第80話 違和感①
(1)
「廊下が騒がしいな」
イェルクが扉へ向けた視線を慌てて追う。同時に扉の外へ耳を澄ませる。
怒気を交えつつラシャが何度も呼びかける名に、心臓が大きく跳ねた。ラシャの呼びかけの合間を縫うように、アードラも同じ名を呼んでいる。
「ミア??」
「イェルクさんも一緒に来てくださいっ」
ミアは立ち上がると、イェルクの羽織の袖を強引に掴み取った。唖然としながらも、イェルクは黙って腰を上げる。
振り払われないのをいいことに、ミアは袖を掴んだまま扉へ向かう。されるがまま、あとに続くイェルクの表情が途中で改まった。ミアが聞き取った名を、彼もまた聞き取ったようだ。
深紫の袖が振り払われる。一瞬の隙にイェルクはミアの先へ進み出て、一足早くドアノブを掴む。
待って、と声を掛ける前に扉が大きく開かれる。
「アードラ!!ラシャ!!よくやった!!よく見つけた!!」
医務室から廊下へ出るなり、イェルクは長い長い廊下中に響き渡る声で叫んだ。
「現状どうなってる!?」
「瀕死もいいとこだけど生きてる!!ちゃんと生きてるわよ!!」
半泣きで怒鳴り返すラシャに、イェルクの険しい横顔がほんの少し、安堵で緩む。最悪、死体で見つかる可能性もあっただけに、ミアもほぅ……、と息を吐く。
「かと言って安心するにはまだ早いよ!!感染症に罹ってるかもしれない!!」
アードラの言葉に、吐きだした息が再び肺へ、それも奥深くへと吸い込まれていく。
「ちょっと!」
「なに、本当のことじゃん??現に、スタン背負ってる僕の背中、むちゃくちゃ熱いんだよね。顔だって普段と違って真っ赤だし、呼吸の乱れも激しい。
「わかった!!」
イェルクの横顔が再び険しくなった。が、一連のやりとりを見守るミアの不安を察したのだろう。非常に複雑そうな顔で笑いかけてきた。
「大丈夫、大丈夫だ!死んでいてもおかしくなかったのに生きてたのだから!」
「…………」
『だといいけど』
どうしても歯切れの悪い言葉しか言えそうになく、代わりに小さく頷いてみせる。
スタンの瀕死状態への不安はもちろん、何に対してだか不明だが、心の片隅で引っ掛かりを覚えていた。ただし、その引っ掛かりはあくまで勘でしかなく、言葉で説明がつかない。だから、ミアは何も言わずにおいた。
そうこうするうち、アードラたちが医務室の前にやってきた。
アードラに背負われたスタンの状態をざっと確認すると、イェルクの顔色が変わる。
「アードラ!申し訳ないが、スタンは医務室に運べない!代わりに南棟の隔離部屋へ運んでくれ!!」
「は?!なにそれ!どういうことなの!!」
アードラが口を開くより先にラシャがイェルクに噛みつく。アードラはというと意外にも冷静で、「あのさぁ、落ち着いたら??」とラシャを窘めすらしている。
「ひょっとして人に
「可能性は高い。傷口の細菌感染が原因かもしれないが、念のために君たちもしばらく様子を見た方がいい。ミア、君もスタンたちから距離を取ってくれ」
「は、はい」
病原菌扱いみたいで気が引ける。迷う素振りを見せると、「ほらほら、ミアは離れなよ。アタシらなら気にしないからさぁ」とラシャがひらひら手を振った。
「ミア、君に頼みがある!スタンが戻ってきたと、
「了解っ!……あ、」
「どうした!」
「あの、ロザーナには」
「まだ伝える必要ないだろう」
え、なんで、と、思わずイェルクを批難がましげに見返す。よくよく見るとラシャも彼をきつく睨んでいた。
「ロザーナはまだ仕事で戻ってこれないじゃん。もしも、このこと知って、仕事ほっぽりだして帰ってきたら……」
「「ロザーナはそんな無責任なことしない!!」」
図らずもラシャの声と揃った。
「あー……、アードラはともかく、俺はそんな風に思ってないからな?!」
「なに自分だけ良い人ぶろうとしてんの」
「お前と一緒にするんじゃない!任務完遂するまで下手に動揺させたくないだけだ!」
「あぁ、そういうことなら……、だってさミア!」
「う、うん!」
完全に納得した訳じゃないが、一応納得したように頷いてみせる。ラシャも不服そうだが納得した模様。
「わ、私、
「頼んだぞ!」
二人と、イェルクの大声に背を向けると、ミアは急いで執務室へ向かった。
(2)
ロザーナが住処の城へ戻ってきたのは、それから数日後だった。
スタンは敗血症による酷い高熱、激しい腹痛嘔吐、急激な血圧低下の末、生死の境を彷徨っていた──
『面会謝絶』の札が下がった扉が開く。室内の光が真っ暗な廊下に淡く漏れる。
扉を挟むように左右に分かれ、壁に凭れていたミアとロザーナはイェルクを振り返る。
「峠は越した、と思う」
断言こそしなかったが、希望が持てる発言に「よかった……」と安堵の言葉がつい漏れる。対して、ロザーナの表情は変わらず硬いままだ。
「吸血した鼠を媒介に、傷口から細菌感染したみたいだ。スタンにしては随分と浅慮な行動を……」
それだけ心身ともに余裕がなかったんじゃ……、と、反論しかけて、やめる。ロザーナの唇が真一文字に引き結ばれたからだ。
自分より物申したい筈だろうに、言い返したいのをぐっと堪えている。だったら、黙っているのが正解かもしれない。
「然るべき処置はした。あとは体力次第、といったところか」
ふたりを安心させるためだろう。イェルクが声と表情をやわらげた。
その場しのぎと言えば、その場しのぎ──、だが、少なからず、ミアはイェルクが言うなら、と信じることにした。ロザーナは相変わらず真顔を崩さないし、反応がやけに薄い。薄いどころか無反応に近い。
スタンへの心配以上にだんだんロザーナも気がかりになってきた。
イェルクも同感らしく、気遣わしげに彼女を見下ろしている。当のロザーナは、ふたりからの視線などまるで意に介してない。というか、拒絶に近い無視を決め込んでいる。
そのせいでミアもイェルクも彼女に声をかけられないでいた。
「イェルクさん。スタンさんのこと、どうかお願いねぇ」
気まずい空気を突然打ち破ったのは、その空気を作り出していたロザーナだった。
ロザーナがイェルクに向かって頭を深く垂れると、銀の髪が肩や背中からさらさら滑り落ちていく。垂れ落ちる髪から再び現れた顔には、いつもの柔らかな笑顔が張りついていた。
そう、いつもの。いつも通り、いつも通りなのに、ミアには(もしかしたらイェルクもかも)違和感がどうにも拭えなかった。
「あ!ねぇ、スタンさんが起き上がれるようになったら、あたしがお世話していーい??もちろん仕事は仕事でちゃんと頑張るからっ!」
「あ、あぁ、構わないが……」
「ほんとぉ??じゃーあ、そういうことでぇ!」
ダメ押しでにっこり笑いかけると、満足した様子でロザーナは部屋の前から去っていく。
「暗に『絶対に、何が何でも死なせるな』と釘を刺されたんだろうか……」
「えっと……、どうでしょう。他意はない、と思います、たぶん……」
「そうか……。まあ、俺とて死なせるつもりなんてない」
戸惑いから一転、濃紺の単眼に揺るぎない意志が宿る。
夜の帳が降り始めた空の色。深い、深い青の奥で一番星が強く瞬く。
「ん??どうした」
「へ??あ、なん、なんでもないっ」
慌てて頭を振り、曖昧に笑ってごまかす。ほんの一瞬とはいえ、その濃紺に気を取られている場合なんかじゃない。だいたいイェルクの真剣な決意に対し、余りに失礼過ぎる!
些細だが多くの違和感が心中で芽生えてばかりいる。
でも、自分の勘はロザーナほど鋭くない。だから気にしないでいようと思う。
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