第96話 嵐の前の静けさ①
(1)
仕事は控えろと言われたけれど、訓練までは止められていない。
『腕さえ使わなければ、例えば走り込みなら問題ないですよね??』
半ば強引にイェルクを押し切った感は否めないが、麓から住処の城までの走り込みの許可は得た。なので、早速翌日からミアは日の出と共に走り込みを始めていた。
山の稜線に添って朝日が差し込み、渓谷と山の狭間で太陽が顔を覗かせる。
薄闇が溶けきっていない麓から朝日に輝く白亜の古城目指し、整備されていない山道を走り出す。
息を弾ませ、白い胴着の袖と黒い袴の裾を揺らし。乾いた空気を肌で感じ、夜明けの紫の空の美しさにほぅ……と息を吐く。
吸血鬼は夜の世界を好みがちだが、ミアは朝の世界の方が断然好きだ。
世界を黒く覆いつくす闇より、明るく照らす陽光の方が──
「また怪我したんだって??バカじゃないの」
「へ……??」
朝の爽やかな光景に浸っていたのに。後方から追いついてきたアードラの一言で気分が台無しになった。じとりと睨み、無言で抗議の意を示しても彼にはまったく通用しないのが余りに残念だ。
「いつになったら詰めが甘いの直るのかなぁ。うちに来てもうすぐ四年だよね。学習能力ないんじゃない??」
続けざまに毒を吐き散らされムカッとしつつ、事実なので黙っておく。というか、わざわざ並走せず、さっさと先行ってほしい!
「お前も人のこと言えないだろ」
今度はスタンがふたりを追い抜き様、アードラの左頬を横目にちらり。
大変珍しく言葉を詰まらせたアードラの左頬にはでかでかと大判の湿布が。
「暴走したラシャ止めたときにたまたまブラックジャックが当たっただけ。事故だし」
「言い訳だな。避けられなかったお前が悪い」
「スタンだって昔ラシャの金的まともに食らったことあるくせに」
「何年前の話だっ!」
「僕のが事故じゃない、不注意って言うならあれもスタンの不注意だよね??」
「本当に口の減らない奴だな!!」
「あの……、並走しながらケンカするの、やめてもらえません……??」
「お前は」「ミアは」
「黙ってろ」「黙ってて」
いや、むしろ二人が黙って!わざわざ隣でケンカしないで!!
こうなったら自分が速度を上げ、ふたりを追い越し、引き離そう。
まだ中腹だし、最後まで体力残したいけどしかたない。
「えー、オレからしたらどっちもどっち。油断するから悪いんじゃないのー??」
いがみ合いながら並走するスタンとアードラ、速度を上げかけたミアの横を、ルーイが颯爽と駆け抜けていく。
「ちょ、ルーイくん?!」
「おいクソガキ。今のは聞き捨てならんぞ」
「ルーイのくせに生意気。誰にそんな口きいてんの??」
あわわ、何てことを……と青ざめるミアだが、ルーイはすでに遥か前方へ、豆粒にしか見えない程遠くなっていた。
「追いついたら即シバかなきゃね」
「まったくだ」
アードラとスタンが一気に速度を上げ、ミアをぐんぐん引き離していく。
もう少し先へ進むと道の勾配がきつくなるのになぁ、と心配しながら、ふたりの背中を黙って見送る。その際、スタンの左腕、Tシャツから伸びる機械義肢の腕が目に留まった。
『今は無理でもまたいつか実戦に出られるように』と、スタンは現在失った左腕に機械義手を装着していた。そして、力を解放したスタンを抑え込めたルーイが今、再び賞金稼ぎとなるべく訓練に励みだしている。
組織内で状況が少しずつ変わってきている。自分も少しずつ変わっていかなきゃ。
例の、標的が吸血鬼だった場合に使う赤いカプセルはミアの血を使い、吸血鬼の犯罪者を制御する物。ある種の人体実験であり以前なら相当な抵抗を覚えていた。今だって抵抗感は拭いきれない。でも。
ハイディが生きている以上、対抗する術を持たなければ。
ハイディだけじゃない、彼女に支配された吸血鬼達への警戒も。
あれから──、スタンが暴走した時以降、ハイディやヴェルナーたちは目立った動きを見せなくなった。しかし、忘れた頃に事を起こす可能性だって充分あり得る。
組織内の変化だって良いことばかりじゃない。スタンの戦線離脱はやはり大きな痛手だし、ここ数か月間で
変わっていく状況にただついていくだけでは駄目。
自分も変革(なんて言うと大それた感じだが)を起こさなきゃ。
駆ける速度を速める。
三人の姿は視界からとうに消え去っていた。
自分も早く追いつかなきゃ。
更に速度を速めようとした矢先、ミアの鼻先に冷たい雫がぽつり、落ちてきた。
(2)
山の天気は変わりやすい。
あの後、雨の気配に全速力で住処の城目指して走ったけれど、到着する頃には見事な濡れ鼠。
皮肉なことにざんざん降りの大雨も一時的に過ぎず。ミアが城の玄関ホールに飛び込むと同時に雨が上がった。なんて間が悪いの!
ぐずぐずと鼻を鳴らし、城内の廊下をぱたぱた、小走りで駆ける。
水分を十二分に吸いつくした衣服がやたら重い。芯から冷え切った身体から更に熱を奪っていく。一歩進むごとに、髪や衣服からとめどなく伝う水滴、靴跡が絨毯に沁みこむ。
一刻も早くシャワーを浴びて体温を取り戻さなきゃ。
でも待って。ひょっとしたら、今は随分先を走っていた男子たちがシャワー室を使用中かも。
「くっしゅん!」
寒くて寒くて、がたがた歯の根が合わない。
とりあえず自室へ。最低でも着替えだけは済ませたい。シャワー室へ向かうにしろ替えの衣類は持っていかなきゃ。
「くしゅんくしゅん!はっ……くしゅんっ!!」
もうっ!くしゃみが飛び出す度に足が止まっちゃう!立ち止まる時間も惜しいのにっ!!
「はっ……!」
「……さっきから誰だ……??」
何度目かのくしゃみの途中で近くの扉が開く。
自室に早く戻りたい一心だったので、イェルクの私室の前を通り過ぎようとしていたと初めて気がついた。
「く……、あ、止まっちゃった……??」
「…………ミアか…………」
イェルクさん、と呼びかけて一瞬口ごもる。
「あの……、顔、真っ青ですよ……??どこか具合でも」
顔色が悪いだけじゃない。
声も普段と比べ物にならない程小さく、額や首筋に冷や汗が滲んでいる。
ハーフアップにせず下ろした髪や着流しの襟元の乱れ方から寝ていただろうことが伺えた。
「あぁ……、雨が近づいたせいだろう……。古傷が酷く疼いて痛んでな、少し……休んでいた」
傷が疼くだけじゃない。ここ数か月、イェルクは組織内の新しい変化への対応に奔走していた。
医療行為や武器開発などの通常業務も怠らない。たぶん、睡眠不足や過労がピークだったかもしれない。
眼帯を外した右目の無残な傷跡からさりげなく視線を逸らす。
怖い訳ではない。目線を向けていいものか迷ってしまうのだ。
「あ!じゃあ、私のくしゃみ、うるさかったかも……、ごめんなさ」
「いや……、気にしないでくれ……。それより……、少しそこで待ってなさい……」
戸惑いながら、半開きの扉の前で待つこと一、二分。
大判のバスタオルを三枚ほど手渡された。
「え、あ、ありがと……」
ありがとうございます、と皆まで言う前に、ミアの鼻先で扉は閉まってしまった。
えっと……、あの……、など意味をなさない言葉をいくつかつぶやくも、今はそっとしておき、後日改めてお礼を言おうと心に決めると。
ミアは遠慮がちに借りたタオルの一枚を頭から被り、わしゃわしゃ髪を乾かしがてら再び自室へと向かおうとした、時だった。
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