第37話 閑話休題 住処でのある平和なひととき 余談

 革靴が好き、というより、靴を磨くことが好き、かもしれない。

 革靴に使用されるなめし材、汚れ落としクリーム、靴墨……、それらの独特な匂いも好きだ。特に混ざり合った匂いは格別だと思う。土埃や泥汚れなどが磨かれ、光沢を取り戻していくのも楽しい。何より無心で作業に没頭できる。


 その結果、謹慎期間中のスタンの私室は常に革と靴磨きクリームの臭いが充満していた。



「スタンさーん、血を持ってきたけどぉ……、やだぁっ!また喚起してないでしょっ」


 血液検査の結果をノーマンに報告した日の夜遅く、ロザーナが私室へやってきた。

 部屋へ入ってくるなりロザーナは鼻をつまみ、奥にある両開きの窓を開け放す。外に流れてしまう……、と少し残念に思ったが、どうも大多数は苦手な匂いらしい。

 最も、他の者なら「嫌なら血液だけさっさと渡して出て行け」と言ってやるまでだが。


「もうっ、そこそこ広い部屋なのに臭い籠りすぎぃー。この臭いは嗅ぎ過ぎると身体に悪いのよぉ??」

「そうだな」


 諦めて椅子から立ち上がる。磨き終えた順に並べたブーツ十七足、クローゼットの中の靴箱へしまう。靴磨きの道具も一緒に。

 クローゼットの四分の三以上は靴が占め、衣類は必要最低限しかハンガーにかかっていない。


 ロザーナは窓辺からベッドの隅に移動し、腰を下ろしていた。

 謹慎中、彼女とはほぼ毎日顔を合わせている。仕事の時ですら、スタンの食事を運ぶのは無理でも血液だけは、例え日付けを越えてでも持ってきてくれる。

 負担になってはいけないからと、自分でイェルクの元まで取りに行った時にはもう、拗ねて拗ねて宥めるのが大変だった。今日の夕方怒らせた時以上に。


 そこまでして世話を焼いてくれる気持ちはありがたい反面、なぜ、という疑問も湧いてくる。(若い女の血を過剰摂取した)吸血鬼の血が及ぼす影響が気になってしまうのか。相手があの男だったから余計に。

 

「血は確かに受け取った。お前はもう自分の部屋に戻れ」


 少し距離を取ってロザーナの正面に立ち、手渡された試験菅を軽く振る。

 後方の扉へ視線を送れば、つられてロザーナもそちらを振り返る。が、すぐにムッとした顔で向き直ってきた。まだ居座る気か。いつもなら『わかった』と言って素直に応じるのに。


「お前は明日も仕事が入ってるだろ??油売ってないで早く休め。俺も明日から復帰す……」

「だから、もうちょっと一緒にいたいなぁって」


 試験管が手から滑り落ちていく。

 我に返った時には床に転がっていた。厚地の絨毯のお蔭で割れていない。良かった……。

 聞き流す振りも兼ねて床に膝をつき、拾い上げる。ロザーナの顔をなるべく見ないようにしたのに――、つい無意識に様子を窺ってしまった。


「!?」


 掴んだ筈の試験管が再び手から離れていく。額に頬に、白銀の長い髪が落ちてくる。

 包み込むように顎を両手で持ち上げられ、菫の双眸が迫り来る。


「イヤなら言ってね??……しても、いい??」

「な、なにを……??」

「聞こえないフリはダーメ。でもぉ、イヤならしなーい」

「嫌とかの問題じゃなくて……」

「言っておくけどぉ、スタンさんにしかしないわ。したくないの」


 崩壊寸前の理性を瞬時にタコ殴りする。この娘、誰よりも危険すぎる。

 あと、持ち上げられた顎が微妙に痛いし痺れてきた。


「あのな、いくら俺を兄のように親しく思っていてもだな……」

「あたし、男兄弟いないからわかんないけどぉ、お兄ちゃんや弟にドキドキしたりしないでしょぉ??もしかして、これが好きってことなのかなぁ??ね、スタンさんどう思う??って……、あらぁ??」


 駄目だ。もうロザーナの目がまともに見れない。

 顎を持ち上げる手を外すことくらい造作ないのに、両手が思うように動いてくれない。己の目を瞑るだけが羞恥の極みから逃れる唯一の術。

 言葉を発しようにも意味を全くなさない叫びか擬音が飛び出そうで下手に喋れない。


「スタンさんが吸血鬼だとか人間じゃないとか全然どうでもいいのっ。あたしが一緒にいたいのは、スタンレイ・ホールドウィンっていう一人の男性だけだからぁ!あ、でもぉ、スタンさんがそうじゃないなら」

「…………そうじゃなく、ない…………」


 スタンレイ、お前、文法おかしいぞ。

 意味が通じる言葉が出てきただけ、だいぶマシだけれど。


 ロザーナの言葉攻めがぴたりと止まった。

 余りに室内が静まり返ったため、様子見でそぅーっと薄目を開ける。


 ロザーナは相変わらずスタンの顎を両手で持ち上げたまま、俯いている。

 顔、耳、首筋、ニットシャツから覗く鎖骨ら辺までが鮮やかな朱に染まっていた。


「恥ずかしいから見ないでぇ……」

「顔付き合わせてるのに無理だろ。手離してくれたら……」

「恥ずかしいから、……して、いーい??」


 逆にそっちの方が恥ずかしくないか。

 一周回って冷静さが戻ってきた。ついでに顎の感覚もなくなってきた。


「わかった。したいならしていい。俺は嫌じゃない。嫌な筈がな……」


 皆まで言い切る前に柔らかな唇が押しつけられる。

 啄むように優しく、ぎこちなく噛み合う。

 差し入れられた小さな舌に戸惑いながら絡め合う。


 マリウスへの挑発の際は必死だったし、執務室では余りに唐突過ぎてただ硬直するしかなかった。けれど、今は――


 ずっと顎を持ち上げていた手がようやく外れる。

 これで終わり、か。残念なような、ホッとするような、と半ば夢心地でいると、床に仰向けに転がされていた。天井を背にしたロザーナに――、組み敷かれている……。


「…………待ってくれ…………」

「どうしてぇ??」

「……気が早い、早すぎる………」

「イヤ??したくなぁい??」

「……そ、れは」


 したいかしたくないかで言えば、と答えかけて、黙れ下衆野郎!と内心で自らを叱責する。


「……明日、俺は久しぶりの仕事、だから、な……」

「あっ、そっかぁ!そうよねぇー。ごめんね、ごめんねぇ、あたしってば考えナシだったわぁ」


 苦し過ぎる言い訳ではあったが、意外にもロザーナはあっさり解放してくれた。

 やれやれと心の底から安堵し、起き上がる。少し背中が痛い。


「ほら、もう今夜は戻るんだ」

「はぁい、おやすみなさぁい」

「おやすみ」

「今度は次の日仕事じゃない時に来るねぇー」

「…………」


 部屋から出る直前、扉の影から向けられた邪気のない笑顔、弾んだ声。

 扉が閉まり、ロザーナの足音が遠ざっていく。足音が完全に途絶えたのを確認すると、額を扉にゴンッと押しつける。


「……勘弁してくれ……」


 しばらくの間スタンは額を押しつけたままでいたが、その内、あー、とか、うー、とか呻きながら床に崩れ落ちていった。

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