第61話 寝耳に水 

(1)


 鉄格子で囲われた窓に向かって、キィ、キィと細く高く、鳴く。

 モールスのように規則性を持って何度も鳴く。何度も何度も。

 何度も何度も鳴いたのち、ぴたと口を閉じる。

 数分間の沈黙。窓を睨み据え、ハイディは耳を澄ませていた――、が。


 突然、ハイディは窓に背を向ける。

 青緑ターコイズの瞳は憤怒に燃えていた。やり場のない怒りの矛先は、独房に備え付けられた学習机の上のトレイへ向けられた。


 宙を舞う黒いブロートパン、黄ばみの目立つ壁紙に冷めたシチューの飛沫が跳ね、人参やカルトッフェルジャガイモ、玉ねぎが床へ壁へと散乱。ひっくり返った木皿が床を転がっていく。両隣の壁からドンドン!と苦情を訴える音がした。知った事か。

 食べ物の臭気が一層強く感じられる方のが気に入らない。

 廊下から響いてくる慌ただしい足音にも苛立った。何でこうも気づくのが早いのか!


「1857番!またお前か!」

「何度言えば気が済むんだ!また懲罰房に行きたいのか!」


 鉄扉が開き、駆けつけた刑務官達が飛び込んでくる。


「ノックくらいしなさいよ。うら若い娘の居室に許可なく勝手に入ってこないでよ」


 ハイディの怒り、苛立ちは頂点に達した。

 立ち塞がる刑務官達へ、床にひっくり返ったトレイや木皿を投げつけた。それだけでは飽き足らず、シチューの残骸まで掴んで投げつけかけ――、未遂に終わった。


「気安く触っていいと思ってるの??馬鹿なの死ぬの?!」

「馬鹿はお前の方だろう!大人しくしろ!!」


 羽交い絞めにされたハイディの瞳は青緑から柘榴色に染まっていく。だが、抑え込まれると同時に口枷を嵌められ、吸血どころか噛みつくことさえできない。


 収監されて以来、幾度となく繰り返されてきた光景。

 ハイディも何度懲罰房にぶち込まれようとちっとも懲りない。

 刑務官もハイディの拘束に慣れきってしまったし、度重なる癇癪に呆れ果てている。


 懲罰房へ引き摺られていくハイディの姿を、扉の小窓から他の受刑者達が興味津々に覗き込むのも、刑務官の牽制の怒号もハイディの苛立ちに益々火を注ぐ。


 あれから二か月。

 何度も何度も。何度も何度も何度も何度も、ミアに超音波を送りつけている。

 送りつけているというのに――


『双頭の黒犬達を全員始末しろ。麓の街を襲え』と。


 なのに、なぜ、超音波への反応が全く返ってこないのか。


 試しに吸血鬼城の雑魚に『脱獄を手伝え』と超音波を送ってみたが、そいつに限ってだけのこのこと助けに来たのだ。(当然刑務官に捕縛されたが)だからミアに届いていない筈がない。

 なのに、時折刑務官に届けさせる新聞を見ても、ミアが人を襲った等の記事は掲載されていない。


 そんな馬鹿な。

 一滴でも私の血を口にしたら、私の下僕と化すのに!


 自分が絞首台に立つのはどうでもいい。

 死など全く恐ろしくなどない。

 只々、気に入らない連中に報復できないことだけが心残りでしょうがない。


 先だっての脱獄未遂(本当にする気はなかった)、度重なる癇癪等の問題行動を踏まえ、ハイディの死刑執行は早まる可能性が高い。

 その前に、何としても――、狂犬どもを潰し、大笑いしてやりたい。

 どうせ死ぬなら最後まで自分の思い通りに生きていたい。










(2)


 部屋の扉を開け放し、上部枠を使って懸垂する。

 懸垂を200回終えたらベッドのヘッドボードを使って逆腕立て200回。あとは腹筋とスクワットを各300回。


 ふーふーと深呼吸を、筋肉の伸縮を意識させ、ひとつひとつの動きをゆっくりと。

 じわじわと汗が額に、首筋に、やがて全身をじっとり湿らせていく。真ん中に分けた長い前髪が顔に張りつくのも構わず、ミアはタンクトップ姿で懸垂を繰り返す。


 落ち込んでいても仕方ない。今の自分が置かれた状況でできることをするしかない。

 謹慎中の間に基礎体力や筋力をなるべく落とさないように。

 本当は走り込みもしたい。城内であれば許されないかな。今度ノーマンが様子を見に来てくれたら聞いてみよう。

 謹慎明けた時に使い物にならなくなっていたら最悪だもの。ただでさえ半人前なんだし。



「うわ、筋肉バカがいる。引く」

「うきゃあ!」


 あと数回で200に達するという時にいきなりアードラに話しかけられた。

 集中が切れた瞬間、指が上部枠から外れ、床へ落っこちた。咄嗟に受け身は取ったので背中や頭は打たなかったが、痛いものは痛い。目撃者がいる分羞恥心も半端じゃない。


「だっさ。吸血鬼って反射神経いいんでしょ??身体鈍りすぎ」

「あのですね……、急に話しかけられたら誰でもびっくりしますけど?!」

「集中してても僕たちが近づく気配くらい感じ取れるよね??だったら、そんなに驚かないと思うけど」

「ううっ……」


 口惜しいけど正論だ。アードラの言う通り、やはり身体も感覚も以前より鈍っている。

 少しずつ上向きになった気持ちが再び萎みかけて、ん、僕たち??と疑問が湧く。


「あれ、アードラさんだけ、じゃないの??」

「ミアってば酷いなぁ。いくらスタンがチビだからって視界に入れてやりなよ……、って、蹴らないでよ」

「うるさい黙れ糞ガキ」

「僕もうガキじゃないんだけど」

「お前もう喋るな」


 はいはい、と肩を竦め、ようやく黙ったアードラを横目で睨むと、スタンはすでに立ち上がっていたミアに向き直った。


「あのー……、また、私、なにか??」


 アードラからすれば小さく見えても、更に小柄なミアは見上げなければスタンの顔は見えない。

 見上げたスタンは仏頂面というより、戸惑いや困惑を浮かべていた。

 彼にしては珍しい。いったい何が、と問う前に、スタンの方から口を開いた。


「ルーイが単身吸血鬼城へ乗り込んでいった、らしい」

「……どういうことですか、それ……」


 金槌で殴られたような衝撃に、頭がぐわんぐわんと揺さぶられる。

 今朝、朝食を運んできた時のルーイはいつも通りで、そんな素振りは一切感じられなかった。

 スタンが(非常に珍しく)助けを乞う目を向けてきたが、ただひたすら首を振るだけで精一杯だ。


「ほらね、やっぱミアはルーイのこと知らなかったじゃん。あいつが何もかも勝手に行動したってことでしょ??」

「あぁ、そうだな……、ということらしいぞ、イェルク」

「え、イェルクさん?!」


 スタンが振り向いた先、三人が固まる扉から少し離れた廊下の壁際で、イェルクは腕を組んで凭れていた。普段の快活さが消え失せ、冷たく底光る濃紺の隻眼に背筋がゾッと寒くなる。

 スタンの言葉に返事どころか目線ひとつくれることなく、ため息をついたのみ。


「あー、今のイェルクには下手に話しかけない方がいいよ」

「う、うん……、でも……」

「お前は黙ってろ。関係あるのかないのか確認したかっただけだ。邪魔して悪かったな」


 ふいっとミアから顔を背けると、スタンはアードラを伴って扉の前から去ろうとした。


「あの……、二人とも、待って」

「お前は謹慎中だろ。話したところで身動き取れないじゃないか。時間の無駄だ」


 口惜しいけどスタンの言い分は間違っていない。間違っていないが――、それで納得できる訳ない。


「ルーイくんは、私の弟みたいな子なのっ。せめて、なんでお城へ行っちゃったのかくらいは」

「しつこい。理由なんか知らん。たまたまアードラが麓の街でルーイの姿を見掛けたことからわかっただけだ。もうこれ以上は話す気ない」

「なんでそれだけでお城に行ったなんて分かるんですか??隠さないでくださいっ」

「ミアさぁ、いい加減黙ってくれない??」


 いつになく食い下がるミアに、スタンもアードラも苛立ちを隠せなくなってきた。でも怯んでいる場合じゃない。例え怒鳴りつけられたとしても、納得できるまで話を聞き出さなきゃ!


「……スタン、アードラ。ミアには俺から話す」


 普段と違い、声量が落ち着いているのが却って怖い。

 壁から背を離し、イェルクはスタンとアードラの間に収まる形でミアの目の前までやってきた。

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