第91話 女性客
女性客はコーヒーカップから唇を離す。
フードのせいで口元しか見えないが、唇に柔らかい光沢がある。
もしかすると化粧をしているのかもしれない。
それにしても、これほど洗練された所作をする人間は、メナス以外に見たことが無い。
言動の端々に育ちの良さがにじみでている。
喋り方はたどたどしく、少し幼い印象を受けるが、声質はやわらかく落ち着いているので、いまいち年齢が掴み切れない。
「んっ……とっても美味しい……」
「いや~気に入ってもらえたみたいで良かったよ」
「あ、あの店員の方、えーっと、あの……」
「俺の名前はボナスだよ」
「あっ、ボナス様。こ、これは……砂糖が入っているのですね! とても甘くて美味しいです!」
興奮したようにこちらを見上げてきたので、フードの中が見え、喜びに見開かれた黄金色の瞳と目が合う。
肌は透き通るように美しく、顔立ちも決して悪くは無いものの、クロやシロに比べると、だいぶ地味に思える。
だが眼鏡越しに見えるその瞳からは、一見するととても華やかで柔らかい印象を受けるが、同時に理知的な印象も受ける。
たどたどしい喋り方とはずいぶんギャップのある、不思議な目をしている。
色々とちぐはぐな印象の女性だ。
もう少し深く話をしてみたくなる。
意外と面白い人なのかもしれない。
普段の俺なら、素直にそう思っただろう。
だが今の俺は、心中それどころでは無かった。
彼女は砂糖を知っていたのだ――――。
さらにはそれがチョコレートに含まれていることを、さも当然のことのように言い当ててみせた。
もちろん今までも、チョコレートの甘さや美味しさに驚き、目を輝かせた客は多くいた。
だが、砂糖の存在を指摘されたのは初めてのことだ。
もしかすると、メナスは気が付いていたのかもしれない。
そもそも現地の砂糖という言葉自体、メナスから教えてもらったのだ。
それに、そんな彼女でも、砂糖そのものを口に入れたことはないと言っていた。
経験豊富な商人であるメナスがだ。
それをこの客は、さも当たり前のように知っている。
サヴォイアではかなり珍しいと思われる砂糖というものであっても、彼女にとっては必ずしも手にはいらないものではないのだろう……。
それはつまり、彼女はこの商品の本当の価値を正しく理解しうる人間だということだ。
かつて俺がいた世界の砂糖やチョコレートの歴史を振り返るまでもなく、彼女のこれからの振る舞いによっては、俺達は簡単に破滅するかもしれない。
もちろん、ただの可能性の話ではあるが……恐ろしく感じる。
さらにもうひとつ気になることがある。
彼女が明らかに眼鏡らしきものをかけているということだ。
しかも綺麗に研磨された、透明なレンズが入っている。
楕円形に一山のシンプルなシルバーフレームだが、よく見ると細かく意匠を凝らしており、彼女の白い肌と相まって、繊細な美しさを感じる眼鏡だ。
これを作るのは相当に難しいだろう。
前提となる技術も多い。
しかもこれは、つい最近開発されたようなものではないはずだ。
俺がよく知る眼鏡そのものと言って差し支えない形をしているのだ。
この形状は、多くの人に、長い年月使用されることで到達するたぐいのものだ。
だが――、俺はサヴォイアでは窓ガラスさえ見たことが無かった。
透明なガラスがあるとさえ思っていなかったのだ。
俺はこの世界の辺境で暮らすということの意味を、あまりよく理解できていなかったようだ。
確かに移動手段が限られた世界だ。
国ひとつ、大陸ひとつ跨げば、いろいろな部分で数十年、場合によっては数百年単位の格差があってもおかしくは無い。
ましてやサヴォイアは辺境だ。
それはつまり、俺はまだこの世界のことを、ほとんど何も知らないということだ。
そう考えると、やはりそれも少し恐ろしく感じる……。
「ど、どうかされましたか?」
「あ、いや、もしよければこれも味見してみる? 今度常連さん向けに売り出そうと思っている商品なんだけど――――」
「ええぜひ! あら? オレンジの香りがするのね。あっ、た、食べても?」
「もちろん。さぁどうぞ」
恐ろしいのだが……、まぁ今さらだな。
いずれの可能性もある程度は覚悟していたことだ。
特に砂糖については、時間の問題だろうとは思っていた。
いつまでも秘密を自分の中に抱え込み、必死で金や力を手を入れるような生き方には息苦しさしか感じない。
そもそもこの場所は、馬鹿みたいに命の軽い世界なのだ。
どんなに頑張って手に入れようとも、金や力のような分かりやすいものは、あっという間にひっくり返される。
「んんんっ! っむふ~!」
女性客はやたらと幸せそうに口元を緩め、妙に体をくねらせながら変な声をあげる。
俺が真剣に悩んでいるのがまるで馬鹿みたいだな……。
ハジムラドのアドバイス通り、今回のオレンジチョコレートには皮の部分も入れている。
ずいぶんとオレンジの爽やかな香りが強くなり、かなりフルーティーな味わいになった。
「ああっ……このチョコレートの苦みと、オレンジの酸味や香りが複雑に混ざり合って、何て素敵な感覚なのかしら。この感じ……うまく表現しきれないわ」
「わかる! うまいんだけど、それだけじゃないんだよな! なんだか複雑で~、直接脳みそくすぐられてるような感じがする味だよな?」
「オスカーの表現じゃ、余計わからんわ」
「うふふっ。お、面白い表現ですね!」
「いや~喜んでもらえて良かったよ」
とりあえずこの女性客も、今のところは純粋にチョコレートとコーヒーを楽しんでくれているようだ。
彼女が一体何者かは分からないが、なるべく敵対せず、いい顧客であってほしいものだ。
「それじゃあお客さん。少々値は張るけども、この箱詰めチョコレート予約しておいてもいいかな?」
「もちろんです! 買える限り全部買い取りたいくらいです!」
「それじゃお客さん用意しておくから…………名前を聞いても?」
「あ、え、えーっとラウ……、ウララと言います」
「ウララさん。実はこれ、あまり数を作れないので、一応ひとり一箱なんだけど……」
「そ、そうだったんですね。無理を言ってしまい……ごめんなさい」
そう言って、少し肩を落としていたが、エリザベスのヤギ乳入りコーヒーを飲むと、再び口元が綻ぶ。
一応名前を聞き出してみたものの、あからさまに偽名だろう。
わざわざ偽名が必要な立場とは何なのだろうか……。
とはいえ善良な人間であるのは間違いなさそうだ。
少し鎌をかけてみても、自分の希望を無理に通そうとする気配はなかった。
これならば普通に付き合えそうだ。
「ウララさん。そのローブとても綺麗だね~」
「え? ああ、これですか? そ、そうですね、色や肌触りはとても気に入っていますね。でも、あの、えーっと、お、鬼の方達のお召し物もとても素敵ですね!」
「えへへ~、最近ボナスに作ってもらったんだ~。あ、私はギゼラ。よろしくね」
「わたしはシロ」
「ギ、ギゼラ様とシロ様ですね。よろしくお願いします」
ちなみにギゼラの日常着もトマス達に頼んで、さっそく作ってもらった。
とはいえ完成しているのは普段着だけなので、それほど派手なものでもない。
グレーのノースリーブのシャツにショートパンツ、ローブという簡単な構成だ。
シロとほぼ同じデザインだが、ローブには瞳の色に合わせてそれぞれ青と緑の布で縁取りが加えられている。
もちろんウララの着ている服に比べると、品質は数段劣るだろう。
だが、彼女たちの完成された肉体にぴったりと合わせて作られた服は、いかにも着心地が良さそうで、健康的な魅力を十分に引き出していた。
面白かったのが、シロとギゼラは同じような服を着ていながらも、それぞれに意外なほど個性がでていることだ。
ギゼラはローブを袖を通さず肩にかけ、ノースリーブのシャツもへそが見えるほど丈が短く首の開きも大きい。
本人的には、鍛冶仕事がしやすいようにとのことだが、その胸元は客たちの視線を集めすぎている気がする。
ギゼラもそのことには気が付きつつも、大して気にした風もなく楽しそうに着こなしている。
シロはギゼラと比べきっちりとローブにも袖を通しているが、その高身長故、たっぷりとしたローブはかなりの迫力を感じさせる。
さらに機動性を高めるために設けられた深めのスリットから覗く、健康的な褐色の脚にはドキッとさせられる。
「どうしたの?」
「あまりにも俺と腰の位置が違いすぎて絶望していた」
「わたしは鬼だからね……」
「シロさんも、ギゼラさんもとても美しいですね。わ、わたくし、鬼の方ははじめて見たのですけど、こんなに素敵な方たちだなんて思ってもいませんでした。聞いていたお話と、全然違うのですもの……」
「あははっ、それは聞いていた話の方が正しいかもね~。自分で言うのもおかしいけど、私もシロも鬼としてはかなり変わり者だと思うよ」
「まぁ! それなら余計、お二人にお会いできてよかったわ!」
最初はかなりどぎまぎしていたウララだったが、ずいぶんリラックスしたしゃべり方になっている。
これなら放っておいても大丈夫だろう。
ギゼラは能天気に見えて、人間関係においてはかなりしっかりとした観察力がある。
こういう時は安心して場を任せられるので助かる。
まわりの常連客達ともトラブルを起こさず、うまく会話を導いてくれるだろう。
「ボナスさん、こんにちは」
「クロは相変わらず可愛いねぇ~」
「ぎゃう~!」
「こんにちはメナス、エッダ。じゃあウララさん失礼するね。チョコレートは明後日持ってくる予定だから、また来てね」
「あ、はっ、はい。ありがとうございます!」
「あっ、あの箱入りチョコレートまた売り出すの!?」
「ああ、そうだよ。メナスとエッダの分も確保しておくよ」
「いやっほーう!」
「ボナスさん。いつもありがとうございます」
実はメナス達もあれから毎日露店へと顔を出してくれている。
常連客達とも顔見知りがいるようで、コーヒーを飲みつつリラックスした様子で、話しに花を咲かせている。
何気に爺さんたちから絶大な人気誇っており、いろいろとアプローチをかけられているようだ。
娘のエッダは大体ここに来ると、まずクロへと話しかける。
そして、やたらといろいろなことを教えようとする。
最近は色々な髪の編み方を試しているようで、クロの髪型のバリエーションも劇的に増えた。
後は大体メラニーと話していることが多く、最近はそれに仕立屋の次女、メアリが加わることもある。
エッダも意外とファッションに関心が強いようで、よく三人でその手の話題で盛り上がっている。
今日は比較的客も多く、忙しそうなのを見て取ったのか、メナスとエッダは挨拶もそこそこに、早めに席へと移動していった。
あっという間に満席になったな……。
早速エッダがウララに話しかけているようだ。
ウララは唐突に話しかけられて、再び挙動不審な動きをしているが、ギゼラがうまく話を繋いでいるようだ。
オスカーとメナス、後は高齢の常連客たちが生地屋の爺さんを囲んでいる。
時々笑い声が起きているのを見るに、なにか若い頃の失敗談でもしているのかもしれない。
「なぁクロ~」
「ぎゃぁう?」
「俺とクロの二人で始めた商売が、まさかこんな感じになるとはなぁ」
「ぐぎゃう~」
「まぁ、クロと二人でぼんやりお客さん待っているのも嫌いじゃなかったが、こういうのも悪くはないよな」
「ぎゃうぎゃぅ~!」
はじめて露店を出したときと変わらない陽気さで、クロは俺へと笑いかけてくる。
俺は――、これからもクロ達とアジトに住み、死んでいくつもりである。
そしてアジトに住み続ける限り、必然的にサヴォイアとの縁も終生のものとなる。
だからこそ俺はボナス商会とともに、もっとこのサヴォイアと混ざり合い、深く根を張りたい。
それが、俺が店を出す一番の目的と言えるだろう。
俺はいま目の前にある、こういった風景を大切にしたいのだ。
「ただ、ミルの様子が少し心配だなぁ……一度無理やりにでもアジトに連れ帰って、休暇を取らせようか」
「わたしもそれが良いと思うよ」
いつの間にか戻ってきていたギゼラがそう言う。
毎朝ミルとは会っているが、そのたびに表情がどんどん暗く、辛そうになっていくのだ。
本人は至って平気だと、本気で言っているところがさらに悪い。
「なぁ……、今日はミルの奴、帰りに拉致ってやろうぜ?」
「あっはっはっは、それはいいね~! おっきな袋用意しよっと!」
「ぐぎゃう~?」
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