第2話 荒野

 あれからどれくらい時間がたったのか。

 何が起きたのか、ここが何なのか、これからどうすべきなのか。

 色々疑問はあるものの、もはや何も考えられないくらい呆然としてしまっていた。

 日が昇ってくる。今は朝なのか。

 座っている地面はひんやりしているが、日差しはきつい。

 ここはとても静かだな。

 風の音以外はほとんど何も聞こえない。

 たまにキジに似た鳥の鳴き声が遠くから聞こえるくらいだ。



 しばらくのあいだ、目の前に広がる無駄に雄大な荒地をぼんやり眺めていると、遠くの地形が波打つように動いているのが見えた。

 目を眇めて暫く観察する。

 ああ……あれはたぶん……蛇だな。

 かなり離れている上に、大きさを比較できるようなものが何もないので、いまいちスケール感が掴めない。

 とはいえ少なく見積もっても直径1メートル、長さは20メートルくらいあるんじゃないだろうか。

 あまりにも大きいので、蛇が動くたび、まるで地面が波打っているかのように見える。

 あと目が片側だけでも8つある。

 一見すると8つ目ウナギのようだが、すべてに眼球があり動いているように見える。

 気持ち悪い。

 最早蛇なのかさえ疑わしいな。

 しかし、もしあれがここに来たら、多分俺は死ぬと思う。


「やっぱりまだ、死ぬのは嫌だなぁ……」


 今まで自分の状況を考察するような気力すらわかなかったが、急に頭の中が現実的な思考に切り替わってきた。

 俺はこんな状況になっても、追い詰められないとスイッチが入らないようだ。

 立ち上がって初めて汗だくになっていることに気が付く。

 何時の間にか日は高くなっている。

 随分長い間ぼんやりしていたようだ。

 とりあえず急ぎジャケットを脱ぎ、いまだに肩に掛けたままの鞄にねじ込む。

 とにかく身を隠せる場所を探さないと。

 この荒野にある身を隠せそうなものは…………岩か植物くらいか。

 とはいえサボテンやオリーブのような植物がパラパラあるくらいで、どうも身を隠すには頼りない。

 でかい蛇もどきのいない方向で、手近で身を隠せそうな場所はほとんど見当たらない。

 唯一遥か遠くに、豆粒程の岩場が見える。

 ひたすら続く荒野がスケール感を混乱させる。

 いったいどれくらい遠くにあるのか、どれくらいの大きさなのか判断しずらく、不安になる。

 水分、食料ともに心もとない。

 水筒に残るわずかなお茶と……後はお菓子くらいか。

 

 これは遅かれ早かれ、どのみち死ぬかもしれないな。

 だが少なくとも、このままここにいるよりはましだろう。

 このクソ重い鞄はどうしよう。

 持って行くか悩ましい。

 いま水処理プラントの施工図面なんぞ持っていても意味があるとは思えない。

 とはいえ、いま捨てたものは二度と手にはいらないだろう。

 そう考えると、どうしても惜しく感じてしまう。

 いまの俺は、ほんとうに何も持っていないから。


「代わりに持って行くものがあるわけでもないし。…………体力の続く限りは持って行くか」




 



「辛い……」

 

 かれこれ3時間ほど歩いているが、ただただ辛い。

 そもそも体力には自信がない。

 いい年なので健康には気を使っている。

 毎日意識的にそれなりに歩き、週2でジムにも通っている。

 おかげで腹も引っ込んだ。

 とは言え、所詮は普段デスクワークしかしていない体だ。

 あっという間にへばってきた。

 加えてとにかく暑く、そして乾燥している。

 日差しがきついのも辛いが、これほど乾燥した空気は初めてだ。

 この乾燥に体がやられてきている。

 大量に汗をかいているはずだが、一瞬で蒸発していく。

 肌と喉がとにかくひりつく。

 わずかばかり残っていた水筒のお茶もずいぶん前になくなった。

 もう隠れる場所より水を探したほうがいいかもしれない。

 このままいくと先に熱中症か脱水症状で死にそうだ。

 なによりいくら歩けども、全然岩場に近づいている気がしない。


 「不安だ…………」


 果たしてこのまま進んでいいのだろうか。

 試しにジャケットを頭にかけて日除けにしてみる。


 「あれっ……なにこれ、意外と涼しい……」


 3時間前に気付くべきことだった。

 日差しを遮るだけで、かなり暑さは改善された気がする。

 これならまだ何とか進めそうだな。


 「もうちょい頑張るか……。」





 さらに1時間は歩いたと思う。

 なのに小さな岩場は全く近づいてこないではないか。


「どうなってんだよ…………おかしいだろ…………」


 目指したのは、少し遠くにあるちょっとした岩場だったはずだ。

 だが実際は、かなり遠くの大きな岩場だったようだ。

 こんなことなら、蛇にでもサクッと食われたほうがましだったんじゃないか。

 危なく心が折れて泣き崩れそうになる。

 自分の中に辛うじて残っている、冷静な部分が何とかそれを食い止める。

 ここでパニックを起こすと死ぬ。

 そしてここで止まっていても必ず死ぬ。

 今できる唯一のことは、ただ足を動かし続けることだけだ。

 歩くことだけが、唯一生きる可能性を繋いでくれる。

 それになんだか状況があまりにも辛すぎて、逆に笑えてきた。

 ちょっと気分が軽くなった。


 




 

「もう、進めない……」


 ついに歩けなくなった。

 もちろん体力的な限界はとっくに迎えている。

 それでもゾンビのように進んでいたのだ。

 だが、今問題となっているのは体力的なものじゃない。

 直径2キロくらいはありそうな、円形に陥没した地形が目の前に現れたのだ。


 深さは30メートル以上あり、切り立った岩壁により囲まれている。

 この巨大なクレーター状の地形のせいで、これ以上進めなくなったのだ。


 クレーターの中はこれまでの景色とは違い、植物が青々と茂っている。

 色々な鳥や生き物の声も聞こえてくる。

 そして何より重要なことは、クレーターの中央には水場があったのだ。

 木が邪魔で大きさや状況は正確にはわからないが、日の光をキラキラ反射している水面がしっかりと見える。


「ぅ…………ぁっ……」

 

 思わず叫びそうになったが、のどが渇きすぎてうまく声を出せない。


「あぁ、歩いて良かった……助かった……何だか、神様ありがとう」

 

 何の信仰も持ってはいないはずなのに、そんな気持ちがあふれてくる。

 久しぶりに少し泣いてしまった。

 ……水分がもったいない。




 さて、何とか水場を発見するところまではきた。

 とはいえこれ降りられなければ結局助からない。

 さっさと降りられそうな場所を探すか。

 右回りかがいいか、左回りかいいか。

 計算すると一周6キロ程度だろう、どっちもでいいか。


「よし右回りだ!」





 

 正解は左回りだったようだ。

 最初に到着した地点から直ぐ左手の岩壁に、幅1メートル弱の亀裂が走っていた。

 亀裂は、幅は狭いが奥行きが深く、うまく亀裂内に侵入できそうな形状をしている。

 荒れた岩肌を手掛かりに、手足を亀裂内の岩壁に突っ張らせた状態でジワジワ降りていく。

 10階建てのビルくらいの高さはあるので、下を向くと身がすくむ。

 ただ、手掛かり足場は多く降りやすい。

 のどの渇きに急き立てられ、意外なほど簡単にクレーターの底に到達した。


「上るときはちょっと大変かもなぁ」


 

 ちなみに降りられそうな場所を探して、クレーターをほぼ一周したわけだが、無駄ではなかった。

 というのも、水場はこの辺の人気スポットらしく、いろいろな生き物が確認できたからだ。

 

 だが、確認できた生き物は、あまりにも巨大で、俺の知っている動物とはまるで違うものだった。

 真っ黒な毛にまみれたジャコウウシみたいなやつと、ムキムキの赤いシカのような生き物が、頭を突き合わせて水場を取り合っていた。

 大型バスのような2体が頭突きをするたび、激しい衝撃音が荒野に響き渡る。

 シカもどきは頭突きをした後、鼻から火を噴いて、フンスフンスと荒ぶっていた。

 二匹はしばらく水を飲みつつ小競り合いをしていたが、最終的には湖から出てきた全長20メートルくらいありそうなワニのような生き物に、ジャコウウシもどきが水の中へと引きずられていったことで争いは終了した。


 ……果たして俺は水を得られるのだろうか。


 クレーターの底に到着してから、植物の陰に隠れつつ湖を目指す。

 何とかコソコソと、湖から一番近い茂みまでは来ることができた。

 だが、やはり湖は人気スポットのようだ。

 オレンジ色のでかいカバが、さっきのワニもどきともめている。

 カバはクレーターにどうやって入って来たんだろう。

 しばらく威嚇しあっていたが、カバは諦めたようだ。

 羽ばたいて帰っていった。

 背中に何かてろっとした、はんぺんみたいなものがくっついているな、と思っていたが、あれは羽だったのか。



「水が飲みたい…………」


 もう肌や唇までも、ガサガサになってきた。

 なんだかさっきから手の震えが止まらない。

 これはすでに深刻な脱水症状なのかもしれない。

 それでも湖を睨みつけつつも、茂みからは出ない。

 基本的に湖にはいつも何かしら巨大な生き物がいるからだ。

 どいつもこいつも周りに敵意をまき散らして、ひたすら荒ぶっている。

 危なすぎる。

 すぐ目の前に水があるというのに、飲みに行けない状態が続いている。

 日も徐々に暮れてきた。


「もういいかな」

 

 今水を飲んでいるオリックスもどきとはギリギリ仲良くなれそうな気がしてきている。

 オリックスは草食だ。

 もしかしたら近づいたとしても、こちらには我関せずで、水を飲み続けるかもしれない。

 うまくいけば人間とこの巨大生物の間に友情が芽生えるかもしれない。

 見た感じ、結構知能も高そうだ。

 そうすれば背中に乗せてもらい、楽々移動できるようになるかもしれない。


「もう行っちゃうか」


 投げやりな気持ちでそんなことを考えていると、オリックスもどきが、ふとこっちを向いた。

 鼻から火を噴きだしながらフンフンしだした。

 目を見ると四角い光彩がぐるぐる回ってる。

 だめだ……やっぱりこいつらとは仲良くできないわ。

 少なくとも、こいつの目からは狂気しか感じられない。

 こちらに気が付いて警戒しているようだし、むしろ少し離れよう。

 近づいても、頭突き食らって死ぬ未来しか想像できない。

 せっかくここまで待ったんだ、ここまできたら夜までは……待とう。

 




 

「辛い…………」


 日が沈み切った。

 夜行性の奴らが大量に集まって来たらどうしようと不安だったが、最後に生き物が現れてからそろそろ30分以上たつ。

 今のところ何も現れる気配がない。

 もう喉は痛いだけで、渇いているのかもよくわからない状況だ。


「…………よし、行こう」


 頭も痛いし体もだるい。

 疲労の限界で体の至る所がおかしい。

 それでも震える足は勝手に湖に走り出そうとする。

 よたよたと進むほどに、体が湖に吸い寄せられる。

 そのまま湖へ飛び込みたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえ、寸前で何とかとどまる。

 そっと手を伸ばし水をすくう。

 もう暗いせいで水がきれいなのかどうかもよくわからないが、口に含む。

 特に何の味もしない。

 そのまま飲み込む。


「うぁぁ……」


 急に体の感覚が戻ってくるような感じがする。

 何時の間にか白黒になっていた世界に色が戻ったし、外が寒くなってきていることにも今気が付いた。

 このまま脇目もふらずがぶ飲みしたいところだが、音をたてないよう、可能な限りゆっくりと、震える手で何度も水をすくい飲んだ。




 

 とりあえず人心地ついたところで、いったん元居た場所へ戻ることにする。

 元居た茂みに戻り湖を振り返ると、先ほど水を飲んでいた水面が少し揺れているのが見える。

 夜でも無条件に安全とは言えないようだ。

 もしかしたら、さっきは単に運が良かっただけなのかもしれない。

 ここでは慎重にしすぎるくらいで丁度いいようだ。

 水を飲んだ達成感で、少し気持ちが高ぶっていたが、冷静さを取り戻した。

 ここまで行動の動機付けはずいぶん投げやりなものだったが、振る舞いとしてはかなり慎重だったと思う。

 俺の安易で臆病な性格によるものだが、今日はそれに救われた気はする。



 それにしても今日はいくらなんでも色々ありすぎた。

 なにひとつ状況を整理できていない。

 体は限界まで疲れているが、頭は昼間よりもすっきりしているような気がする。


「まぁ錯覚なんだろうけど……」


 少しは冷静になれたとはいえ、衝撃的なことがありすぎて、脳が興奮しているのだろう。

 とはいえ水を飲んだおかげで、少し気持ちに余裕がでてきた。

 ある程度リラックスできなければ、疲労も回復しないし、判断ミスも増えるだろう。

 今はとにかく、少しでも心と体を休ませることが重要だ。


 気分転換に夜空を見上げてみると、とんでもない星空が見える。

 地上に光がなく、空には雲や月、光を邪魔するものは何も無い。

 そのせいか、見える星の数がまったく違う。

 昔山登りした時に見た星空は感動したものだが、今見ているこの夜空は、比べ物にならないくらい美しいと感じる。

 だが、知っている星座はひとつもない。


「やっぱり……俺が知っている宇宙じゃないな」


 あの時あの横断歩道で一体何が起こったんだろう。

 何処か別の世界に落っこちていったのか。

 それともあの一瞬で世界が作り変わってしまったのだろうか。

 であれば今の自分も別の形になっているはずだが、記憶は連続している。

 もしかすると、連続していると思っている記憶も含め、既に別の自分になっているのかもしれない。

 まぁそんなこと言いだすときりがない。

 だからまぁ、結局俺に出来るのはこれまでと同じように、ただ状況を受け入れることだけだ。

 むしろ、子供のころからずっとあった予感が、ついに現実化したことで妙な納得感すらある。

 こんな状況にもかかわらず「ほら、やっぱりね」と思えてしまう。


「けどだからって、…………これからどうすりゃいいんだろうなあ」



 しばらくそうやって体を休めつつ、横になって夜空を見上げていた。

 この世界の夜は本当に静かだ。

 風の流れる音だけが聞こえる。

 これほど植物が多ければ、普通はもっと多種多様な虫もたくさんいそうだ。

 それなのに虫の鳴き声はまるで聞こえない。

 だが小動物は活動しているようだ。

 湖に近くで小さなうさぎのような生き物が何匹かぴょんぴょん跳ねているのが見える。

 日が沈んで3時間くらいか。

 夜は小さな生き物が活動的になるのだろうか。


 それにしても、昼とは打って変わって、随分冷え込む。

 この環境で野宿はさすがにまずいな。

 夜風がどんどん体の熱を奪っていく。

 とにかく風だけでもしのげる場所を探すべきだろう。

 とは言え何処に何が潜んでいるのか、何もわからない。

 考えられるリスクがあまりにも多すぎて嫌になる。

 とりあえず最初に降りた亀裂まで戻って、最悪岩の隙間に挟まって寝よう。


 


 岩壁に戻って調べてみると、亀裂内の岩壁に、ちょうどいい具合の窪みを発見した。

 意外と高い位置にある。

 落ちたら怪我しそうだが、虫や小動物にはたかられなさそうだ。

 入ってみると天井は低めだが、奥行き方向は意外と広い。

 3方向囲まれているせいか、何となく落ち着く気もする。

 だめだ、横になると睡眠欲に抗えない、寝るか。


 眠りに落ちる前、ぼんやりとした頭でとりとめもないことを考える。

 そういえば俺の名前ってなんだったっけ。

 …………まぁいいか何でも。

 

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