8 英翔様が二人です!? その1
明珠達が乗る馬車が、乾晶に入る南門のすぐそばの平地に設営された派遣軍の宿営地についたのは、翌日の昼過ぎだった。
乾晶のような国境付近の大きな街は、たいてい城壁でぐるりと周囲を囲まれている。
「うわあ、宿営地って初めてみました!」
馬車の窓から見える宿営地は、木の柵で囲われた向こうに、整然と建てられた天幕の屋根が見える。
「ああ、宿営地はどんな大きさで柵を建てるか、どんな感覚で天幕を張るかなど、すべてが厳密に決められているからな。よほど特殊な地形でない限り、どこに造ろうと、全て同じ宿営地になる」
少年英翔の説明が終わると同時に、季白の声が飛んでくる。
「明珠。そろそろ窓を閉めて、幕を下ろしておきなさい。これ以後は、英翔様のお姿を不用意にさらすわけにはいきません」
「はいっ」
季白の指示に、窓を閉め、幕を下ろす。幕を通してうっすらと陽光が差し込むものの、馬車の中が薄暗くなる。
「いいですか。これから後、英翔様ではなく、
「ひいぃっ! 重々、気をつけます!」
鋭い目でかけられた圧に、背筋が凍える。
借金倍増なんて、横暴極まる。だが、それだけ失敗は許されないということなのだろう。
隣に座る英翔を、ちらりと見やる。
今の英翔は、少年姿だ。夕べ、寝つけないと言っていたので心配していたが、朝、起き出した英翔はいつも通りで、今も落ち着き払っている。その精神力には、感嘆するばかりだ。
宿営地の門に着いたのだろう。張宇が馬車を止め、門番と何やらやりとりしている声が届く。かと思うと、再び馬車がゆっくりと動き出した。
「あれ? 意外とあっさり入れてもらえるんですね」
なんとなく、もっと厳しく
明珠の言葉に、季白が「ああ」とあっさり頷く。
「蚕家を出る前に、
季白が、口元に酷薄な笑みを刻む。
「まあ、途中で蟲が奪われたら、それはそれで、遼淵殿に跡を追っていただいて、敵の居場所をつかむ予定でしたが」
季白の視線の鋭さに、背筋が寒くなる。季白で本気で狙われて、逃げおおせるとは思えない。
さほど長く進まぬうちに、再び馬車が停まる。
「指揮官殿の天幕に到着いたしました」
馬車の扉を開けた張宇が、うやうやしく頭を下げる。
季白が主人らしく悠然とした足取りで馬車を降り、英翔と明珠はその後に付き従う。
天幕は明珠が思わずあっけにとられるほど、大きくて立派なものだった。普通の家、一軒分は優にある。
天幕の入り口には、両側に兵士が立っており、腰を深く折り曲げて客人を出迎える。
季白と張宇はそれを当然のように兵士達の間を通り、天幕へ入っていく。
天幕の中は厚い幕でいくつかの部屋に区切られているらしかった。
入ってすぐの部屋には、大きな卓といくつもの椅子が置かれている。おそらく、軍の士官達が作戦会議を行ったりするのだろう。
無人の部屋を通り過ぎ、季白が次の部屋への幕を開ける。
そこは、もう少し内向きの応接室という雰囲気だった。
卓と椅子があるのは同じだが、十人以上は優に席につけそうな先ほどの部屋と異なり、こちらの卓は、六人掛けほどの大きさだ。卓も椅子も、彫刻が脚や背もたれに施されていて、先ほどの部屋のものより明らかに質がいい。
季白が幕を開けると同時に、幕のそばに立っていた二人の男が、待ち構えていたように振り向いた。
一人は三十代半ばのいかにも軍人らしい、
「えい……り、龍翔様!?」
思わず叫んで、目の前に立つ絹を纏った青年と、隣の少年を見比べる。
一方、大柄な男と青年龍翔は、英翔達の姿を認めた瞬間、ざっと地面に片膝をつき、
「すまん、
一歩踏み出した英翔が、鎧を纏った男に話しかける。
「橋を直した話は昨日、聞いた。村の者も喜んでおったぞ。よくやってくれた」
「いいえ。とんでもございません。偵察隊を先行させたところ、乾晶は反乱が起こったとは思えぬほど穏やかだとの報告を受けましたので……。危険な橋を直す方が急務かと考え、勝手ながら駐屯いたしました。こちらに宿営地を築きましたのは、ほんの三日前でございます」
鍔将軍と呼ばれた鎧の男が、更に深々と頭を下げて報告する。
「三日か。よく間をもたせてくれた。感謝する」
「もったいないお言葉でございます」
野太い声が、感じ入ったように震える。
英翔は一つ頷くと青年龍翔を見た。
「
「はっ」と頷いた鍔将軍がのそりと立ち上がる。
年の頃は三十歳を少し過ぎた頃だろう。将軍という地位といい、彼が派遣軍の実質的な指揮官だと思われる。
見上げるほど大柄な男で、
対して、身軽に立ち上がった青年龍翔は、
「首を長くしてお待ち申し上げておりました」
と言いつつ、英翔に視線を向けた途端、
「ぷふ――っ!」
と盛大に吹き出した。
「いやーっ、久々にお目にかかりましたけど、ちっちゃい龍翔様って……っ! ぷくくっ、ダメだ。ウケるっ!」
けらけらと明るく笑う安理に、英翔の眉間のしわが深くなる。顔をしかめて注意したのは季白だ。
「安理! 失礼でしょう。慎みなさい! それに、龍翔様は大きかろうと小さかろうと、素晴らしい方であることに変わりはありませんっ!」
「いやだって、季白サン、そうは言っても、この小っちゃくて可愛い感じ、ふだんと違い過ぎて……っ。ダメだ、腹痛い……っ!」
青年龍翔の姿で笑い転げる安理と呼ばれた青年を、明珠はあっけにとられて眺めていた。
見た目は英翔とそっくりだが、中身が違い過ぎる。こんなに大笑いしている英翔など、見たことがない。
「あ、あの、英翔様……。影武者とおっしゃっていましたけど、この方は……?」
「張宇。とりあえず蜂蜜の
「えっ、中身入りはもったいないんで、空の壺でいいですか?」
「ひどっ! 張宇サン、ちょっと会わないうちに、オレの扱いひどくなってないっスか?」
「ああ。この馬鹿笑いしている奴は
「初めまして、お嬢サン」
おどけた様子で片目をつむった安理が、不意に
「ひゃあっ!?」
安理の顔の皮がべろりとめくれ、明珠は思わず両手で顔を覆う。
「大丈夫だ。あれは変装用の、子羊の皮を薄くなめしたもので、本物の顔じゃない。おい、安理。急に取る奴があるか。明順が驚くだろうが」
「ふぇっ?」
英翔の言葉に、明珠はおそるおそる顔を覆っていた手をどけ、安理を見上げる。
目や鼻、唇など、個々の造作は整っているのに、全体として見ると、どうにも薄ぼんやりとした印象を与える。
英翔の
「いやー、すみません。実際に見せた方が手っ取り早いかなーって。ってゆーか」
不意に、安理の目が、す、と細くなる。
顔の印象はぼんやりとしているのに、刺すように鋭い視線に、明珠は身を固くした。
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