第135話 ブラックコーヒーを克服する方法④

 ミアが立ち寄った銀行周辺は飲み屋が立ち並ぶ界隈で、賭博場や娼館も兼ねている店も少なくない。決して治安がいいとは言えない区域でもある。

 銀行利用者も堅気でない者が多く、却って賞金稼ぎの換金所としては利用しやすい。(銀行側にしてみても、賞金稼ぎが出入りすることで犯罪抑止に繋がり、双方の利害が一致する)


 ミアが入り込んだ路地から銀行の裏通りの様子が垣間見える。

 軒を連ねるうらぶれた店の前で女性が複数人たむろしていた。


 段差の低い石段に座り、けだるげに煙草を吸っていたり、別の店の前では何人かでお喋りに興じていたり。また別の店の前では手鏡片手に化粧をしていたり。

 いずれも露出度の高い服装で、男性が通りがかる度に腕を引き、店の中へ連れて行こうとする。

 飲み屋や宿を兼ねた売春宿の通りのようだ。


 春をひさぐ女性に対し、ミアは差別心をまったく抱いていない。が、なんとなく気まずくなり、場所を移して飛ぼうと思った。

 踵を返そうと、売春宿通りに背を向けかけ──、中途半端な態勢で固まる。

 視界の端、見慣れた姿が確かに映ったからだ。


 気にせず踵を返しておけばよかったのに。

 反射的に振り返ったが最後、ミアはその場に縫い止められたかのように動けなくなった。


 無造作なハーフアップにした暗めの金髪ダークブロンド。濃い紫の羽織の下には白の着流し。

 通りに立つ女性たちより頭二つ分は高い背丈。袖から覗く機械の右手、横顔からちらりと見えた黒い眼帯。


 彼は女性たちに囲まれても一切気に留めもせず、彼女たちを適当にあしらいながら、通りを見回していた。ミアはまばたきするのも忘れ、柘榴色の瞳を見開いたまま、息をつめて見守る。


 誰かを探している。

 いったい誰を??


 のぞき見への罪悪感より好奇心が勝った。否、好奇心と言うより、胸中で渦巻く大きな不安や猜疑を解消したい、気がする。しかし、なぜ彼にそんな複雑な感情を持つのだろう。

 イェルクへの疑問と共に己への疑問──、こんなことをして何になる、と内なる指摘は止まらない。でも、彼がここに来た理由を知りたい気持ちも同じくらい強い。


「あら、イェルクったら。久しぶりじゃないの!」


 よく通るけれど騒がしくなく、落ち着きを含む声が響き渡った。

 路地の陰から身を乗り出しそうになったが、通りから見えるか見えないかのギリギリの位置で踏み留まる。


 自制心を総動員し、わずかな隙間から様子を窺ってみる。

 彼を囲んでいた女性たちはいつの間にかいなくなり、代わりにたった一人だけが側に佇んでいた。


 一目見た印象は綺麗な人、だった。

 他の女性たちと比べて年齢は高そうだが、細かい仕草や表情ひとつひとつに気品とほのかな色気が滲み出ている。遠目で見ても伝わってきて、同性のミアでさえも見惚れてしまっていた。が、それも一瞬の事。


 その女性と親しげに、時に笑顔まで交えて談笑するイェルクの姿を見ている内に、どんどん胸が重苦しくなってきた。

 真っ黒な鉛の塊が胸の中へどんどん詰め込めまれていくみたい。ひとつ、ふたつ、みっつ……、と、どんどん溜まっていく。指を喉の奥へ突っ込んで吐き出したいくらいだ。


 嫌なら目を逸らし、さっさとこの場から去ればいいのに。

 嫌な筈なのに、あの光景から視線を外すことができない。


 その間にも鉛はまだまだ溜まり続ける。

 もう胸の中だけじゃ収まりきらず、喉や腹の方にまで溜まっていく。

 喉も胸も腹も真っ黒な鉛でぎゅうぎゅう、今にも圧し潰され、身体を食い破ってきそう。

 呼吸も上手くできない。全身が張り裂けそうで、苦しくて、目尻に涙が滲んでくる。


 彼が女性と何を話しているかなんて、聞きたくない。

 幸い、他の女性たちのかしましい声のお陰で会話までは聞こえてこない。


 この通りの店から顔を出したのなら十中八九、彼女もまた春をひさぐ女性。

 ということは──、だめだ。もう見ていられない。


 とりあえず、この路地から飛び立つのはやめよう。

 自分がここにいたことをイェルクに気づかれたくない。


 泣き出したい気持ちを押し殺し、ミアは逃げるように別の路地へと移動した。


 夕刻に近づきつつある空は急速に陰り出す。

 ミアの心情に呼応するかのように、ぽつり、雨粒が鼻先に落ちてくる。


 ミアが空へ飛び立つと、雨足は急激に強まった。

 バケツをひっくり返したような雨が蝙蝠羽根を、身体を叩きつけてくる。

 前髪が頬や額に張りつき、視界を阻む。黒いノースリーブのホルターネックや袴キュロットもぐしょぐしょに濡れそぼる。

 遂には雷さえ鳴り始めた。怯えながら真っ黒な雲の間を突き抜け、やっとの思いで住処の城の門前に辿り着いた。


 正面玄関がある中央棟へ続く石段を駆け上がる。

 鉄より頑丈そうな分厚い木戸の鍵を開け、重たい扉を押し込むように開く。

 玄関ホールへ飛び込むと、ミアの足元周辺のみ高級絨毯が色を変える。一歩進むごとに同じ色の靴跡が残されていく。


「災難だったな」

「ひゃあ?!」


 玄関ホールの奥、二階へと続く大階段を上がりかけたところで背後で呼びかけられた。

 ぎこちなく振り返ると、脚立を右手に抱えたスタンが呆れ返った顔でミアの背後に立っていた。


「びっくりした……、何してるんですか」

「見ればわかるだろう。雨漏りの確認していた。イェルクがいないしな」


 仮にも組織の頭でこの城の現当主なのに、という内なるツッコミは、イェルクの名を聞いた途端霧消した。代わりに必死で帰路を目指していたがために忘れていた胸苦しさを思い出し、再び悄然となった。


「仮にも精鋭の癖にたやすく背後取られるんじゃない。俺が声かけるより先に気づけ」

「ええぇ……」


 ミアの気持ちなど露ほども知らず。スタンの容赦ない叱責にそんな無茶な、と元から下がり気味の眉尻を更に下げると、反対にスタンの右の目尻が跳ね上がった。片眼鏡モノクルで隠した、動かない筈の左目も跳ね上がった、ような錯覚さえ覚える。


「だいたいお前はいつまでたっても鈍くさいと言うか、詰めがあま……」


 スタンがぎょっとした顔で口をつぐむ。


「あ、あの、ち、ちがうの……」


 髪から垂れ落ちる雫と共に柘榴の双眸からぽとぽと、涙が落ちる。

 スタンは徐に困惑と苛立ちを視線に込め、ミアをまじまじと見返すも返す言葉を失くしている。


 実は意外とミアは人前で泣いたりなんかしない。

 泣きそうな顔は割と見せるけれど、実際に涙をぼろぼろ流して泣いたことはない。


「あの、ほんと、スタンさんじゃないの。スタンさんじゃなくて」

「じゃあ誰が」

「えっと、その、誰でもないっていうか」

「じゃあ何なんだ」


 スタンは焦れったそうに渋面を浮かべたが、訳もなく泣き続けるミアにかける言葉が見つからないでいる。ミアもミアで自分でも理解できていない感情ゆえの涙で説明ができない。


 謎の膠着状態はいつまで続くのか。

 互いに身動き取れない中、大階段から玄関ホールへ降りてくる足音が届く。


「ねーえ、スタンさーん!雨漏りだいじょうぶだったぁー??」


 途端に二人は揃って階段を見上げ、ロザーナの姿を認めると心の底から深く安堵した。


「あらぁ、ミアおかえりっ!って、びしょ濡れじゃなぁい!!早くあったかいシャワー浴びてきたら……」


 ミアの泣き顔を見るなり、スンッ……とロザーナの笑顔が引っ込んだ。

 ロザーナの真顔は見るものすべてを凍てつかせかねない。現に、玄関ホール中が氷結したかのような空気に包まれた。


「スタンさん」


 スタンの肩がびくっと跳ね上がる。青白い顔が更に色を失くしていく。


「ミア泣かせたんだぁ」

「違う。ロザーナ、違うの。スタンさんじゃないから」


 ロザーナは今度はミアに向き直る。

 改めて笑っていないロザーナは怖い。怖すぎる。


「本当ぉ??」

「うん、ほんとほんと!嘘じゃないよ!」

「じゃあ何で泣いてたのぉ??」


 よかった。ちょっとずつ声にも表情にも温度が戻りつつある。


「えっと、それは……」


 俯いてもごもごと口籠る。

 こんな姿、一族にも組織の烏合精鋭外メンバーにも見せられない……。

 スタンがため息を吐く気配を感じた。


「このままじゃ埒が明かん。先に着替えをすませてこい。話はそれからだ」


 顔を上げると、二人と視線がかち合った。

 心配そうなロザーナと、呆れてはいるが同じく心配そうなスタンと。


「そうねぇ、風邪ひいちゃいけないものねぇ。この後三人でご飯食べる予定だったし、ご飯食べながらゆっくり話聴かせてもらおうかなぁ!」


 ぱん、と軽く両手を合わせ、名案得たりとばかりに微笑むロザーナを前に、ミアは話す覚悟を決めざるを得なかった。

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