろう。ただ吸血するだけでなく、首を両手で締めつけさえしてくる。強制支配の言葉を言わせず、失血死させる気だ。


 電流黒棒が力なく落下していく。

 目がかすみ、頭が朦朧してくる。肩の痛みも吸血される痛みもだんだん薄らぎつつあるが、負けちゃいけない!


 残されるはついさっきホルスターに戻したペイント銃。

 激しく痙攣する腕を、指先を伸ばし、懸命にホルスターへ手を伸ばす──、届かない。


 ハイディが血を啜りながら耳元でフッと嘲笑わらう。

 ミアが銃を取ろうとするのに気づきつつ、どうせ無理だと高を括っている。

 届いたとして撃たれる前に叩き落とす自信もあるのだろう。だからと言って諦めるつもりは毛頭ない──


「ミア!!!!」


 柔らかく甘い声が力強くミアの名を叫ぶ。

 たったそれだけのことで朦朧としていた意識は瞬時にはっきり目覚め、直後、手元で何かが空を切った。


 正体も全然わからないのに。

 ミアは声の主が放り投げた何かを、無我夢中で受け取っていた。

 何かが短剣バゼラルドだと知った瞬間、柄をきつく、きつく握りしめ。再び無我夢中でハイディの片翼を渾身の力を込め、刺し貫く。


「ぎゃっっ!!!!」


 大きく背中を仰け反らせ、ハイディはようやくミアの首筋から離れた。

 ぶるぶる震える華奢な肩をがっちり掴み、ミアはぐるん!とハイディを抱えて急降下。ハイディを床へ投げ捨てると、ミア自身もほぼ倒れ込む形で転がり落ちる。


「ミア!!」

「……ロザーナ、これ、ありがと……」


 全身震わせ、這うように起き上がるついでにロザーナへ短剣を差し出すと、無言、無表情でひったくられた。


「は、刃こぼれとかし、てたら」

「そんなことどうでもいいっ!冷や冷やさせないでぇ?!」

「う……、ご、ごめん」


 ロザーナは頭から噴煙上がる勢いだったが、差し出された手の温かさに心底ホッとした。


「起き上がるのはゆっくり、ゆっくりでいいからぁ、ね??……相当吸血されただろうしぃ」

「う、うん……」

「スタンさんとおじいちゃんも心配してたんだからっ!ねぇ??」


 ロザーナがくるっと振り返った先では、スタンとヴェルナーが遠巻きに二人を眺めていた。

 ロザーナの言う通り、ミアの少しかすんだ視界でも、平静を保ちつつどことなく心配そうなヴェルナーと鋭い目を更に吊り上げ、怒りを押し殺すスタンの顔が確認できる。


「ごめんねぇ、二人にはミアの血の匂いがすごく強く感じるみたいでぇ。お互いのために少し距離取りたいって」

「ロザーナ。少し違う。ミアは仲間だから耐えるが、そこでくたばってるクソ女が撒き散らす血臭は憎しみ余って耐えられる気がしないだけだ。俺もじいさんもな」

「……相手が誰だろうと吸血は絶許だからねぇ」


 ロザーナがスタンに向け、不自然なくらいにこやかに微笑む。


「そ、そうだ。ハイディは……」

「そろそろ意識を取り戻す頃、かもぉ??あ、捕縛はあたしがやるからミアは休んでて!」

「あ、ロ、ロザーナ……」

「んー、なあにー??」


 振り返ることなく、ハイディの拘束を始めたロザーナの背中に呼びかける。


「強制支配する前に、ハイディに言いたいことがあるの」

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