第121話 絶望の中の閃光となるか
スタンを止めるべく腕を伸ばしたが間に合わず。
もう少しで掴めそうだったモッズコートの裾はロザーナの指先をすり抜けていく。
所在を失った指は虚しく空を泳ぎ、力なく垂れ下がった。
自らがかんしゃく玉(に見せかけた小型爆弾)で開けた床の大穴を飛び越え、ハイディマリーに銃を向けるスタンの背中に向かって名を叫ぶ。
叫びつつ、穴から差し込む階下の薄明りによって映し出される、自分たちが置かれた周辺状況を素早く再確認した。
階下の図書室二つ分ほどの広さの部屋は、まるで始めから穴が開くことを想定していたがごとく、床に一切の物が置かれていない。否、違う。置かれていた物を全て撤去したのだ。
なぜそう思うか??
部屋の壁、鉄格子、扉に至るまで、本来室内に並んでいたであろう大量の長机や椅子、ミシンなどの作業道具がそれらを覆い隠していた。
ハイディマリー唯一人だけ残った上で、内側からバリケードを張り巡らす意味は何??
吸血鬼の力があれど、基本は非力な娘。戦闘慣れした自分たちとまともにやり合い、本気で勝てるとでも思っているのか??本当に??
ハイディマリーは思い上がりも相当酷いが、頭も相当切れる。わざわざ正面から向かってやられる訳がない。必ず罠なり抜け道なりがある筈。一体何を企んでる??
弾丸はハイディマリーの額へ、真っ直ぐ弾道を描く。
「伏せて!」
羽ばたきの風圧で弾かれた弾丸がヴェルナーへと向かう。
咄嗟にヴェルナーに飛びかかり、共に床へ伏せる。
弾丸は二人の頭上を通り越し、長机や椅子のバリケードの向こうへ消えていった。
「すまない」
「気にしないでぇ」
余裕を見せるつもりで笑ったものの、その笑顔は瞬く間に凍りつく。
ハイディマリーの指先が、スタンの左目を抉り取ろうと爪を立てていたからだ。
「スタンさん!!!!」
ロザーナの叫びが功を奏したか。
ハイディマリーの意識がほんの一瞬逸れた隙に、スタンは彼女の腹を蹴り上げ、その反動を利用してロザーナ達の元へ舞い戻ってきた。
「スタ……」
「大したことない」
「充分あるわよぉお!!」
乱れた長い前髪の下、スタンの傷ついた左目は固く閉じ、血の跡が残る瞼は痙攣が止まらない。
床に膝をつくスタンを庇うように肩を抱き、ロザーナは対岸のハイディマリーを睨む。
ハイディマリーは身体を折り曲げ、スタンに蹴られた箇所を押さえつつ。凶器的なまでに尖った長い爪の先についた血を、舌先でねっとりと舐め上げていた。
退廃的な妖艶さを漂わせる仕草は誰もが目を奪われ、釘付けとなるだろう。だが、その妖しくも美しい光景を見せつけられても、この場にうっとりと魅入る者は誰一人いない。むしろ怒りを増長させるばかり。
「不味い。やっぱり男の血は女と比べて臭いがキツイわね」
ハイディマリーは徐に顔を不快に歪め、吐き捨てるようにひとりごちる。
「腕といい目といい、あんたは左半身を欠損しがちね。お気の毒さま」
「まったくだ。どこかの性悪女吸血鬼のせいでな」
「あんたが鈍くさいだけじゃない。人のせいにしないで」
「その鈍くさい輩に今さっきアバラ折られた癖に」
左目を押さえて立ち上がったスタンを、ハイディマリーは憎悪を込めた形相で睨み据える。相変わらず片手は蹴られた箇所を押さえ続けている。
「レディをいたぶるなんて最低最悪ね」
「平然と目潰しにかかるクソ女のどこがレディだ。随分と笑わせてくれる」
「そんな満身創痍で笑う余裕がまだある訳??」
「片目が傷ついたくらいで満身創痍とは言わん。見縊るな」
ハイディマリーの視線に益々殺気が籠る。
「身体じゃなくて精神的な満身創痍にしてあげる」
痛みを堪え、真っ直ぐ立つと再び黒真珠のピアスを、今度はさっきと反対側の耳のを弄り回す。
そうして流れてきたのは、とてもじゃないが信じられない、信じたくもない情報だった──
「……な」
「う、うそ……、カシャ、さんが……」
全身の力が抜け落ち、膝から崩れ落ちる。
立ったままのスタンの脚も小刻みに震えている。
嫌だ。絶対信じたくない。
精鋭の中で最も強靭な肉体と精神を持ったカシャが、簡単に死ぬ筈が──
「本当頭悪すぎ。あの減らず口叩く優男を庇って死ぬとか。あんな鉄砲玉撃つしか能のない奴助けて」
苦しげだったハイディマリーは打って変わって、心から楽しそうに喋り続ける。
「しかも癇癪もちの妹とあの優男、仕事一緒に組んでるんでしょ。あーあ、確実にお仲間同士の間に軋轢生まれるわね」
「黙れ」
「その台詞、もう聞き飽きたから。他に言うことないわけ??」
「……もういいから!もう、黙ってよっっ!!」
拳を思いきり床に叩きつけ、ロザーナは勢い良く立ち上がった。
濡れた頬に張りつく銀の長い髪を払いのけもせず、ありったけの憎しみを込めて。
「やっと、まともにこっちを見たわね」
静かだが激しい憎悪を全身から迸らせるロザーナに対し、ハイディマリーは冷然と、何の感慨もなさげに向き合っている──、ように見えた。
「私はあんたのそういう顔がずっと見てみたかった。あんたは私の前じゃ絶対に泣きも怒りも喚きもしなかった」
ロザーナや他の二人に聴かせる、というより自分自身に語りかけるように、ハイディマリーは淡々と語り続ける。
「私がどんな目に遭わそうとあんたはいつもへらへら笑ってやり過ごした。馬鹿にされてるみたいでそのことがどんなに面白くなかったか。私があんたを蔑ろにするのは当然だけど、あんたが私を蔑ろにするなんて許せなかった。なのに、あんたは反応しないことで私にずっと逆らい続け」
「……そんなつまんない理由なんだ」
「つまらない??」
ハイディマリーの美しい顔が醜く歪む。
客観的に見れば決して醜くはない筈なのに、ロザーナの目には世界で最も醜悪な存在に見えた。
「……つまんないからつまんないって言ってるの。昔からそうよね。理由にならない理由で周りを散々引っ掻き回して……。ちっとも変わってない。どんなに頭が切れても中身はお子様のままじゃない。全然成長してないんだから……!」
ロザーナらしかぬ厳しい言葉の数々に、スタンとヴェルナーは言葉を失っていたが、ハイディマリーは違った。
ロザーナが静かで淡々とした憎悪なら、ハイディマリーのの憎悪は激しい烈火。
顔色のないロザーナと対照的に烈火そのものの顔色で、激しく足を鳴らし、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「黙りなさいよ!」
叫んだ直後、負傷した腹部をきつく押さえて呻く。が、すぐに腹部を押さえたまま、更に叫び散らした。
「理由なんてね!力の前じゃ意味なんてなさないの!力さえあればね!誰が何しようと自由なのよっっ!!」
もう何度目かしれない呻き声をあげ、ハイディマリーはとうとう蹲ってしまった。
しかし、それが合図かのように、突如長机や椅子のバリケードが雪崩のごとく崩れ落ち──、鉄格子の間から押し寄せる吸血蝙蝠の大群がロザーナ達に襲いかかった。
銃ではいずれ弾切れを起こしてしまう。
ロザーナは腰から
悪魔に似た羽根拡げ、羽ばたきながら牙を剥く蝙蝠たちを切り裂いていく。
ヴェルナーと手負いのスタンの援護に回りかけ、
「俺とじいさんはいい!多少噛まれようが吸血されようが問題ないからな!」
「でもぉ!!」
「お前は自分の身を最優先に守れ!!」
「あっははは!!人間のロザリンドがいつまで蝙蝠の速さに対応できるかしらねぇ!!」
縦横無尽に飛び交う無数の邪悪な蝙蝠を自身にもまとわりつかせ、ハイディマリーは高見の見物を決めている。ロザーナが吸血鬼化を怖れ、自分に近づかないとでも高を括っているに違いない。
吸血鬼化が何だって言うの。
ミアやスタンには怒られるかもしれないけど、あたしは皆が言う程怖れてなんかいない。
あの穴の大きさなら、きっと飛び越えられる。
だって今なら。
ハイディマリーが油断しきっている今なら。
あの首を落とせるかもしれない。
「ロザーナ!?」
「ごめんね、スタンさん」
助走をつけ、床を蹴る。
スタンとヴェルナーに攻撃していた蝙蝠たちは一斉に彼らから離れ、集中的にロザーナを狙う。
「あんた馬鹿なの死ぬの?!私の元に辿り着く前に身体中蝙蝠に食らいつかれろ!!」
「だったら失血死する前にあんたを
「やれるものならやってみなさいよ!無理だと思うけどね!!」
一匹、二匹……と蝙蝠がロザーナの首や腕へとまとわりついてくる。
短剣で追い払えど追い払えど、あとからあとから蝙蝠は湧いてくる。
あまり大きな動きをしては跳躍の勢いが削がれ、階下へ落下してしまう。
いっそもう、あえて噛ませた方が──
「え」
覚悟を決めると同時に蝙蝠の動きが鈍くなってきた。
一匹だけじゃない、まとわりつく蝙蝠すべての動きが。
更にはキィキィと悲痛に鳴き始め、もがき苦しむような飛び方に変わっていく。
近づきつつあるハイディマリーの様子を窺えば、彼女にまとわりついていた蝙蝠たちも皆、平衡感覚を失い、うまく飛べないでいる。それを忌々しげに見下ろすハイディマリーといえば、両手で耳を固く塞いでいた。
なんだろう。この光景に見覚えが──
「あ」
ロザーナの耳にも届いた歌声に、ようやく腑に落ちる。
「間一髪ってとこねぇ」
いつもの口調でつぶやき、苦虫を噛み潰したハイディマリーの元へ降り立つと。
稀に見るひどく調子っぱずれの下手くそな歌声の主が、ちょうど階下から飛び込んできたところだった。
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