8 英翔様が二人です!? その2
「このお嬢チャンは何者なんスか? あ! もしかして龍翔様のコ」
「よし! 折られたいのなら今すぐ折ってやる」
「ちょっ、やめっ! すんません許してくださいっ!」
ぴんと立てた安理の小指を英翔が握りしめたかと思うと、問答無用で手の甲側へ倒そうとする。
「龍翔様! どうなさったんですか!?」
明珠があわてて止めると、顔をしかめたまま、不承不承といった様子で英翔が小指を放す。
「あー、ひでー。龍翔様、本気でしたよね、今!?」
「お前が余計な口を叩くからだ」
冷ややかに吐き捨てた英翔が、ふと表情を変えて小指にふーふーと息を吹きかけている安理を見上げる。
「安理。お前、二度も「お嬢ちゃん」と呼んだな?」
「え? だってほら、オレ隠密ですもん。さすがにわかりますって! 顔は可愛いし首だって
変装が得意な安理からすると、明珠の男装など、
じろじろと観察するような視線に居心地の悪さを感じていると、一歩踏み出した英翔が、明珠を背に庇ってくれる。
「
「あ、明珠チャンってゆーんですか。やー、顔だけじゃなくて名前も可愛いっスね」
なぜだか楽しげに笑いつつ、安理が握手を求めるように明珠に手を伸ばす。
が、途中で英翔の手に叩き落された。
「ぶぷ――っ! やば、コレほんとに龍翔様……っ!? ぶくくくく……っ」
邪険に扱われたというのに、何が楽しいのか、安理は腹を抱えて笑い転げる。
「張宇。こいつをつまみ出せ」
「かしこまりました」
「えっ!? 張宇サン、そこ庇ってくれるとこじゃないんすか!?」
「すまんが、俺は龍翔様の逆鱗を触って喜ぶ趣味はないんでな。安理。叩っ斬られたくなかったら、そろそろ自重しろ」
「ええ――っ! 張宇サンにそこまで言わせるって、明珠チャンって一体……っ!?」
「
冷ややかに割って入ったのは季白だ。
「それとここにいる間は明珠ではなく、「明順」です」
季白の注意など、耳に入っていない様子で、安理が目を見開いて明珠を見つめる。
「へえっ!? このコが解呪の!?」
英翔を押しのけそうな勢いで安理が一歩踏み出した瞬間。
「失礼いたします!」
幕の向こうから、大きな声が飛んできた。
「何だ?」
と
「その、今日も総督の使いの
「宿営地を築いた日から、毎日来ているのです。ぜひとも龍翔様には快適な官邸でお過ごしいただきたいと」
英翔を振り返った鍔が、幕の向こうには聞こえぬよう、小声で手早く説明する。
懐にしまっていた変装用の小道具を取り出した安理を、英翔が片手を上げて押し留める。
「わかった。わたしが出よう。鍔、少しだけ時間を稼いでくれ」
「かしこまりました」
頷いた鍔が余計な言葉を一言も発さず、幕を押し開けて出て行く。が、その
「明珠。こちらへ来てくれ。他の者は来るなよ?」
英翔が明珠の手を引き、更に奥へと続く幕をくぐる。
英翔に導かれるまま入ったそこは、寝室として使われているらしかった。陣営とは思えぬほど大きく
「急にすまんが……」
「は、はい。大丈夫です」
本当は、英翔が「わたしが出る」と告げた時から、心臓が激しく鳴って仕方がないのだが。
明珠は内心の動揺を押し隠して、服の上から胸元の守り袋を握りしめると、目を閉じた。
英翔の小さな手が頬に当てられ、柔らかなものが唇にふれる。
かと思うと、頬を包む手が長い指をもった大きな手に変わった。
「助かった。感謝する」
長い指がくしゃりと髪を撫で、青年姿に戻った英翔が、
まるで舞台へ出て行く俳優のように凛々しい後ろ姿を、明珠は
◇ ◇ ◇
幕を開けて出てきた青年龍翔の姿を見た途端、安理が息を飲んで片膝をつく。
感じ入ったように礼をとる安理の前を無言で通り過ぎ、張宇がさっと開けたもう一枚の幕をくぐる。
「待たせたな」
龍翔の姿を認めた途端、鍔と総督の使いの男――貞が、さっと
「よい。
今、龍翔が着ているのは従者役の時の綿の着物だ。
龍翔の言葉に、貞がそっと顔を上げる。
副総督というので、もっと年配の男を想像していたが、
その年で副総督まで出世するだけあって、上げた顔立ちはいかにも有能な官吏に思えた。細い目の奥には、計算高そうな光が見える。
顔立ちは整っているが、鋭すぎる目のせいで、どうにも冷ややかな印象を与える男だ。
「毎日、使いを寄越すとは、総督はよほど気を遣っていると見える。わたしは別に、宿営地で起居することに、何ら不満はないぞ?」
龍翔が投げた言葉に、貞は感じ入ったように深々と頭を下げる。
「さすがは質実剛健と名高い龍翔殿下でいらっしゃいます。このように不便な宿営地で兵士と苦楽を共になされるなど、並大抵のことではございません。ですが、
ゆっくりと顔を上げた貞が、両膝をついたまま、真っ直ぐに龍翔を見つめる。
「乾晶は、北西地域最大の都市でございますが、国境近い
と、不意に貞が口元を緩める。視線が鋭いせいで、笑顔というよりも、唇だけを笑みの形にしたような笑いだ。
「それに、お若い龍翔殿下に、男ばかりの宿営地はつまらぬのではございませんか? 総督官邸にお越しいただければ、美酒も美女も、思いのままでございます」
「……なるほど」
貞の言葉は、龍翔を
龍翔はさほど心を動かされた風もなく、
「総督殿のご厚意は承知した。三日前にこの地に着いたばかりゆえ、兵達が落ち着くまではと思っていたが、こう毎日、使いをもらっては、頑なに宿営地に引きこもっているのも、礼を失することになろう。総督さえよければ、乾晶にいる間、官邸に滞在させてもらおう」
もともと、ずっと宿営地に引きこもっているつもりはない。
反乱がどのような様相を呈していようと、情報を集めるのなら、やはり街中にいた方が都合がいい。
総督が誘いをかけてくるなら、乗るまでだ。
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