第154話 ビビ③
河口から海の果てまで、視界が開放的に広がる。
ちょうど海へと陽が沈んでいくところ……絶景だな。
川にも近いが海にも近い。
これは中々いい場所だ。
上手くこの断崖を降りられれば、魚介類が手に入るかもしれない。
少なくとも小さなカニや貝、海藻くらいは採れるはずだ。
「うわぁ、腹減ってきたぁ……けど、下見ると……こっわいなぁ」
「僕は西日の方が怖いよ」
「良い景色じゃ……ああ、洞穴族って本当に日光嫌いなんだな」
「焼けそうじゃん」
ビビは岩肌に体を押し付けるようにして、日差しから身を隠している。
なんだか……ビビのその様子に既視感を覚える。
日焼けを嫌がる普通の女の子っぽい。
ただ実際、彼女にとっては死活問題なのだろうな……。
周囲の地形を見ていると、この断崖はなんとか頑張れば降りることはできそうだ。
ただし、一度足を踏み外すとあっさり死にそうでもある。
しかし……、もしかするとアワビやウニが手に入るかもしれない。
そう思うと諦める気にはなれない。
とはいえ今はビビもいるし、今すぐ降りるわけにもいかない。
最悪でもロープなどの道具を手に入れてからにすべきだな。
「戻るよ」
「はいはい、あ……このカエルは?」
「ポイして」
「ポイっ――とは、なかなかいかないな……っだ~、重い!」
ビビは軽く巨大カエルを捨てるように言ってくるが、それほど楽に放り投げられるようなものでは無い。
断崖への出入り口に十五センチくらいの段差が三つもあり、どう頑張っても杖では無理やり引きずり出せない。
どうにか工夫はしてみるものの、まるでうまくいかない。
最終的にいろいろ面倒くさくなり、ヌルヌルボディを抱きかかえるようにして放り捨てることになった。
うんざりする。
エリザベスの上着がべとべとになってしまった。
洗濯したいなぁ……。
それもこの断崖を降りて、少し上流に行けば洗濯できるかもしれない。
外は治安が悪いらしいが、ここからは人影は見えない。
カエルは断崖にボヨンボヨンと二度ほど岩肌にぶつかると視界から消えていった。
魚の餌になるのだろうか。
「ふぅ……ビビ、落ちていったぞ~」
「これ、いつも大変なんだ……助かったよ」
「毒無いと良いんだけどな……俺、臭くないか?」
「わかんないよ」
ビビ自体かなり臭かったはずだが、恐ろしいことにもう何も臭いを感じない。
たった一度見回りに同行しただけで、俺も似たような香りがするようになってしまったのだろうか。
まぁ作業自体は大したことないな。
荷物持ちとしてついて回るくらいだ。
とはいえ慣れない環境でいろいろと疲れた……腹も減ってきたし眠い気もする。
「それじゃ戻るよ」
「ああ……」
それからも同じようなペースで地下を歩き回り、ビビの部屋へと戻ってくる。
夕日を見たせいか、帰り道は行きに比べて少し薄暗く感じた。
人を数えるのも忘れてしまったし、どうやって帰ってきたのかもおぼろげだ。
やっぱり体が資本だ、こんな時こそ無理してはいけないな。
「じゃあまた次の見回りまで、休憩して」
「どれくらいの間隔なんだろ?」
「一日をきっちり四つに割った時間」
「なるほど……」
要するに六時間ごとに見回るようだ。
一度の見回りでおおよそ一時間程度かかるので、大体五時間ごとに移動するだけか……割と余裕だな。
前任者は何で死んだんだろうか。
モンスターにやられたか、溝にでも落ちたのか、それともビビを怒らせたか……まぁ、この環境だと病気が一番怖いな。
衛生という概念が死んでる。
「次の見回りの時、サイードへ伝言頼むよ」
「ああ……、ガストの? いいけど、俺一人で行く感じかな?」
「上には……あんまり行きたくないんだ」
「わかった。さりげなくサイードにこのカエルのベトベトこすりつけてくるわ」
「あはっ、サイードは妙に綺麗好きだから怒ってくるかもよ?」
「ばれないようにやるさ。そういえばあいつ、いつもあんな感じで剣持ち歩いてんの?」
「そうだね。僕は使ってるところ見たことないけど、聞いた話だと、たまに人刺したりもしてるみたいだよ」
「こっわ……」
「じゃあ、寝るから」
「あ、うん」
ビビは布をかき集めただけの寝床へと小さく転がり目を閉じる。
どうするか……。
とりあえず俺も横になるべきだな。
腹が減りすぎて寝られるかは分からないが、疲れているのは間違いない。
う~ん……。
なんとなく床に寝るのは抵抗感を感じる。
基本土足だからなぁ……そこに寝転ぶのはなんか嫌だな。
当然床はそれなりに汚い。
それにここは地下だ。
ムカデやゴキブリ、ネズミなんかいつ出てもおかしくはない。
壁に寄りかかって寝るか。
多少はマシな気がする。
「ナナシ、……見回りの時間」
「ん? あ~……え~っと、ごめんごめん。いつのまにか寝てたな。もうそんな時間なんだ、ふぅ……腹減ったなぁ……」
「さぁ、いくよ」
「わかった」
いつの間にか寝ていたようだ。
結局床で寝てしまったな……。
変な姿勢寝てしまったようで、首と頭が少し痛い。
寝汗もひどい。
生ぬるくじっとりとした空気にはどうも馴染めない。
もう臭いは分からなくなったが、べとつく体はやはり不快だ。
クロが淹れた熱々のコーヒーが飲みたい。
「今外は夜だから、ナナシには排水路を歩くのは難しいかもしれない」
「明かりは無いの?」
「あるよ――これ」
ビビはゴソゴソとロウソクを荷物の山から手際よくほじくりだしてくる。
妙に黄色っぽいロウソクだ。
腹が減りすぎているせいか、少しうまそうに見えてしまう……。
「一度も使ってないみたいだけど、いいのかな?」
「洞穴族は暗闇でも割と見えるからね。僕にはそれほど必要ないんだ。それに……片手だと使うのは難しい」
「じゃあ、ありがたく使わせてもらうよ。あの道暗くて怖かったんだよなぁ~。着火は……途中の明かりから拝借すればいいか」
「そろそろ行くよ」
「はーい」
またビビと二人で歩き出す。
こいつの背中を眺めながら移動するのも慣れてきた。
重い盾を背負っているせいで、常に前かがみなんだよな。
あとは、無意識に左腕を抱え込むような癖があるようで、歩き方に癖がある。
そのせいか何となくコソコソしているように見える。
ただ歩くの自体は割と早い。
「じゃあ、ここで待ってるから、サイードに伝言よろしく。階段を上り切ったらすぐ左、黒い服を着たお婆さんに聞けばいいよ」
「わかった。でもサイードに会えるかな?」
「今会えなければ、その婆さんに伝言を伝えておけばいいよ。ちょっと耳が遠いから、大きな声で言わないとだめだよ」
「ああ、わかった」
地下と地上を繋ぐこの場所は、こんな時間でも人が多い。
どうもビビはこの場所が苦手なようだ。
たしかに、ここにいる連中の視線には俺達に対する嫌悪感のようなものが混ざっているように感じる。
とはいえ、俺にとってはそんなことは限りなくどうでもいいことだ。
知ったこっちゃない。
あんまり変な目で見てくる奴がいたら、人違いのふりして笑顔で抱きついてやろうかな。
「なにニヤニヤしてるの? 早くいってきなよ」
「わかった!」
久しぶりに地上へ出ると、なんだか空気が美味い気がする。
まぁ気のせいだろうな。
しかし夜だとの雰囲気もまたずいぶんと違うな。
サイードと一緒に来た時よりもずっと明るく感じる。
照明のせいだろうか。
「なぁ、婆さん!」
「うるさいね……、そんなでかい声出さなくても聞こえてるよ」
「ああ、そう……、そんでサイードに会いたいんだけど――」
事情を説明すると、すぐに引っ込んでサイードを連れてきた。
意外とすぐ出てきたな。
あいかわらず長い剣を杖のように使いながら、のしのしと歩いてくる。
昼は緑色の服を着ていたが、今は白い服に着替えている。
何となくさっき放り投げた、巨大カエルの白い腹を思い出す。
どうも不機嫌そうな顔に見えるし、用件だけさっさと話すか……。
「お前、見事に薄汚れたなぁ~……で、何の用だ?」
「ガストから伝言だが、原皮の質が――」
ひと通り伝言を伝えると、サイードはどうにも気まずいような表情をして聞いている。
そりゃまぁ内容としては要するにサイードへの文句だもんな。
「今は仕入れ価格が厳しくてな……なるべく改善するとガストに伝えておいてくれ」
「……わかった。今は革防具の需要が高いのかな?」
「ああ……よく知っているな。そういうわけで、今原皮は取り合いなんだよ。まぁ……それに限った話じゃないんだけどな」
「加工品売ってるんだから、高値で仕入れても良いんじゃないか?」
「う~む……」
「あぁ……あれか、結局カノーザ領だけで商売していると、原皮を売るのもカミラの関係者で、防具仕入れるのもカミラの関係者ってことか。領外からの需要で儲かっても、その利益配分はカミラ次第……いや、こういうのは原材料に近い程、こっそり儲けやすい――」
「馬鹿、やめろやめろ。まったく……こんな場所でまずい詮索してくれるな。しかし……お前、何かそれなりにでかい商売の経験がありそうだな……う~ん……まぁまた声をかけるかもしれん。とりあえず今は俺の保険として大人しくしておけよ?」
「ああ、もちろんだ!」
「なんだか変な奴だなぁ……。まぁいい、俺は行くぞ」
サイードはそう言うとスタスタと歩き去っていく。
昼に会話した時と比べ、ずいぶんと離れて喋っていたな。
俺もビビと同じ臭いを発しているのだろう。
たった半日しか経っていないんだけどな……。
いや、数日すれば俺の方がずっとヤバくなりそうだな。
クロやシロに会えたとして、こんなんじゃ顔をしかめられそうだ。
鼻の良いコハクなんかは逃げていくかもしれない。
……泣いてしまいそうだ。
まともな飯と衛生的な暮らしを確保することが最優先かもしれない。
再び地下へと下っていく――。
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