第117話 神様などいないことを知っている④

(1)


 本に囲まれたこの部屋は刑務所の中の一部とは到底信じられない。

 監獄の鉄格子の無機質かつ圧迫感に目が慣れてしまったからだろう。壁は他と同じ石壁でも、フローリングの床や木製本棚が暖かみを持たせ、ある種異空間を作り出している。


 その異空間とも言える部屋の中央、スタンと同じ長机に並び、携帯食を頬張るロザーナの呑気さときたら……。

 携帯食らしき小麦粉にナッツ類を混ぜた、長方形状の焼き菓子をヴェルナーにも少し分け与えられたのだが、もさついた食感に咥内の水分が奪われる気がした。

 味は悪くないものの正直口に合わないので、ロザーナが至福の表情で味わっているのがいまいち理解できない。


「スタンさんも!はいっ」


 片手で器用に水筒の蓋を開けると、ロザーナはスタンにも携帯食を差し出した。


「俺は遠慮しておく」

「ダメよぉ??東のことわざで腹が減っては戦ができぬって言うじゃなぁい??」

「いや、別に腹は……、むぐぅ?!」


 皆まで言うより先に、スタンの口に携帯食が強引に突っ込まれた。

 もさついているだけに喉を詰まらせやしないか。内心心配したけれど、スタンもそこまで間抜けじゃない。仕方なさそうに無言でしばらくもぐもぐ口を動かし、ごくん、と大きく飲み込む。


「消耗した体力、ちょっとでも戻そ??ねっ??さっきのに鎮痛剤も混ぜてあるわっ。これで痛みもマシになる筈よぉ」

「本当にお前には敵わん……」


 スタンは差し出された水筒を今度はすんなり受け取り、二口ほど口をつける。


「ミアのおじいちゃんも飲むぅ??」


 ロザーナは思い出したように真後ろの長机に座すヴェルナーを振り返った。


「年も年だ。脱水症状起こされたりしちゃ困るしな」


 そういうこと言っちゃダメぇ!とすかさず怒るロザーナを尻目に、スタンは自分の水筒をヴェルナーへ放り投げた。


「冗談なんかじゃない。休憩はこれが最初で最後。空腹や水分不足も過ぎれば命取りになりかねない」


 反射で受け取ってしまったが、ヴェルナー自身は特に必要ないと思っている。かと言って、少しでも飲まないとくどくどと説教が続きそうだとも思う。しかたない。水筒の固い蓋を開け、中身を少しだけ口に含む。

 だいぶ生温くなっているが、水筒の水はうっすら檸檬の香りと味がした。爽やかな酸味に生き返った心地になる。


「……ありがとう」


 席を立ち、水筒をスタンに返す。


「貴様にはまだまだやってもらいことがあるからな」

「もーお!言い方ぁ……」


 ロザーナが小言を言い終わる前に、部屋の外から複数の足音が、静かにこの部屋へ近づく気配を感じた。


「ロザーナ」

「うん、わかってるわぁ」


 二人は頷き合うと天井を見上げ、次に目の前の長机へ視線を落とし──、同じタイミングで、片膝で机を力一杯蹴り上げた。


「伏せて!!」


 蹴り上げた長机を盾に、身を隠す二人に引っ張られ、ヴェルナーは机の影へ。

 数秒後、扉がけたたましく開かれ、足音とほぼ同じ数だけの銃口が三人に向けられる──


 部屋中を満たす銃声。四方八方飛び交う銃弾の嵐。

 ヴェルナーを庇いつつ、机の影からスタンとロザーナも激しい銃撃に負けじと応戦する。

 相手方より二人の方が弾の命中率は高いけれど、狙うのは手足や肩などが中心。致命傷は負わせず、身動きを取れなくしているのみ。

 だが、多勢に無勢と対峙の最中、この応戦の仕方では限界はすぐに来てしまう。どうする気なんだ、と二人の背中をヴェルナーは焦燥混じりに見つめる。


「もういい!あとは弾の無駄使いだ!!ロザーナ!!」


 スタンが叫んだのち、ロザーナは数個分のかんしゃく玉を敵に向かって放り投げた。

 耳をつんざく破裂音が複数回鳴り響く。続いてスタンもかんしゃく玉を天井へ放り投げ、瞬時に長机を引き倒し、元に戻した。


「伏せろ!!目も耳も塞げ!!」


 長机の下でスタンは自らの頭を低め、一緒にロザーナとヴェルナーの頭も床へ押しつけた僅か数秒後。ロザーナが投げた物よりも強烈な爆発音と地響きに背筋が寒くなった。

 天井が粉塵と共に崩れ落ちていく。長机のお陰で崩落した天井の下敷きにならずに済んだ。それにしても。


「……やることが無茶苦茶すぎる」


 身を伏せたまま、げほげほと粉塵に噎せ込む。


「無茶苦茶なのがある意味俺たちの売りなんでね」


 身を起こしながらスタンは長机を再び蹴り上げ、勢いに乗せて入口へ向かって蹴り飛ばした。

 瓦礫どころか、ぼろぼろの長机が敵に迫りくる。さすがに想定外だったらしい動きに、あちらに少なからず混乱を呼び起こせた気がする。


 派手に穴が開いた天井を素早く立ち上がり、見上げる。上階へ移動するつもりなら今がチャンス。

 しかし、問題がある。スタンと自分は難なく上階に上がれるとして、ロザーナは……??


「じいさん、俺に羽根はないがあの程度なら余裕で跳躍できる。が、この腕じゃさすがに人を抱えては厳しい、あんたが代わりにロザーナを抱えて跳んでくれ」


 扉だったものの向こう側、かんしゃく玉の煙がかなり薄らいでいる。長机も何人かで撤去中の様子。

 だとすれば、すぐにあちらも臨戦態勢に入るに違いない。


「早く!」


『上へ!』と言葉には出さず、唇の動きのみでスタンはヴェルナーを急き立てる。


「失礼する」


 一応ひと言断りを入れ、ロザーナを抱え上げる。本人に対してもだが、のちのちスタンに難癖をつけられたら面倒そうだ。

 スタンは反動をつけるため腰を落とし、ヴェルナーは蝙蝠羽根を出現させようとした、まさにその時。


「馬鹿って本当、高い場所が好きですぐ行きたがるわよね」


 淡々と感情が乗っていない筈の声音には侮蔑がたっぷり込められていた。

 無視を決め、天井に開けた穴から上階へさっさと跳べば良かったのに。

 悔しいかな、あの性悪娘の声には三人をこの場に留めるだけの力が存分に宿っていた。









(2)


 一旦はラシャ達を見送ってしまったものの、今からでも遅くはない。まだ間に合う。呼び戻さなければ──、そう決心し、一歩踏み出そうとして、できなかった。

 尻もちをついていたイモが、地面に転がりながらイェルクの脚へ体当たりを仕掛けたからだ。

 思いも寄らぬ、まさかの反撃。

 イモの狙い通り、脚を取られたイェルクは派手に転倒してしまった。


「何をする!!」

「ぶふふん、ばぁかばぁか!!」


 咄嗟に受け身を取ったので怪我は避けられた。が、精神的な余裕が0に近い状態での仕打ちにさすがに腹が立った。


「……悪ふざけならそろそろやめておけ」


 込み上げる怒りを抑え、羽織や着流しについた土埃を払う。

 こんなのにかまう時間などたとえ一秒でも惜しいし、早く行かなければ……。


「いい加減にしろ!!!!」


 再びイモは転がるカルトッフェルジャガイモよろしく、イェルクの足元を転げまわり、邪魔立てる。一歩進もうとすると、進む先へすかさず巨体を転がしてくる。

 イェルクの怒りと苛立ちは益々募り、思い出したくない戦場での記憶まで蘇ってきた。


 約八年前の、あの日。


 焼け野原の中、無数の死体が転がっていた。

 身体の至るところが欠けた敵兵が、最後の力を振り絞って足元にまとわりついてくる。

 意地でも逃がすまいと最後の力を振り絞ってイェルクの足を絡めとり、己も道連れに手榴弾を──、寸でで振り切って逃げ仰せたが、結局は右目と身体の約三分の一を失ってしまった。

 ここにきて、今度は身体ではなく仲間を奪われようとしている。


 ここは戦場。敵か味方しか存在しない世界。


 イモは懲りずに三度目に足元を狙ってくる。三度目となれば動きの予測はつく。ここぞという時に、動きを封じることは可能。今みたいに丸太のように太い首を絞め上げることなど造作ない。


「ぐぼぼぼぼ……」

「黙れ」


 イモは完全に敵も敵。だったら、自分がこの手で始末しても問題ない筈。

 いっそしっかり始末をすべきだろう──


「な、なにしてるんですか?!」


 イモの口から泡が溢れ出す頃、イェルクの間近でミアの声がはっきりと流れてきた。

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