第104話 交渉・其の一②

 ヴェルナーの脚が一歩、二歩……、テーブルに近づくごとにソファから浮き上がりそうになる腰を必死に座面に縫い留める。背筋をまっすぐに伸ばし、カタカタと震えそうな全身に力を入れる。


 怖気づいてはいけない。気圧された時点で失敗してしまいそう。それだけはなんとしても避けなきゃ。

 ヴェルナーが悠然とした所作で向かいのソファーに着席すると、ミアは机上に組んだ手を投げ出し、余裕そうに薄く微笑む。ロザーナの真似だがうまく笑えてるかは分からないけれど。


「お久しぶりです。お爺様」


 一、二拍間を置き、ヴェルナーが口を開く。


「裏切者めが私に何の用だ」


 落ち着き払いつつ、冷然たる声音と視線は早速ミアを抉りにかかった。

 しかし、この程度で傷つき、怯んでいては話し合いにすらならない。


「『護衛もつけずに一人で来るように』という条件、本当に飲んでくれるは思いませんでした」

「お前がこちらへ送った蝙蝠は五体満足、元気で帰ってきただろう??」

「そうですね。でも、お言葉ですけど、前回みたいなことルーイを人質にしたになったら困ります。困るどころか一切の信用も油断もできない。だから」

「まだ根に持っているのか」


 机に掌を叩きつけ、当り前でしょ!?と叫べたらどんなに楽だろう。

 だが、激高して逆に襲われたり、仲間を呼ばれたりしては一貫の終わり。

 叫び出したい衝動と怒りを押し殺し、ミアは続ける。


「はい。到底許す気にはなれません」

「ではなぜ私を呼び出したりした」

「貴方こそ。なぜ私の呼び出しに素直に応じたのですか??」

「裏切者とはいえ、たった一人の可愛い孫娘の頼みとあれば」

「……白々しい!」


 今度こそ怒りの言葉を口走ってしまった。

 そんなミアに気を悪くするどころか、ヴェルナーは怜悧な表情から一転、憐憫を湛えた顔でミアを見つめてさえくる。肉親に向ける表情自体がすでに胡散臭いし、ミアの怒りに更なる油を注いでくる。


「私は心の底から本当にそう思っているんだよ??」

「……じゃあ、私のお願い、ひとつだけ聞いて」

「なんだ、言ってみろ」


 ミアと同じように指を組み、机上に投げ出されていた手が優雅に動きだす。

 身構えたミアの正面でヴェルナーは両肘をつき、指を顔の前で組み直した。

 たったそれだけの、一〇秒に満たない短い動き。にも拘わらず、何十年と培われてきた威厳がこれでもかと溢れ出している。目線一つ、些細な動き一つで相手を思うままに操れそうな。(実際操れるだろう)


 とてもじゃないが無理。太刀打ちできない──、なんて、以前のミアなら尻込みした。

 だが今は違う。どんなに気品や威厳に満ち溢れていようと、今のヴェルナーはミアと年の変わらない少女ハイディの傀儡。傀儡を恐れているようではハイディ相手などもっと太刀打ちなんてできない。


 カウンターのシンクからは相変わらず規則的な水音が聞こえてくる。

 店内を覆う闇は濃度を増し、宙に舞う細かい埃が輝いて見えた。

 服についた埃をさりげなくヴェルナーは払い落とす。彼が着用する三つ揃えの意匠は大幅に時代遅れで頑なな保守性を象徴しているようで──、だからなに??


「私を正式に吸血一族の長に任命してください」


 自分でも驚くほど頭は冷静、落ち着いた声で要望を口にできた。

 ついさっきまでの緊張も吹き飛び、真正面から見据えたヴェルナーの顔は──、むしろ、彼の方が瞠目し、呆気に取られていた。

 だが、間抜け面とも取れる顔は即座に、いつもの冷然たるものへと切り替わる。


「何を言い出すかと思いきや……、ふっ、大層寝惚けたことを」

「そう来ると思ってました」

「最初から結果が知れる要望を出すなど、よもやここまで愚かだったとは……。我が孫ながら余りに情けない」

「私はお爺様が思っている程愚かじゃありません」

「その口答え自体が愚かな証拠だ。自惚れも大概にせよ!」


 ヴェルナーを怒らせるのは一族間で一大事となる。

 かつては両親は元より一族総出で頭を下げ、赦しを請うたもの。

 でも今は違う。ヴェルナーの怒り様は駄々を捏ねる子供か老人特有の短気を起こしたようにしか見えない。ヴェルナーの頭に血が上れば上るほど、ミアの頭は急速に冷えていく。


「現在の一族の長はハイディだけど、もう一年以上塀の中、死刑も決定しています。実質長の役割は果たせていません」

「黙れ」

「黙らない。だってハイディが長になってから一族の秩序はめちゃくちゃ。人間との確執も深まっちゃったじゃない。近くない未来、本格的に吸血鬼狩りが始まってしまったらどうするの」

「そんなもの、我々で迎え討ち……」

「できるわけがない。人間が駆使する近代武器を甘く見ないで。世間世情に疎いだけでも不利なのに」

「ならば人間と共生する者から情報を集めれば……」

「知識だけじゃ限界がある。どうしてそんなに人間と対立したがるの」

「お前こそなぜ人間にばかり味方する」


 怒りに憑りつかれていたヴェルナーの声に、悲痛さが混じる。


「人間に迎合することでいずれ吸血鬼は滅びてしまうのに。長寿でなくなり、太陽を浴びても生きられる……、進化じゃない、退化だ!血への欲求、人を狩る本能まで奪われてしまったら、我々はもう終わりだ!」

「私は別に終わってもいいと思ってる」

「ミア!一族最大の裏切者め……!」

「終わってもいいと思うけど、お爺様みたいに吸血鬼であることが誇りの一族を否定しちゃいけないよね。その人たちも守るためには人間と正式な協定結んだ方がいいと思うの」

「ミア……??」

「でもね、例え協定結べたとしても吸血鬼全体がちゃんと守るには、彼らに納得させられるだけの力が私に足りない、んだ」


 我ながら非常に情けないことを口にしている。

 唇をきゅっと噛みしめ、ヴェルナーからそっと顔を背けた。


「だから長に任命しろ、と」


 力がないので肩書をよこせと言っているわけで、きっとヴェルナーは呆れを通り越し、軽蔑したに違いない。顔は見れないが、明らかに彼の纏う空気が一気に冷え込み始めていた。


「断る」


 再び予想通りの言葉が降ってきた。

 予想はしていたが、実際突きつけられると気持ちが深く沈み込んでいく。


「残念で」

「と、言ったら??」


 背けた顔を勢いよく正面へ戻す。ヴェルナーは依然しゃんと伸びた背筋、怜悧な無表情のままでいる。皺が目立つ細い首元で光るは短剣バゼラレルド


「よかったわねぇ。あと一秒遅かったら首を貫いてたとこだったわぁ」

「小娘……、何処に隠れていた。気配などまるで」

「舐めるな。気配を消すなんて俺たちには朝飯前だ」


 刺突短剣スティレットの細く鋭利な切っ先が、短剣の反対側から宛がわれる。


「貴様生きていたのか。死に損ないが」

「ふん、いつぞやは世話になったな」


 ロザーナとスタンに動きを封じられ、ヴェルナーはミアと同じ色の双眸に失望の色を浮かべた。


「私を殺してでも長の座を得たいか。随分苛烈に育ったものだ」









※これまでのミアらしからぬ行動に違和感あるかもしれませんが、次回までお待ちいただければと思います。

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