第69話 クロと手入れ
ザムザと地図作りをした日の夕方。
食事時になると窯の周りに集まって、みんなで調理しながら食事をするスタイルが定着しつつある。
今日はミルが張り切って、少ない調味料を上手く使い、エリザベスの乳を使った煮込み料理を作った。
当然小麦粉も無いので、とろみをつけていないはずだが、濃厚なクリームシチューのようなものが出来上がり、皆でむさぼり食った。
鬼達は持ち前の回復力を頼り、火傷も気にせずかき込んでいた。
なんという、能力の無駄遣い……ずるい。
暫くすると、みんな腹も膨れ、弛緩した空気が漂う。
特に何をするでもなく、窯から煙が出るのをただ眺めている。
今日は一日歩き回ったせいか、腹が膨れると少し眠くなってきた。
西の空は赤く、日は沈みかけているが、まだ外は十分明るい。
眠いのは確かだが、なんとなく陽が沈むまでは、この空気を楽しみたい気もする。
「――ぎゃーぅ」
「おっ、そうか。今日はまだだったな」
クロが愛用のブラシとオイルを持ってきた。
アジトに戻ってきてから、なぜかクロの髪の手入れと、俺の髭剃りのセットが日課となった。
もちろんクロの髪は、俺がわざわざ何かするまでも無く、既に十分な手入れがなれされている。
だがそれでもクロは、毎日お手入れ道具片手に俺の顔を見上げ、いつもよりちょっと控えめに声をかけてくる。
特に決まった時間に来るわけでは無いが、食事の前後など、うまく俺の手が空いたタイミングを見てやってくる。
俺としても、この日課はとてもありがたい。
正直クロがあまりにも何でもできるので、どうねぎらったらいいか、真剣に悩んでいたくらいだ。
「そんじゃ~やっていくな」
「ぎゃうぎゃーぅ!」
ここ数日間、毎日やっているので、だいぶとコツも分かってきた。
髪にオイルを馴染ませるように、ブラッシングしていく。
「きゃーぅ、っきゃぅ」
「あれ? こうかな?」
ブラッシング中のクロは、意外と敏感だ。
すごくくすぐったそうに笑ったり、気持ちよさそうに目を細めたりと、こちらのわずかな動きに対しても細かく反応する。
元々可愛らしい顔が、表情豊かに変化する姿を見ていると、こちらとしても楽しいし、なるべく気持ちよくやってやりたいと思う。
普段は全くわがままなところのないクロだが、この時だけは、結構な時間手入れを続けないと離してはくれない。
なんだか甘えてくれているようで、うれしい。
いつもこの作業中だけは、みんな少し遠慮がちに離れたところで、別の作業をしていたりする。
今日もたっぷり30分ほどクロが満足するまでブラッシングした。
まだ遠くの空はほのかに明るいが、日も沈んでしまった。
大気はまだほのかに暖かく、丁度心地よいくらいだ。
「ぎゃうぎゃう~!」
「はいはい、おねがいね」
今度はクロに顔を剃ってもらう。
布の上にペタンと座ると、クロは俺の顔を見上げ、自分の膝をペチペチと叩く。
誘導された通り、クロの小さな膝に頭を預け、ゴロンと横になる。
「ぎゅ~ぎゃう……」
「ん~こうかな」
クロはもぞもぞと微妙に位置を調整するので、少し頭を浮かせつつ、それに協力する。
ちょうどいい位置が見つかったようで、小さなナイフをどこからともなく取り出し、素早く首にあてがう。
まるで暗殺者のような手際だが、お互い緊張することはない。
ナイフを持つのはクロなのだ、むしろ安心感すら覚える。
俺はただひたすらに、クロの明るく美しい瞳と、姿を現し始めた星空を楽しんでいればいい。
そうすればあっという間に作業は終わる。
それからしばらく、髭だけを綺麗に刈り取りながら、冷たいナイフが顔の上をゆっくりと滑るのを肌で感じつつ、クロの顔を見る。
「ぎゃ~ぅぐぎゃ~うぎゃう」
クロは謎の歌を歌いながら、少しだけ頭を左右に揺らしている。
先ほど整えた髪から、アーモンドオイルと乳香、後はわずかにチョコレートとコーヒーの混ざったような香りがする。
いつものクロの匂いで、とても落ち着く。
この匂いがすると、なんだか眠くなるんだよな。
いつも一緒に寝ているせいだろうか。
意識が遠くなる――――。
「…………しゅ……ぼにゃ……」
「……うん?」
「ぐぎゃーぅ!」
クロが膝枕をしたまま、じっとこちらを見つめ何か言っている。
いつの間にか寝てしまったようだ。
「気持ち良すぎて寝ちゃったわ」
「ぎゃ~う~」
「ごめんごめん~っと!」
「ぎゃーう! ぐぎゃーう!」
何か言いたげなクロを持ち上げ、肩車をして窯の周りをグルグル回る。
少しは喜んでもらえたようだ。
俺の仲間でこんな風に持ち上げられるのは、ぴんくを除けばクロくらいだな。
「今日はもう疲れたし寝るかな」
「それじゃ、片付けは私達でやっておくよ」
「ありがとうシロ」
「ぐぎゃうぎゃう!」
なんだか今日は良く寝られそうな気がする。
そう思い、クロを下ろそうとした瞬間、首から上を柔らかいクロの体でしっかり抱え込まれる。
そして唐突にクロの唇が俺の耳にやさしく押し当てられる。
「――――ぼ、にゃ、しゅ」
震えるようなささやき声が耳をくすぐる。
俺は突然のことにびっくりして棒立ちになる。
クロはといえば、あっさり拘束を解くと飛び降りる。
こちらに振り向き目が合うと、妙にくねくねしながら、きゃうきゃう言い始める。
「いえ~い! 成功~!」
「クロよかったね」
「おお~」
「うん?」
ザムザだけはポカンとしているが、みんな盛り上がっている。
どうやらギゼラの仕込みだったらしい。
だが、そうと分かったからといって、どうしようも無い。
耳に深く残るクロの声に、ただひたすらに心をかき乱されたままだ。
「クロ、お前…………綺麗な声していたんだな」
「きゃ~ぅ~っ」
クロが見たことの無いくらい恥ずかしそうにしている。
なんだか見ているこちらも無性に気恥しくなってくるが、それにもまして素直に嬉しい。
「クロ、名前を呼んでくれたんだな。ありがとう」
「ぅ~~~~っ」
「クロかわいい~」
クロに感謝を伝えると、顔を真っ赤にして瞳を揺らす。
ギゼラがクロを抱きしめる。
「いや~、なんかメラニーにクロがおしゃべりできるようにって、頼まれてたんだよねー」
「そう言うことか」
「本当はメラニーは自分の名前を言わせたかったみたいだけどね」
「ぐぎゃーうぎゃう! ぎゃうぎゃうぎゃう!」
「ねぇ、クロ……シロって言いやすいと思うよ」
クロはそんなに簡単に言ってくれるなと、ギゼラに文句を言っているようだ。
なおシロも自分の名前を呼ばせようと画策し始めた模様。
正直なところ、今回クロが俺の名前を何とか発語できたのは、かなり頑張ったのだろう。
クロが俺たちと同じように喋ることは、種族特性上無いだろうと思っていた。
今回クロが俺の名前を何とか発語できたのは、かなり無理してのことだろう。
現状、普通に会話するのは不可能だと思う。
何とか簡単な名前を呼ぶのが限界じゃないだろうか。
まぁ、むしろそれができたことですら奇跡に近いのだろうけど。
だがそれにしても、クロに名前を呼ばれると、本当に精神の深い部分に響き、魅了された。
脳が甘く痺れるような心地がする。
あいつなんか声に魔法でも乗ってるんじゃないのかな。
とりあえず眠気は吹っ飛んでいった。
「まぁ~もう遅くなってきたし、みんなで片付けしようか」
「ぎゃうーぐぎゃうぎゃう!」
クロがいつも通りの声で、元気に片付け始める。
シロとギゼラは片づけをしつつ、クロに名前を呼んでもらおうと絡み続ける。
先ほどまでは燻製づくりに夢中だったミルとザムザまで混ざりだす。
そうなると、何となく俺ももういちど、言ってほしくなる。
「そういやいつもぎゃうぎゃ言ってるんだから、ギゼラって言えそうじゃない~?」
「わたしはボナスとぴんくの次に長い付き合いなんだから、私からだよね」
「ねぇミルも短いし行けるんじゃないかい?」
「ボナスが言えるなら、ザムザも言えるのでは?」
「ぎゃーぅ、ぐぎゃーう~!」
何故かクロ的にはすごく恥ずかしいようで、ぎゃーぎゃー抗議していた。
さりげなくぴんくもクロにウィンクを飛ばしている。
そういうの何処で覚えてくるんだよ……。
結局それからも誰も名前を呼んでもらえなかったが、恥ずかしがるクロがあまりにもかわいかったので、みんなでとても満足気な顔をして寝た。
寝りに落ちる直前、横になっていると、クロがこそこそ近寄ってきたかと思うと、耳元で一度だけ俺の名前をささやいて逃げていった。
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