第36話 閑話休題 住処でのある平和なひととき②
日が傾きつつあった。
医務室の窓のカーテンの影が濃くなり、床に落ちた影の面積も拡がっていく。
机上に並ぶ数本の試験管にも影が落ち、中身の赤が赤黒く染まっていく。
「検査の結果だが、特に異常は見られなかった。安心するといい!」
「そうか」
イェルクから検査結果のメモ書きを渡されると、スタンは深く息を吐く。
彼が座る椅子の背にしがみつくロザーナも、よかったぁぁー……と、彼以上に深く長い息を吐きだした。
「吸血鬼と人間の血液を採取し、調べた結果に基づいてる。ミアとルーイ、あと極秘で入手した……、凶暴化した末に受刑中の吸血鬼数人分の血液と比べてみたから信頼性は高い筈!ミアとルーイは勿論、君も限りなく人間の数値と変わりない」
「……そうか」
「これは俺の推測になるが……、吸血鬼は若い女性の血さえ吸わなければ凶暴化しないのでは??」
「……じゃあ、俺はどうなる。俺は……、知らなかったとはいえ」
十年もの間、母の手で女の血を飲まされて続けていたのに??あまつさえ母の血も吸ったのに??
喉まで出かかったが、眼光鋭き隻眼に無言で止められた。温和な瞳が見せる凄絶さ、圧は、幾多の死地を乗り越えたスタンでさえも震え上がりそうになる。背もたれを掴むロザーナの指にも不自然な力が加わる。
「スタン、話は最後まで聞きなさい。それから言わなくてもいいことは言わなくていい」
「…………」
「若い女性への吸血が凶暴化に繋がる可能性は高いかもしれない。でも摂取量の問題じゃないかとも思う。失礼ながら君の低身長から察するに、幼児期から成長期にかけて必要量以下の血しか摂取しなかったのでは??」
まさか、そんな訳が、と反論しかけたが、無暗に言い返したところでイェルク相手では論破されてしまう。反論材料を探すため、(非常に嫌々ながら)子供の頃の記憶を手繰り寄せてみる。
あの地下室で母は言った。
『貴方はもう若い娘の血の味を知っている』『寝る前に飲むジュースに』
ジュースに、のあとに続く言葉は覚えていない。だが、あれに混ぜていたのは間違いない。
思い出せ。思い出せ。
あのジュースはなぜかいつもシャンパングラスで運ばれてきた。舐める程度のごくごく少量で。
それが子供心に不思議だった。一度だけ母に『あのジュースをもっとたくさん飲みたい』と強請ったような……。母は何と答えたのだったか。
「スタンさん」
「スタン、無理なら今はやめておくんだ!」
ロザーナの不安げな声とイェルクの強い制止の声が頭上で響く。
どうやら今の自分は最高に気分が悪そうに見えるらしい。
平気だと伝えるべく重たい右手をぐっと突き上げ、邪魔をするなと二、三度掌を振る。
思い出せ。思い出せ。
どんどん呼吸が浅く速くなっていく。息苦しくて堪らない。
そして、呼吸がぴた、と止まる。
肩を揺さぶる二人の声がやけに遠く聞こえる。
怒りとも安堵ともつかぬ感情を表現するのに適した言葉が、見つからない。
「……あっ、の、くそばばぁっ……!」
やっとのことで出てきた言葉は反抗期の少年が母親に言い放ちがちな常套句。
二十三にもなって口にするにはいささか子供じみちゃいないか。
だが、この悪態が予想以上にスタンの張り詰めた心を解してもいた。
「……イェルク、ロザーナ、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「ん??あぁ……、わかった」
「さっきの質問の答えはおそらくyesだ。カナリッジ移住後も二年くらいは様子見で血を完全に断っていた。余りに身長伸び悩んでるのを見兼ねた
腕を組み、背もたれに深く背中を預け、ふん、と鼻を鳴らす。
普段通りの尊大な態度にイェルクは気分を害すでもなく、むしろ安心したようにすら見える。
「結果に異常ないなら、いい。まだ人間に近いと知れたし。話はもう終わりだろう??これは貰っておく」
「スタン」
「あそこのベッドでくたばってる
「まぁそう言ってやるな!筋はいいし、その内モノになると思うぞ!」
「はっ、どうだか。じゃあ俺は行く。世話になった」
「あっ、待ってぇ、スタンさん!イェルクさん、ありがとうございましたっ」
さっさっと扉の前へ進むスタンの後をロザーナは慌ててついていく。
スタンが謹慎処分受けてる間中、仕事と訓練の時間以外彼の世話を焼いているらしい。
当然、遠慮こそすれスタンがすげなく断る理由はない。否、断っていたとしても彼女の押しに負けて大人しく世話されてる、といった体か。
「よかったわねぇ!これで謹慎も解けるんじゃないかしらぁ??
「どうだろう??心配してるかもしれないが、俺の身体に異常が生じることより異常によって人に危害を加える可能性が上がる方が心配だったと思う」
「そうかしらぁ」
「あぁ。
ロザーナはうーん、と納得いかなさそうに首を傾げ、動こうとしない。
他の者ならすかさず蹴っ飛ばしてやるが、想い人に手荒な真似などする筈もなく。
ただ、珍しく眉を寄せているのがどうにも気になってくる。
「もしも俺が原因で機嫌損ねたのなら……、謝る」
「……別に謝ってほしい訳じゃないもん」
だったら、なぜ、頬を膨らませる。唇を尖らせる。言葉遣いが幼くなる。
拗ねていても、月の女神のような美しさはちっとも損なわれてないし、むしろ愛らし過ぎるくらいなんだが!
「……スタンさんっ!自分を卑下するの、本当やめよ??」
「は??」
「まずはねぇ、自分を化け物呼ばわりするのやめましょ??」
「いや、事実……」
「違うでしょお?!」
まずい。怒らせた。
「言っておくけどねぇー!あたしだってママを殺したようなものだしぃ!果たさなきゃいけなかった筈の責任から逃げたしぃ!そのせいで人ひとりが本物の化け物に変わっちゃったしぃ!あたしの方がよっぽどクズで最低なんだからねぇ?!」
「おい、今のは聞き捨てならんぞ!お前こそ何を
「じゃあっ、じゃあっ、あたしも言わせてもらうけどぉっ!!」
「なんだよっ!」
「スタンさんが吸血鬼なのもあなたのせいじゃないでしょお!」
「…………」
正面からガツンと思いきり殴られた。物理的にではなく言葉で。
ほぼ同じ位置にある菫の双眸が伏せられ、代わりにコツン、軽く額を突き合わされた。
「……あのさぁ、お取込み中大変申し訳ないんだけどぉ。入るなら入る、痴話げんかするなら余所でやる。どっちかにしようか??」
真横の扉がそっと開かれる。扉の更に横には精悍な空軍士官の写真。
その写真と同じ顔かつ、写真よりも膨らんで丸くなった顔がにんまりと意味深に笑っていた。
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