第63話 熱

 結局午前中は何も手につかず、ぼんやりと過ごしてしまった。

 昼前にはクロとエリザベスも無事帰ってきて、みんなで早めの昼食をとった。

 午後からはクロに髭を剃ってもらい、かわりにクロの髪を梳かしてのんびりと過ごす。

 俺がブラシを通すと少しくすぐったいようで、クロがあまり聞いたことない可愛らしい声をあげて逃げるが、手を止めると催促してくる。

 まぁ本当はクロが自分でやったほうが上手くできるのだろうけどね。


 ミルとギゼラは意気投合したようで、仲良くアジトにかまどを作る計画を立てたり、エリザベスの毛の利用方法について話し合ったりしているようだ。

 多様な植物にも興味が尽きないようで、二人できゃあきゃあ言いながら歩き回っている。

 何気にこの二人が一番アジトの環境を楽しんでいる気がする。

 シロはザムザにアジトのことを色々と教えていた。

 相変わらずザムザはシロのことが怖いようではある。

 だが、それでも新しい環境に対する好奇心は強いようで、恐る恐る質問したり、収穫物に目を輝かせたりと年相応の反応をしていて微笑ましい。

 シロはシロで、ザムザ相手だと当たりはきついものの、意外と面倒見はいい。

 しかも、妙に姉のように振舞うので、それはそれで面白い。

 2人は見た目も似たところがあり、美男美女の姉弟のようで、見ていて何となく微笑ましい気持ちになる。


 そんな具合に、結局その日は寝るまで、特に何をするでもなく、みんなの様子を眺めたりしてぼんやりと過ごした。





 

 その日の夜、ふと風の音が気になり、目が覚めた。

 

 まだ昨日から続く、不安な気持ちを払拭できていないのだろうな。

 少し息苦しい。

 何となく星空が見たい。

 岩壁ベッドから皆を起こさないように這い出す。

 なるべく音を立てないように、余ったコーヒーを淹れた水筒を手探りで持ち出し、そのまま岩壁の外へ出る。

 若干肌寒い。



 

「ボナス」


 外に出たところで、耳元で囁くように声をかけられる。

 驚き振り向くと、シロが不思議そうな顔で立っていた。


「起こして悪かったね。ちょっと星が見たくなって」

「そっか。じゃ一緒に見よ」


 シロは岩壁に背中を預けるようにして座ったので、横に並ぶ。

 シロと2人で星を眺めるのはこれが初めてかもしれない。

 若干ぬるくなったコーヒーを一口飲み、シロに渡す。


「飲む?」

「うん」

 

 相変わらずこの場所の夜は静かで、星だけがひたすらに瞬いている。

 横で静かにコーヒーに口をつけているシロだけが、僅かな熱を肩越しに伝えてくる。

 先ほど感じた息苦しさのようなものが少し和らいでいく。


 

「ボナス。魚食べるの上手だったね」

「魚? ああ、ヴァインツ村の時食べたやつね。確かに昔はよく食べたからなぁ」

「ボナスの故郷で?」

「故郷か…………。まぁそうなるのかな」

「ボナスは…………いつか故郷に帰りたいの?」


 どうなんだろう。

 一番初め、この土地へと放り出された瞬間でさえ、迷うことなく答えることができただろうか。


「ボナスが魚を食べていた時、見たことの無い顔をしていて、心配になったの。――――もし帰るなら、私も一緒に行っていいの?」

 

「――――――俺には子供がいたんだ。もちろん妻も」


 横でシロが息をのむのが分かる。

 顔も名前も――――やはり、今でも思い出せない。

 

 正直なところ、名前と顔を失いボナスと名乗るまでの俺と、今ここにいる俺が、もはや連続したものとしては考えられなくなっている。

 あの時、横断歩道を当たり前のように渡り切った自分が別にいて、そいつは今でも普通に通勤している。

 毎日仕事をこなし、たまに子供に小遣いをせびられたりしつつも、地味で幸せな日常を送っている。

 そんな気さえしてくる。

 

 だが、そんな馬鹿げた話を彼女にしたところでどうだというのだ。

 そもそも彼女にとって、そんなことは重要でない。

 いま彼女が必要としているのは答えだ。

 であるならば、そんなことはボナスと名乗った時に既に決めている。



「帰らないよ。俺はずっとシロ達と一緒にいるつもりだよ」


 なので、結論だけを伝える。

 彼女は一瞬だけ、肩を震わせる。

 そして次の瞬間、覆いかぶさるように馬乗りになると、青い瞳を揺らし俺の目を覗き込む。


「ボナス。私はね、ボナス」

「うん?」


 シロは息がかかるほど顔を近づけ、首に手を回す。

 そしてどこか少し怒ったような、けれどささやくような声で話す。


「怖かったんだよ? 黒狼から逃げる時、ボナスがどこいっちゃったか、わからなくなって」

「ああ、村に火をつけて逃げ出したときか……酷い記憶だ。ごめんよ」

「――――だめ、許さない」


 そう言うとシロはそのままゆっくりと俺に口づけする。

 シロはもともと体温が高い。

 だが、今は心配になるほど体が熱い。

 大分と冷え込んできた屋外の空気の冷たさとの落差に、なんだかくらくらしてくる。

 熱く滑らかな背中に手を滑らせると、シロもゆっくりと腕を引き寄せ、より強く密着してくる。

 昨日はあれほど大量の黒狼を殺戮した強靭な肉体だが、信じられないほど柔らかく感じる。

 それにとてもキスが深い。

 何となく頭の中でシロと最初に出会った時の食事風景が思い出される。

 シロはどんなに腹が減っていても、とてもゆっくりとよく味わい、そして誰よりもたくさん食べるんだよな。

 そういや、あの時はこいつが男だと思っていたっけ。



「――――ねぇ、ボナス。もういっかい」


 シロの熱い唇がゆっくりと離れる。

 額をくっつけたまま、シロが熱い息をつく。

 これ以上は頭がおかしくなりそうになる。

 こいつの吐息には、どこか男の獣性を掻き立てるような甘さがある。

 まさかシロがこれほどの色気を隠し持っていたとは。





「――――あ~さんむいっ。う~……ん? あれ? あっ、ああっあああ?」

「ミル……。トイレなら向こうでよろしく」

「あ、うん……。あ、あの、なんかごめんよ~」


 唐突にミルが乱入してきたおかげで、少しだけ冷静になる。

 あいつ意外と反応が初心だったな。

 シロは一切離れるつもりが無いようで、ミルが話しかけている間も、恥ずかしがるでもなく、俺に覆いかぶさったままだ。

 いやよく考えろ。

 ミルはまた戻ってくるんだぞ。

 なんだか熱に浮かされるようにこんな状況になってしまった。

 だが、今色々致すのは、よく考えるとまずい。


「シロ、ちょっと一旦――――」

「いや」


 シロが相変わらず熱い体で柔らかく絡みついてくる。

 締め付けられているわけでもないのに、微動だにしない。

 まずいな、捕食されちゃう。

 かといって、その場限りの適当な言葉じゃダメだろう。


「もしシロとの間に子供が出来たら、信じられないくらい可愛いんだろうな」


 熱く柔らかい拘束が少し緩まる。


「でも、今まだ落ち着いて暮らせるような環境が整っていないと思う。安心して子供が育てられる環境をつくろう。やっぱりやることやれば、出来るものだし」

「……うん」


 やっと納得してもらえたようだ。

 実際のところ、今シロが妊娠すると色々やばい気もする。

 暴力が幅を利かせる、命が軽い世界だ。

 やることやるならば、せめて多少は安心して出産妊娠できるような環境を整えてからにしたい。

 だが、なぜかシロはまだ動かない。


「でも、もうちょっと――」

「えっ?」

「あっ、えっ、まだやってる…………ひえええええっ」


 間の悪いことにミルが戻ってきて、そのまま逃げていく。


 耳にこびりついた遠吠え、いつまでも追いかけてくる黒狼の顎、体にまとわりつく泥と血の感覚、村が焼ける匂い、頭の中をグルグル回っていた不快なもの全てが、いつのまにか頭の中から消え去っていた。

 そのかわり、暫くはシロの熱にうなされそうたが……。





「ところで、ボナス。アジールと変なお店行っちゃだめだよ?」

「――あ、ああ。もちろん!」

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