2 今夜は、誰と……? その3


「で、季白。お前、何を企んでいる?」


 季白と二人の客室に入るなり、張宇は季白に問いただした。

「昨日まで、英翔様と明珠が近づくのを、あれほど嫌っていただろう? どんな手のひら返しだ?」


 胡乱うろんな気持ちを隠さず睨むと、張宇が信頼する冷静沈着な同僚は、軽く肩をすくめて視線を受け流した。


「企み、ですか。わたしは、英翔様がナニをしてくださらないかと、画策しているだけですが」


「な……っ!?」

 ふだん浮いた噂一つない季白が放ったあけすけな一言に、絶句する。


「何を考えてるんだっ!? 英翔様が明珠と……ええっ!?」


「何を考えているとは……。もちろん、禁呪を解くことですよ」

 「当然でしょう?」と言いたげに季白が冷徹な声を出す。


「張宇、あなたもその目で見たでしょう? 明珠の血を浴びた英翔様が、《傀儡蟲くぐつちゅう》に仕込まれていた禁呪を破り、元のお姿に戻ったのを」

「確かに見たが……」


 英翔の身体から立ち昇った、白銀の《龍》の気。

 禁呪をかけられる前と同じ、神々しいほどの姿に、思わず涙腺が緩みそうになったほどだ。だが。


「禁呪を解くために明珠をあんな目に遭わせるなんて、二度と御免だ!!」


 明珠が斬られて心臓が壊れそうになったのは、英翔だけではない。もし、あの時、英翔が先に我を失って怒り狂っていなかったら、張宇が清陣せいじんを叩っ斬っていた。


「わたしとて、危ない橋を渡るのは御免です。英翔様にかけられた禁呪が解けるまで、明珠には無事でいてもらわねばなりませんからね」


 さすがに、《龍》の力をいえど、死者を蘇らせることはできない。張宇とは異なる理由で明珠の安全を願っているらしい季白は、「だからですよ」とげんを継いだ。


「英翔様の禁呪が解けたのは、血によって、大量の気を明珠から受け取ったためでしょう。明珠に大怪我を負わせられないのなら――遼淵りょうえん殿がおっしゃっていたではないですか。もう一つの方法を」


「だが……。遼淵殿が言っていただろう。一気に大量の《気》を受け取るのは、英翔様のお身体に負担がかかるかもしれないと」


「ええ、承知しています。ですが、明珠の血を浴びた英翔様に、今のところ、何か異常が出ている様子はありません。まあ、あと数日は、様子を見る必要はあるでしょうが……」


「しかしな……」

 張宇は、英翔が季白に茶をぶっかけた時の剣幕を思い出す。


「……そんなことを企んでいると英翔様にばれてみろ。叩っ斬られるぞ」


「それで禁呪が解けるなら、本望です」

 一片の迷いも見せずに季白が言いきる。


「お前なあ……」

 思わず頭痛を覚えて、額を押さえる。


「以前、英翔様には、龍華国りゅうかこくで女人としてもっとも優れた令嬢をめあわせたいと言っていたのはお前だろう? いつ宗旨替えしたんだ? あ、いや。決して明珠が魅力的ではないと言っているわけじゃないが……」


 天地がひっくり返っても、季白が明珠を英翔の伴侶として認める事態はあるまいと思っていたのだが、禁呪を解くためには仕方がないと、諦めの境地に達したのだろうか。


「は? 何を言っているんです?」

 季白が冷ややかに張宇をにらむ。


「わたしは今でも、英翔様の正妃となられる方は、家柄もよく、政治的な後援を期待でき、何よりご本人はお美しく気品があり、人格は高潔、未来の皇后として龍翔りゅうしょう様に並び立つにふさわしい方を、と思い定めています。誰があんな、元気と根性だけが取り柄の小娘を……っ!!」


「……それ、明珠本人には、絶対言うなよ?」

 頭痛だけではなく、胃痛までしてきた。


 龍翔りゅうしょう。それが、英翔の真実の名だ。英翔は、身をくらますための偽名に過ぎない。

 ここ、龍華国の第二皇子。本来なら、平民の明珠が仕えることはおろか、顔さえ合わせられる機会のない相手だ。


 張宇の呟きが聞こえなかったのか、季白は鬼のような形相で拳を握りしめる。


「本来ならば、あんな小娘が英翔様のおそばで親しく仕えるなど、許しがたい所業です! ですが、英翔様の禁呪を解くことは、目下最大の急務! 涙を飲んで、英翔様が小娘に一度きりの寵愛をお与えになることを許しましょう!」


「季白……。悲壮な決意を固めているところ悪いが、英翔様は明珠を簡単に切り捨てるような御方ではないだろう?」


 そもそも、そんな主人なら、これほど誠心誠意仕えていない。

 張宇の指摘に、季白は眉間のしわを深くする。


「一度で禁呪が解けるとは限りませんからね。解呪までの間は、許してやりましょう。ですが、その後は、英翔様の大願の邪魔になる存在など、捨て置けません! どこかの地方にでもやって、小料理屋を開けるくらいの金子なら出してやりますよ。万が一、身ごもった時は無論、子どもはこちらで引き取ります」


「やめろっ! その妙に具体的で生々しい未来予想図!」


 小料理屋で働く明珠がたやすく想像できすぎて、思わず悲鳴が飛び出す。


「というか、そもそも……」

 妙は気疲れに肩で息をしながら、季白の顔をうかがう。


「英翔様は合意もない娘に手を出す方ではないだろう?」


 いくら季白が画策しようと、英翔が明珠に手を出さねば無意味だ。

 張宇の言葉に、季白が深いふかい溜息をつく。


「確かに、世間知らずで危なっかしい小娘だとは思っていましたが、明珠の男女の営みの知識のなさには、愕然がくぜんとしましたよ……」


「……まあ、十二歳で母親を亡くしているんだ。他の家族は男ばかりだし、親しくしている親戚もいないらしいからな……。仕方のない面もあるだろう?」


 それにしても、年頃の娘にしては驚くほど無知だと思うが。あの愛らしい容貌ようぼうで、よく今まで悪い男の毒牙にかからずにいたものだと、心の底から安堵あんどする。気持ちはすっかり、年の離れた兄だ。


「……わたしが教えるしかありませんか……」

 至極、真面目な様子で呟いた季白に、「やめておけ」とつっこむ。


「男のお前が教えたら、明珠に破廉恥はれんちよばわりされるどころじゃないぞ。それに、どんな誤解が広まるか、わからん」

 嫁入り前の娘なのに、変な噂が立っては可哀想だ。


 季白が再び吐息する。

「では、英翔様に実地でお教えいただくしかありませんね」


「……季白。お前、そのうち英翔様に叩っ斬られるか、くびり殺されるかするぞ……」


「英翔様も若い健康な男性なのです。毎夜、同じ部屋で過ごされれば、あんな小娘であっても、もしかしたら、はからずも、ひょっとして、万が一、間違いを起こさないとも限りません。……はなはだ不愉快なことに、英翔様は妙にあの小娘を気に入ってらっしゃいますしね……」


 英翔にも明珠にも失礼極まりないことを季白がのたまう。


「おいっ!? まさか、間違いが起こるのを期待して、英翔様と明珠を同室にしたんじゃないだろうな!?」

 睨みつけると、季白は気にした風もなく肩をすくめた。


「それを期待しているのは否定しません。が、最たる目的は、明珠に慣れさせるためですよ。乾晶けんしょうへ着いた後は、人前に出る際は必ず「龍翔様」として立っていただかなければならないのですから。「英翔様」なる人物は、存在しないのです」

 切れ長の瞳に強い光を宿して、季白が言いきる。


 万が一、皇子である龍翔が禁呪をかけられていると公になれば、皇嗣こうし争いで、致命的に不利になる。


 絶対的な《龍》の力をふるえるからこそ、龍華国の皇帝なのだ。

 その権威を傷つけた皇子は、敗れ去るほかない。


 そして、第一皇子派と第三皇子派は、龍翔が皇嗣争いから脱落した程度では、決して満足しないだろう。後顧の憂いのないよう、命を絶つまで、決して手を緩めまい。

 何があろうと、禁呪のことは隠し通さねばならない。


「旅の間に解呪に慣らしておかねば……。毎度毎度、騒ぎ立てられるわけにはいきません。人目のある官邸で、あの小娘がどんな大失態をさらすか……。想像するだけで、不安のあまり、胃がねじ切れそうです」

 季白が、黙ってさえいれば整った顔立ちをしかめる。


「くちづけなど、単なる唇と唇の接触ではありませんか。それをいちいち騒ぎ立てて……。英翔様の御威光が恐れ多すぎて、恐縮するというのならともかく」


「……俺は、お前がもてるくせに、浮いた噂一つない理由を悟ったよ……」

 一つ深く吐息し、気持ちを切り替える。


「確かに、明珠のことは心配だが、乾晶へ行けば、安理あんりもいるし、お前と俺で、明珠が失敗しないよう、助けてやればいい。別に、見習い官吏として、他の者と同じように使う気はないんだろう?」


「もちろんです。わたしが小娘から目を離すわけがないでしょう。「明順」には英翔様の側付きとして勤めてもらい、必要に応じて、わたしの手伝いをさせる程度です」


「側付き、ねえ……」

 解呪のために、明珠にはできる限り英翔とともに過ごしてもらう必要がある。となれば、明珠には可哀想だが、「明順」でいてもらうしかない。


 これまで英翔は、特定の異性を長くそばに置いたことはない。明珠が女性として英翔のそばに侍れば、それだけで注目の的になるだろう。

 明珠を危険に晒す事態だけは、何としても防がねば。


「……望む望まないに関わらず、英翔様と明珠はそばにいるしかないんだ。英翔様の性格を考えるに、お前が余計なことを画策するよりも、自然な成り行きに任せた方がいいんじゃないか?」


 張宇としては、英翔の逆鱗を逆撫でする行為など、絶対にごめんだ。


 英翔の性格だ。望まぬ明珠を無理矢理に襲うなど……それこそ、季白の言う通り、万に一つの間違いだろう。


(……というか、英翔様は実際のところ、明珠をどう思われているんだろうな……?)


 英翔が明珠を気に入っているというのは、そばで見ているだけでわかるのだが。


 長い年月、英翔に仕えているが、張宇はこれまで、英翔が特定の異性に心奪われたところなど、見た記憶がない。それは、仕えている期間がさらに長い季白とて、同じだろう。

 あれほど、特定の娘に心砕く英翔は、初めて見る。


 それが、明珠が唯一の解呪の手立てだからなのか、それとも――。


 張宇は一つ吐息して、小さくかぶりを振った。

 それは今、張宇が考えても仕方のないことだ。


 すべては英翔の望み次第だ。


 張宇は、英翔の大願を叶えるための片翼。そのための剣にすぎないのだから。

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