第106話 空飛ぶ犬小屋にて①
決して割れない分厚い鏡越しに悪夢を見続けている心地だった。
鏡の向こう側にいるのは己ではない、限りなく己によく似た他人であれば、どれほど良かったか。
本当にごく稀に、向こう側の男と入れ替われる……、好機に恵まれても、実行する間もなく自我は眠らされ、結局入れ替われず仕舞い。
年月だけが無駄に過ぎてゆく。
自我も弱まっていく一方で、そのうち完全に消えてなくなるかもしれない。
などと、ぼんやりと鈍りきった頭にはほとんど聴こえない、微弱な警告が告げる。
何度も何度も告げる。だが、警告を告げるごとに音は小さくなっていく。
あの一発の銃声はそんな己へ向けた最後通告。
痛みと甘ったるい血の香りを伴う
空に浮かぶは色褪せ、剥げ落ちた迷彩色の空挺。残念な状態の外観で一際目立つは淡い月光に黒光る双頭の
轟々と夜の風が激しく機体を揺らし、窓がカタカタと鳴った。振動を感じながら、空挺に乗り込むのもプロペラの音を聴くのも初めてだとヴェルナーは思った。否、今は何をするにも初めて経験することばかりだ。
大型空艇の乗降口へ足を踏み入れると、一瞬自分がどこにいるのかを忘れそうになった。
黒犬の絵以外塗装のみすぼらしさが目立つ外装からは想像できない程、艇内は美しく整っていた。
(操縦席はわからないが)壁面は淡いベージュを基調に緑の草花模様の壁紙が張られ、乗降口正面に鎮座するドーナツ型の本革ソファーがヴェルナーを迎え入れる。厳密に言えば、ソファーに腰かけ、待機する残りの精鋭たち──、ドーナツ型ソファーで待機するカシャとラシャというコーリャン人の兄妹が彼を待ち構えていた。
当然ながらヴェルナーを歓迎する意など兄妹に見受けられない。あるとすれば剥き出しの敵意。
特に妹の方は悪魔も咎人も逃げ出し兼ねない形相で無遠慮に睨みつけてくる。隣同士座った兄との間に立て掛けた擲弾発射器をすぐにでも手に取りそうだ。
否、彼女だけではない。兄だって表に現わさないだけで己への敵意は少なからず抱いているに違いない。ヴェルナーを拘束したミアの相棒の少女、混血の吸血鬼青年、狙撃手の青年も同様だろう。
ソファーと乗降口から少し離れた機体後部、通路を挟み左右二列に分かれ並んだ座席の中から隠れるように様子を窺うルーイとエリカの視線には怒り、怖れ、敵意等彼ら以上に複雑に絡み合っていた。
「ラシャ」
「何よ」
他の誰よりも敵意を隠し立てしない妹を見兼ね、兄が静かに咎める。
左目の下の大きな傷跡、肉体派然とした体格にそぐわない理知的な声。だが、妹は落ち着くことなく組んだ足の先でトントン、床を踏み鳴らす。下衣の裾と靴の間から覗く、真っ赤に引き攣れた皮膚が見るも痛々しく、目を逸らしたくなった。
「アタシはまだ全然信用してないんだから。拘束して身体の自由奪ってても油断できないしね」
「貴女の言い分は最もだ、お嬢さん」
「気安くお嬢さんって呼ぶな!ミアには悪いけど、あんたがスタンやルーイたちにやったことは絶対許さないから。例えハイディとか言うクソ吸血女のせいだとしてもね!」
「その辺にしろ。俺も思うところは多々ある。でも言い出したらキリがない」
「お兄ち……」
「乗り込んで早々、延々と押し問答続けられるのすっごい迷惑。キャンキャン噛みつくのはある程度カタついた後にしてくれない??」
んな……?!と目尻を吊り上げ、言葉を失うコーリャン娘を尻目に、優男めいた見た目と裏腹の毒を吐く狙撃手がヴェルナーの背中をぐいと押す。
「爺さん悪いね。うちは大体いつもこんな感じでやかましいのが何人かいるけど、まぁ、我慢してよね」
我慢するも何も生け捕りされただけでも僥倖。
本来の己を取り戻した上でミアと向き合えるだろう日が訪れたのだ。僥倖も僥倖である。
「爺さん、俺たちに茶番をする時間はない。とっととこいつらの後ろに座ってくれ」
混血の吸血鬼青年がヴェルナーを兄妹の背後まで引っ張っていく。ドンと肩を強く押され、よろめいた拍子に強引にドーナツソファーへ座らされ。すぐさま彼と、ミアの相棒でありハイディの義妹の少女がヴェルナーの両隣に腰を下ろした。
「悪いがミアとお前は近づけさせたくない」
きょろきょろと艇内を見回していると、吸血鬼青年がばっさりと言い切る。
当のミアはルーイとエリカと同じ列の座席に座っていた。偶然目が合うと、ひどく申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げてきた。
立派に成長したかと思いきや、気弱さは変わらず、か。
ほんの少し残念なような、どこかホッとするような。
「何をニヤけている」
すかさず吸血鬼青年が横目で睨みつけてくる。
片腕を失い、
「……君には悪いことをした、と思っている」
「…………」
背中越しに「はぁああ?!よっく言う……」「お前は黙ってろ」と兄妹の会話が聴こえてきた。
対して両隣の男女は気味が悪いほど沈黙している。
沈黙しているのは彼と彼女の他にもいる。操縦席の扉の前、床に直に座り込んで銃の手入れを始めた狙撃手も、こちらの様子を窺うミアたちも静かだ。それもこれも全て、己という異物が混入したから──
ピンッ、ポンッ、パンッ、ポォーーンッ!!
「な、何だ……??」
少し間の抜けた機械音声が艇内で反響し、耳障りなノイズがしばらく続く。
音は天井から漏れてくる。見上げた頭上に小型
『あ、あー……、あーあーあ―……。チェッチェッチェッ……、あー、チェッチェッ……』
ノイズに代わって滋味溢れる深いバリトン、舌を鳴らす音が交互に聴こえてくる。
操縦室にいるのは隻眼の医師と
声からは己と年齢が変わらなさそうな印象を受ける。つまり、この声の主こそ──
『あーあーあーー、ねーねー、みんなちゃんと聴こえてるかなぁー??ねーねーねー??』
「…………」
深いバリトンの主がようやく言葉らしい言葉を喋ったが、緊迫した状況に見合わない能天気な口調にヴェルナーは拍子と毒気を抜かれてしまった。
『ねーねーねー、ちょっとさぁ、誰でもいいからなんか言ってってば!天井の音響装置がちゃあんと君たちの声拾ってくれるから全然喋りかけてくれていいんだよ??』
急になんか喋れと言われても。
ヴェルナー含め艇内の空気が初めて一つになった、気がした。
『なんだよぉ、皆しんとしちゃって辛気臭いったら!つまんないし寂しいなぁー』
『
『えぇー、僕はいつでも真面目……』
『ヴェルナー氏に阿呆だと思われても知りませんよ?!』
『あ、阿呆?!』
吸血鬼青年が徐に溜息を吐き出し、頭を抱えた。
ハイディの義妹が醸す空気もほんの少し和らいだような。
「……
『スタンレイまで冷たいなぁー、いいさいいさ!わかったよ!本題移るさ、ふーんだ!』
「……つかぬことを尋ねるが」
「なんだ」
「君たちの長はあれで大丈夫なの、か……??」
質問直後、背後でぶふぅ!と盛大に吹きだす音が聞こえ、ミアとあまり変わらない小柄な背中がぷるぷる震えたのを目の端で捉えた。吸血鬼青年も一瞬返答に詰まっ……たものの、「孫と変わらない小娘に一族乗っ取られた貴様よりかは余程マシさ」と皮肉がたっぷり籠った答えが返ってきた。
「違いない」
今度はヴェルナーが嘆息する番だった。
『はいはいはい、スタンレイ、あんまり苛めちゃダメだよー??あぁ、申し遅れたねぇ。ようこそ僕の犬小屋へ。僕はノーマン・クレイ。ノーマンと呼んで頂ければ結構っ』
『……ヴェルナー・フォン=ハウゼン。爵位は其方と同じ
『へーえ!意外なとこで共通点アリとはねぇ!』
『最も大昔からの話し故今も生きているかは定かではないが』
『まあまあまあ!細かいことはナシナシ!歳も近そうだし、ちょーっと腹割って話してみましょーかねぇー、ヴェーさん!』
「ちょっ、
ミアとルーイの素っ頓狂な叫びが響き渡る。
仮にも元長を渾名で呼ぶなど吸血一族の者なら到底考えもしない所業。それでなくとも先程からノーマンとかいう男はやたらと馴れ馴れしい。さすがに苛立ったが逆らう訳にもいかず、無礼は流すこととした。
『単刀直入に言っちゃいましょっか!』
「どうぞお好きに」
早く言え。
喉から出かかりそうなのを押しとどめる。
『ヴェーさんさぁ、うちの住処以外にも吸血鬼送り込んだよねぇ??しかも何ヶ所かに分散させて』
弾かれたように肩が大きく跳ねた。同時に艇内中からの猜疑と緊張に満ちた眼差しが全身を突き刺してくる。
『あ、やっぱり
「何故、それを……」
『んー??勘??でさぁ、ヴェーさんに頼み事いくつかしてもいいかなぁ??ダメかなぁ??』
「駄目も何も……、私に拒否権などないのだろう??勿論拒否するつもりは毛頭ない」
『お、あっさり交渉設立??やったね、いやー、ありがたいありがたい!』
「それで頼み事とは」
音響装置の向こう側が数瞬静まり返ったのち、ノーマンは声質に見合う落ち着いた語り口で言った。
『一つ目、分散させた吸血鬼の居場所教えてもらいたい。二つ目、住処を含め襲撃に加担した吸血鬼の撤退に協力すること。三つ目、カナリッジ全土の吸血鬼にミアの長任命を知らせること。最低でもこの三つは是が非でも協力願いたい』
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