第79話 灯台の下は暗い

(1)


 太陽の位置を確認、うっすらと額に滲む汗を拭う。踵を返そうとしたとき、少し離れた場所からラシャを呼ぶ声が聴こえてきた。ゆっくり振り返れば、見覚えあるひとりの老女が後を追ってくる。

 ラシャたちがこのスラムで暮らしていた頃、カシャが(年齢を偽って)日雇い労働に出る間、仲間の女性たちと一緒にラシャを預かってくれた親切な婆さんだ。(スラムで若い娘が長時間ひとりでいたら、いろんな意味で格好の獲物にされてしまう)


 老女は挨拶もそこそこに、駆け寄ってきたラシャに訛りの強いカナリッジ語で語り始めた。その内容は、垢と土埃で汚れた老女の体臭がむっと漂っても、まったく気にならないほど衝撃的ものだった。

 ラシャは居ても立ってもいられなくなり、皺だらけのひび割れた手をぎゅっと握りしめる。


「婆ちゃんお願い!その人のところまで案内して!!」


 勢いに気圧されつつ老婆は大仰に頷いた。握られた手をほどくことなく、むしろ幼子を連れ歩くようにラシャの手を目的地まで引っ張っていく。

 だが、目的地に近づくにつれ、ラシャの表情に不審が浮かび上がっていく。


「ねぇ、婆ちゃん。今行こうとしてる場所ならさっき見たけど??ていうか、婆ちゃんのテントの近くじゃない??さっき見たときは婆ちゃんいなかったけど」


 老婆は答えず、黙って歩き続ける。ラシャの不審は更に深まっていく。もしかして自分から何かぼったくろうという腹づもりか、などと疑惑さえ湧いてくる。

 世話になったことがあるとはいえ、所詮はスラムの住人。端から信用するべきではない、のかもしれない。

 ラシャの内心を知ってか知らずか、老女の足は自身が暮らすぼろテントの側で止まった。

 しかし、老女が入っていったのは自分のではなく隣の、布が半分以上が破れ、骨組みが剥き出しの壊れたテントの中だった。


「婆ちゃん、そこもさっき見てみたんだけど!」


 苛立ちを滲ませて叫ぶも、皺だらけの手が入れ口から手招いてくる。

 あぁ!もうっ、と小さく舌打ちし、ずんずんとテントへ向かう。


「なに、何もないじゃないっ」


 テントに入ってみたはいいが、狭いテント内には自分と老女以外誰もいなかった。

 苛立ちに失望と怒りが加わり、老女を怒鳴ろうとした。そんなラシャに構わず、老女は膝をついたままテントの奥へ移動、蠅がたかっている干し草の束をよいしょっと脇へどかす。

 干し草の下から現れたのはマンホールの蓋だった。


「ねぇ、まさか」


 老女は再び大仰に頷いてみせた。






(2)


 ラシャからの発信がなければ、今回の捜索は諦めていたかもしれない。情報屋が調子づき、追加料金を法外な値段で吹っ掛けてきたからだ。

 アードラに、引いては組織に、恩を売りつけるいい機会だと思ったのだろう。そんな手に乗ってやる程甘くない。

『収穫なし。さっさと帰ろうよ』とラシャに発信するべくイヤーカフスに触れるのと、ラシャからの発信を拾ったのはほぼ同時だった。


 そして、今、壊れかけのテントにあったマンホールの蓋を開けている。


 ラシャを地上の見張りに立たせ、地下へ続く梯子階段を下りていく。

 この世の悪臭すべて詰め込んだ臭いに鼻が曲がりそうだ。もしも本当にスタンがここにいたら、五感が常人より鋭い彼にはさぞかし苦痛に違いない。


 暗闇の中、飛び回るチョウバエ、足元を這い回る鼠やぞろぞろと湧く得体のしれない虫を避け、下水道の端を進む。前後に伸びた道はそう長くは続かない。途中で切れるので、探すのに時間はかからない、筈。

 そういえば、スタンが標的の潜伏先へ侵入する際は下水道を利用することが多かったな、と、ふと記憶が蘇る。だからといって自分の潜伏先まで下水道にしなくてもいいのに。そもそも潜伏する必要などない。無事なら無事でさっさと住処に戻ってこればいいのに。


 急にスタンに対し、ふつふつと怒りが湧いてきた。ラシャの短気が移ったか。

 否、違う。自分たちに捜索という、要らぬ手間を掛けさせるせいだ。

 ほら、前方の行き止まりまで進んでみたが、スタンの姿は見当たらない。ということは、今来た道を戻り、梯子階段を過ぎて今度は後方へ向かわなければならない。見つかった暁には、あとできっちり捜索の手間賃を二人分支払ってもらおう。そうしよう。


 懐中電灯を持たない方の手で鼻と口を塞ぎ、元来た道の後方へ突き進む。どうやら、突き当りまではさっき進んでいった方向より倍近く距離があるみたいだ。眩暈を覚える悪臭から今しばらく離れられそうにない。


 さすがに苛々してきた。進む足取りも自然と速まっていく。

 這い回る不快な生き物たちを避けるのも面倒になってきた。決して故意ではないが、何度か蹴っ飛ばした気もする。


「ほんっと、いい加減にしてくれないかなあ!」


 珍しく尖った声で叫ぶ。叫んだところで何の意味もなさないのは分かっている。分かっているが、叫ばずにいられない。

 悪臭に噎せ、げほごほ、おえっとえづく。直後、自分のものではない咳が前方から聞こえ、重なった。

 はじめは幻聴か、自分の咳が反響しただけかと思った。

 立ち止まり、息を殺し様子を窺えば、間隔を置いて弱々しい咳が聞こえてくる。間違いない、誰かいる!


 咳が聞こえた場所へ一目散に駆けだす。緊張は保ったまま、念のために拳銃を握りしめて。

 アードラの勢いに鼠たちは驚き、一斉に逃げ出していく。足や尻尾を踏まれ、悲鳴のような鳴き声が時折したがそれどころじゃない。

 そのうち、壁によりかかってしゃがみこむ影を確認できた。


「スタン」


 影の目の前までたどり着くなり、アードラはスタンだと確信した。

 あちこち裂け、ぼろ布と化してはいるが、黒いモッズコートは嫌というほど見覚えがある。右手の甲の刺青はいわずもがな。だが、名を呼びかけたあとの言葉が続かない。


 膝を抱え込む腕が、当然ながら一本足りない。

 一〇日前、切断された腕を確かにこの目で見た筈なのに。改めて隻腕と化した姿を突きつけられ、想像以上の衝撃に見舞われてしまっている。

 更に、スタンの足元には干乾びた鼠の死骸がいくつもいくつも転がっていた。おそらく、鼠の血を吸って体力回復を図っていたのだろう。


 ごくり、喉が鳴る。反応するように、スタンが伏せていた顔を緩慢に上げた。

 やつれた頬、乾燥で荒れた唇、無精髭に覆われた口元や顎。高熱でもあるのか、青白い顔が上気し、額に脂汗が滲んでいる。


「……アードラ、か……」


『あのさ、何してんの』と言おうとして、すぐに言葉は引っ込んだ。

 呼びかけるなり、スタンは茫洋とした薄青の瞳を閉ざし、横倒しに倒れてしまった。

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