7 明日で旅路も終わりです? その4


「え? どうしてですか? 本当は反乱が起こっていないのなら、よいことなんじゃ……?」

 わけわからず問うと、季白にあきれ顔でにらまれた。英翔が苦笑する。


「確かに、反乱が起こっていないのなら、民のためにはそのほうが良い。だが……」

 季白が説明を引き継ぐ。


「英翔様は、陛下から『反乱鎮圧の任』をたまわって派遣されたのです。それが、「軍まで率いてはるばる辺境へ赴いたものの、反乱など起こっていませんでした」となってごらんなさい。王都に戻ってどのような非難や中傷を受けることか。報告が誤っていたなどという言い訳は通用しません。敵は、何か少しでも過失があれば、鬼の首を取ったとばかりに、そこを突いてくるでしょうからね」


「反乱鎮圧に代わるような功績を、何か一つでも立てられればよいのだがな」

 英翔が困った顔で呟く。


 反乱が起こっていなくてよかったと、素直に喜ぶわけにはいかぬらしい。

 単なる庶民の明珠には、政治はなかなか理解できそうにない。明珠は胸中でそっと吐息した。


 ◇ ◇ ◇


 ほんのかすかな衣擦きぬずれの音に、明珠は水面に浮かび上がるようにゆっくりと覚醒した。


 ふだんは、慣れぬ旅の上に、日中はこれでもかと季白に知識を詰め込まれているので、寝台に入るとすぐに眠ってしまい、気がつくと翌朝になっている。夜中に目覚めたことなど、まったくないのだが。


 そっと身を起こし、寝台の下にそろえて置いておいた靴をはいたところで。


「明珠? すまん、起こしてしまったか?」

 衝立ついたての向こうから、少年英翔の高めの声が飛んできた。


 本当に、気配にさとい方だと、感心する。衝立の向こうでは、明珠の姿など、見えぬだろうに。


「英翔様、どうかなさったんですか?」

 今が何刻頃かはわからぬが、夜中であることは確かだ。窓の外は、真っ暗だ。


 衝立の向こうをのぞくと、英翔は出窓になっている窓の床板の部分に腰かけて、外を眺めていた。明珠を振り返ると、申し訳なさそうに軽く頭を下げる。


「すまんな。こんな夜更けに起こして」

「いえ。今までぐっすり寝ていたので、眠くありませんから、大丈夫ですけど……。英翔様こそ、どうなさったんですか? どこか、お加減でもお悪いんですか?」


 明かりは近くの卓の上の燭台しょくだい一つだけなので、部屋の中はかなり暗い。明珠には英翔の顔色までは判断つかなかったが、表情はどこか冴えないように見えた。

 心配になって、英翔に歩み寄る。


「いや。単に寝つけなかっただけだ。明日には乾晶けんしょうの街へ着き――久々に龍翔に戻るのだと思うとな」


「……御不安に思ってらっしゃるんですか?」


 英翔に手を伸ばしながら問うと、届く前に、はしっと指先を掴まれた。

 黒曜石の瞳が、強い光を宿して明珠を見据える。


「本来の己に戻るのだぞ。不安に思うことなど、どこに……」

 言いさした英翔の言葉が、途中で儚く消える。


「いや。旅が終わってしまうのを惜しんでいるのかもしれんな。「英翔」として、お前とこうして他愛ないやりとりをするのが楽しくて……」

 明珠の指先を柔らかく握り直した英翔が、苦笑をこぼす。


「「龍翔」に戻れば、こうはいかん」


「え? そうなん……って、ああ。そうですよね。龍翔様は第二皇子様で……」


 明珠にとっては、英翔でも龍翔でも、誠心誠意仕えるべき主であることは変わらないため、あまり意識していなかったのだが、冷静に考えれば、第二皇子など、明珠の身分では仕えるどころか、お目にかかることすらできない存在だ。


 反射的に返した明珠の言葉に、英翔がぷっ、と吹き出す。


「ははは、やはり、お前と話していると、癒される」

 明珠の手を握ったまま、座っている英翔が、立ったままの明珠を見上げ、口を開く。


「……わたしが龍翔に戻っても、変わらずそばにいてくれるか?」


「もちろんです!」

 考えるより先に、頷く。


「英翔様さえお許しくださるのでしたら、ずっとお仕えさせてください! ……その、借金を返し終わっても……」


 借金のせいで仕えているのだと思われたくない。明珠は、英翔を尊敬しているからこそ、仕え続けたいのだ。

 言い足すと、英翔が苦い笑みをこぼした。


「できれば、借金などでお前を縛りたくはないのだがな……。お前が言う通り、不安になっているのやもしれん」


 ふだんの英翔とは違う気弱な声に、思わず英翔の手を握り返す。


「大丈夫ですよ! 季白さんと張宇さんもいますし、私だってついていますっ! ……そ、その、私なんかじゃ、あんまりお役に立てないでしょうけれど……」


 禁呪を完全には解けないまま、それを隠して龍翔として過ごさねばならないのだ。精神的な重圧はいかほどだろう。


「ご当主様だって、何か新しいことがわかり次第、お知らせしてくれるっておっしゃっていましたし、きっとそのうち、解呪の手立てだって何とか……。だからきっと、大丈夫です!」


 言いつつも、何の根拠も示せないのを、情けなく思う。こんなのは、単なる気休めにしか過ぎない。


「すみません……」

 情けなくなってうつむいた途端、ぐいっと腕を引かれた。

 たたらを踏んでよろめいた身体が、少年英翔の薄い胸板にぶつかる。


「お前がそばにいてくれるというだけで、百人力だ」


 耳のすぐそばで、英翔の声が聞こえる。声変わり前の、少年特有の高い声。

 その声はどこか熱をはらんでいるようで……青年姿ではないのに、自分の頬が熱くなっていくのがわかる。


「え、英翔様……?」

 身を離し、英翔と同じように出窓の床板に腰かけると、ずい、と距離を詰められた。


「解呪を嫌がられているわけではないと知れただけでも、不安の一つが軽減されたぞ」

 明珠のすぐ前まできた愛らしい顔立ちの中で、黒曜石の瞳が、悪戯っぽく輝いている。


 乾晶への旅が始まって以来、毎朝の解呪は続いている。

 明珠を慣れさせるためと季白が言っていたが、おかげで、大騒ぎせずともできるようになってきた。


 ……といっても、明珠はただ、守り袋を握りしめて目を閉じ、身を固くしているだけなのだが。


 襲撃された夜の激しいくちづけは、やはり非常事態ゆえのものだったのだと納得するほど、英翔のくちづけは軽くて、優しい。

 明珠をおびえさせぬよう、細心の注意をはらってくれているのは、男女の機微きびうとい明珠ですら、わかった。


 だが、だからといって、こんな風にからかわれて平静でいられるほど、明珠は精神的に練られていない。


「英翔様!」


 抗議の気持ちを込めて軽くにらむと、英翔の左手が伸びてきた。

 優しい指先が頬を滑り、くすぐったさに思わず首をすくめる。


 おとがいへ辿りついた英翔の指先に、わずかに力がこもり。


「……厚手の男物でも、効果は薄いな」

 謎の言葉を呟いて、英翔が身を離す。名残惜しげに、指先も、また。


「……?」


「あまり長く起きていては、明日がつらいぞ。明日は、いろいろと慌ただしいだろうからな。もう休め」


「で、でも、英翔様は……」

 そもそも、英翔が寝つけなくて起きていたのだ。


「ええとあの、子守歌でも……?」

 言ってから、己の愚かさに気づく。


 いくら、十歳の子どもの姿をしているとはいえ、子守歌はないだろう。弟の順雪だって、幼い頃はともかく、ここ二、三年は歌っていない。

 明珠の提案にあっけにとられた顔をしていた英翔が、柔らかに微笑む。


「それは魅力的な提案だが……。それでは、お前が眠れぬではないか。大丈夫だ。お前と話をして、気持ちも安らいだからな。ちゃんと眠れる」

 英翔がつないでいた手を放す。


「子守歌は、またの楽しみにとっておこう。……いつか、お前の甘さに溺れてもいい時が来た時に」


「?」

 英翔の言葉の後半は、低くてよく聞き取れなかった。

 小首を傾げた明珠の髪を、立ち上がった英翔がくしゃりと撫でる。


「おやすみ、明珠。ゆっくり休め。起こしてすまなかったな」

「いいえ、とんでもありません。おやすみなさいませ」


 英翔のせた身体が寝台へ横たわるのを見届けてから、明珠は衝立の反対側の自分の寝台にもぐり込んだ。


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