第77話 黒豹①
どうやら俺達はずっと観察されていたようだ。
ただその意図は、あの琥珀色の瞳からは、全く読み取れない。
獲物を物色しているようにも見えるし、ただ気まぐれにこちらを観察しているようにも見える。
いずれにせよ、圧倒的な力を持つものが、遥か頭上から、まるで俺たちを品定めでもするかのように、悠然と見下ろしてくるのだ。
決して気持ちのいいものでは無い。
その心理的な圧迫感が、体も思考も重くする。
仕掛けるべきか、逃げるべきか、それとも…………。
シロやエリザベスの反応を見るに、普通に戦っても全員生き残ることは難しいだろう。
誰かは……少なくとも俺は死にそうだ。
いかにも草食動物的な特徴を持つエリザベスでさえ、初めて遭遇したときは、その威容に押しつぶされる思いだった。
堂々たる肉食獣の特徴を持つこの巨大な黒豹がもたらすのは、まさに絶望感だ。
あの顎はエリザベス以外の誰であっても、例外なく一噛みで骨ごと粉砕されるに違いない。
ぴんくで先手を打てば勝てるだろうか?
火力は十分だと思う。
だが果たして当てることができるのか……。
ぴんくは先ほどからずっと黒豹を見上げている。
こんな反応をするのは珍しい。
簡単に何とかなる相手では無いのだろう。
クロはナイフを持ってはいるが、特に構えてはいない。
ただひたすら黒豹を観察している。
普段のクロからは考えられないほど静かだ。
シロは俺の前に立ち、先ほどから落ち着きなく立ち位置を変えている。
頭の中でいくつもの戦闘を思い描いているのかもしれない。
そしてそのどれひとつとして、うまくいっていないのだろう。
彼女が今どういう表情をしているのかはわからない。
だが、いつもは頼もしく感じるその背中からは、一切の余裕が感じられない。
ザムザとギゼラは手元に武器はある。
だが黒豹を認識してからは、ただ荒い息をつくばかりで、ろくに構えることすらできずにいるようだ。
皆緊張感をみなぎらせながらも、次の行動がとれないでいる。
この場を支配しているのは、間違いなく黒豹のほうだ。
さきほどまでの日常の穏やかな空気は、一瞬で吹き飛んでしまった。
「――――放っておけばいいんじゃないかね? 何かされたわけでも無いんだし、何かできるわけでも無いんだ」
何故かミルだけは、やけに落ち着いている。
そういえば、村の防衛の時、丘を埋め尽くさんばかりの黒狼を前に、こいつだけは平然としていた。
つい数時間前までは、妙に繊細ぶったことを言っていたくせに、一番図太いんじゃないかな。
種族的なものなのか、単純に頭がおかしいのか……。
「ミルは恐怖や不安を感じる部分が死んでいるとしか思えない……が一理ある気もする。なぁシロ、あれ放っておくとまずいかな?」
「わからない……。でも多分まともにやりあっても、ぴんく以外は話にならないと思う…………あっ」
――――黒豹の姿が忽然と消えた。
シロが話をしていたその一瞬の出来事だ。
黒豹がいたところに見えるのは岩壁と星空のみ。
まったくいつもと変わらないアジトの風景だ。
「……立ち去ったのか?」
「もう……、気配も感じないね」
今のは本当にあったことなのだろうか。
まるで幻でも見ていたかのような気持ちになる。
振り返ったシロの表情は依然として険しい。
ギゼラは大きく息を吐きだし、ザムザは力なく座り込む。
クロはナイフをしまい、また編み物に戻っている。
切り替え早いな……。
「今夜は私が見張りをする。ぴんく、ボナスをよろしくね」
シロがそう宣言すると、こちらに人差し指を差し出す。
ぴんくが小さな手をちょんと合わせる。
こいつら意外と仲良かったんだな……。
「シロ、途中俺も交代するぞ」
「子供は寝なさい」
ザムザは見張りに立候補するが、そっけなく断られ、しょんぼりしている。
少しかわいそうだが、あの黒豹が来たとして、まともに身動きできそうなのはクロかシロくらいだろう。
「ぎゃうぐぎゃう?」
「そうだね。お願い」
クロもシロと一緒に見張りをするようだ。
とはいえ、もしあの黒豹が突然襲ってきたら、どうなるだろうか。
シロは亀裂の前で、迎え撃つくらいの気持ちでいるのかもしれない。
だが、いくらクロとシロでも厳しいだろうな…………。
「見張りはありがたいけども、俺はお前ら2人に死なれることには、とてもじゃないが耐えられない」
「でもボナス……、それでも、全滅するよりはマシだよ」
「いや、そんなことは無いね。それくらいなら無駄に足掻いて3人で死ぬ方がまだマシだわ。シロだって逆ならそう思うだろうよ」
「……ん~もう!」
シロが何とも言えない表情で、地団駄踏んでいる。
意外と仕草がかわいい。
彼女の気持ちもわかるが、別に生き残るだけならば、他に方法が無いでもない。
「単純に岩壁の亀裂の一番細いところで寝れば、さすがに入ってこないんじゃないか? いざとなれば、ぴんくで反撃もしやすいし」
「それはそうだね。見張りをするにしたって、亀裂の中で体を休めながらすればいいんじゃない? 少なくとも直ぐ殺されることは無いんじゃないかな~。それなら私達でも交代で見張りができると思うし」
「それが一番現実的じゃないかね」
ギゼラとミルが賛同する。
シロはまだ少し納得がいっていないような顔をしている。
まぁネコ科の動物って、液体みたいに平気で狭いとこ入ってくるからなぁ…………。
やはり必ずしも安全とは言えない。
とは言え、他にいい方法があるわけでも無し。
「わかったよ……」
「ここ数日ゆっくりできたが、今日はあまりにも色々ありすぎたな」
「それにしたって、あの黒豹は意外過ぎ」
シロは現状に対して、かなり神経質になっているようだ。
普段何事にもおおらかに構えている彼女にしては珍しい。
それほどあの黒豹は脅威なのだろうか。
今晩も不安だが、それを乗り切っても、明日からどうすればいいのだろう。
復興への算段もしたというのに。
果たして3日後、俺達はサヴォイアへと行き着けるのだろうか……。
それから暫く、クロとミル以外の皆は、どこか落ち着かない様子で、口数も少なく過ごす。
エリザベスも普段は入ってこない岩壁の亀裂の内部まで、無理やり体を押し込んできた。
角もひっかかるようで、いかにも窮屈そうに、体の置きどころを探っている。
果たして今日は寝られるだろうか。
明日からのことを考えると、思考がぐるぐるするばかりで、ろくにいいアイデアも浮かばない。
いつの間にか、アジトは自分たちのセイフティーゾーンだと勝手に思い込んでいた。
だが、俺はもっとこの場所について調べ、身を守るための工夫をすべきだったのかもしれない。
ここに来た当初は、もっと何をするにも慎重だったはずだ。
結局今だって、ぴんくを頼りに恐々と、物陰に隠れるように暮らしていたころと、根本的には何も変わっていないのだ。
頼れる仲間が出来て、気が大きくなりすぎていた。
俺はいつもそうだ。
何度失敗しても、時間が少し経つと、あっという間に油断してしまう。
いっそのこと、アジトを捨ててサヴォイアにでも移り住んだ方が良いのだろうか。
疲れているところに衝撃的なことがあったせいか、悪い方向に思考がずれていく……。
「ぐぎゃう~ぎゃう」
「……ああ、そうだな」
クロが上機嫌でやってきたかと思うと、当然のようにブラシを押し付けてくる。
俺がブラシを受け取ると、あぐらをかいているところに、ちょこんと座る。
いつも通り、体を少し揺らしながら、俺がブラッシングするのを鼻歌交じりで待っている。
「クロはいつも通りだなぁ~」
「ぐぎゃあ、ぎゃうぎゃう!」
クロの髪の毛をゆっくりと梳かしながら、こいつと出会った頃のことを思い出す。
昔は今よりももっと小さかったし、力もずっと弱かった。
キダナケモに遭遇するたび、俺達はひたすら逃げ隠れすることしかできなかった。
なんとか体制を整えたら、ぴんくにすべてを託し、後は祈るばかり。
そうして、ぴんくがキダナケモを焼き払うのを見ては、クロはぎゃあぎゃあ騒いで、踊ったりしていたな。
…………そうだな、当時だって少し間違えば、すぐ死ぬような暮らしをしていたな。
「何度か本当に死にかけたよな~。ぴんくが欲張って、飯を喉詰まらせたタイミングで襲われたときとか……」
「ぎゃう~? ぐぎゃうぎゃう!」
それほど前のことでは無いが、懐かしく感じる。
だが、そんなアジトでの命懸けの毎日に、不安ながらも、深い満足感を感じていたのも間違いない。
それこそ人生ではじめて、本当の自由を手に入れたような気がしたのだ。
「あの当時のことを思うと、別にいまさら恐ろしい黒豹が現れたからって、何も大したことじゃない気がしてくるな」
「んぎゃぅ~」
「それは言いすぎか」
「ぎゃうぎゃう!」
「もちろん油断は良くないな~」
今ではクロもすっかり強くなり、頼れる仲間も増えた。
それでも、結局死ぬときは俺も仲間も、簡単に死ぬだろう。
これから先、生きている限りは、どこまで行ってもそのことに変わりはない。
だからこそ、あの時手に入れた自由な気持ちだけは、決して手放してはいけない気がする。
クロの髪の毛を梳かしていると、考えが整理されていき、気持ち軽くなっていく。
「お前と出会えて本当に良かったよ~」
「ぐぎゃう? ぎゃう~ぎゃう~!」
クロがくるんと振り返り、やたらと美しい瞳を輝かせながらも、相変わらず楽しそうに騒ぎ立てる。
まだ不安だし、恐怖も感じはする。
だが、クロのおかげで気持ちには整理がついた。
「だけど…………シロのことは少し心配だなぁ」
「ぎゃうぐぎゃう!」
少し気持ちに余裕が出てきたせいか、シロが心配になってくる。
彼女はあれからずっと神経を尖らせている。
今も一番離れた位置で、油断なく周囲を睨みつけている。
初めて出会った時を思い起こさせるような表情だ。
そんなことを考えていると、少し眠くなってくる。
ぼんやりしてきた頭で、いつもより距離の近い皆の様子を眺める。
一緒に見張りをすると言っていたザムザだが、気が付くと一番最初に眠っていた。
まだしばらくは、シロにお子様扱いされるだろう。
ギゼラとミルは何か真剣な表情で話をしている。
薄っすら聞こえてくること言葉を拾い聞いた感じ、どうも猥談のようだ。
ギゼラも意外と余裕あるな……。
クロとシロは並んで、何か話をしているようだ。
亀裂の一番遠くなので、会話の内容は聞こえない。
ただ、少しだけシロの表情が和らいでいる気がする。
あの2人の間には、また俺とは違った、独特の絆を感じる。
彼女たちは、俺のことを大切に考え、尊重してくれている。
だが信頼と言う面では、彼女達の間にあるものの方がずっと強い気がする。
戦友、あるいは同僚、先輩後輩のような…………まぁ、俺にはよくわからんな。
なんだか色々と疲れる一日だった。
とにかく…………明日の朝を無事迎えたい。
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