4 くちづけはお仕事ですか? その2


 息が唇にかかるほど、近い。視線に顔があぶられるようだ。

 思わず目を閉じ、身を固くして叫ぶ。


「で、でしたら手を放してください! 守り袋が握れません!」


 緩んだ英翔の手から両手を引き抜き、胸元に隠した守り袋を、衣の上から握りしめる。


 心臓が壊れそうなほど、激しく脈打っている。

 滅多に怒らない英翔を怒らせるような失態を、いつしてしまったのだろう?

 不安に身体が震え、固く閉じたまぶたに涙がにじむ。


「っ」

 英翔が鋭く息を飲む音が聞こえた。

 唇に、かすめるように柔らかなものがふれ。


「……お前は、甘いのに苦いのだな」


 青年の低い声で、謎の言葉を呟いた英翔が、大きな手で明珠の両肩をつかみ、ぐいと引き離す。

 驚いた明珠が目を開けた時には、青年姿の英翔が乱暴に扉を押し開け、外に出ようとしていた。


「あのっ、英――」

「わたしは今日は御者台で過ごす」


 一方的に告げた英翔が、振り返りもせず扉を閉める。

 視界が断たれてもなお、明珠はあっという間に消え去った背を、呆然と見送っていた。


 ◇ ◇ ◇


「どちらへ!?」


 荒々しく扉を開け放ち、出てきた英翔に、季白が驚いた声を上げる。伸ばされた手を、英翔は乱暴に振り払った。


「今日は御者台で過ごす」

「おやめください! 御身を無防備に人目にさらすなど……っ」

 表情を固くして反対する季白を、不機嫌を隠さず睨みつける。


がこの姿でいて、敵におくれを取ると?」


「いえっ、そのようなことは決して……っ」

「なら、かまわんだろう」

 季白の返事を待たずに、御者台で手綱を握っている張宇の隣に腰かける。


「英翔様……」

 季白とのやりとりが聞こえていたのだろう。張宇は苦笑を浮かべただけで、何も言わない。


「明珠が何か粗相そそうでもしでかしましたか!?」

 そうであればただでは置かぬと言いたげな季白に、「やめろ」とかぶりを振る。


「明珠はちゃんと務めを果たした。お前が叱責する必要はない。それに、わたしが隣にいないほうが、講義もはかどるだろう?」


「まあ、それはそうですが。では、そういうことにしておきましょう」

 季白が仕方ないとばかりに吐息する。


「ですが、くれぐれもご注意くださいね!」

 渋面で念を押し、季白が馬車に乗り込む。


「では、出発いたしましょう」

 いつもと変わらぬ穏やかな口調で張宇が告げ、手綱を操る。


 がらがらと馬車が走り出す。旅路を急ぐ者は少ないのか、夜明けの宿場町は、人の気配もまばらだった。英翔達を乗せた馬車は、我が物顔で人通りの少ない道を進んでいく。


 宿場町を出ると、辺りは畑が広がるのどかな風景だった。

 さわやかな朝の風が英翔の頬をなでて過ぎていく。太陽が完全に昇れば、今日も暖かな一日になるだろう。


 巧みに馬車を操る張宇は、先ほどからずっと無言だ。だが、居心地は悪くない。

 事情を聞きだそうとしてこない控えめさが、英翔には好ましい。


 思えば、張宇は昔からそうだ。忠誠があついあまり、あれこれ口出ししてくる季白とは対照的に、張宇は戦えば誰より勇敢なくせに、ふだんは一歩引いて穏やかに英翔を見守ってくれている。


 だから……英翔が不安や愚痴をこぼすのは、いつも張宇の前だ。


「……明珠に、嫌われている気がする」

「へ?」


 のどかな景色をどれほど見るともなしに眺めていただろうか。

 吐息交じりにぼそりと呟くと、張宇が素っ頓狂な声を上げた。


「……いや、嫌われているのではなく、怯えられているのか、あれは……。嫌われているよりましだと、思うべきなのか……?」


「ええと、あの……?」

 思い悩む英翔に、張宇が遠慮がちに声をかける。


「ええっと、今のお話はその、英翔様と明珠のことでいいんですよ、ね?」


 動揺のあまりだろうか。外だというのに、張宇の口調がいつも通りになっている。

 が、街道は空いていて、今のところ英翔達のそばに同じ速度で走っている馬車はない。追い抜かした徒歩の旅人達も、この速さと車輪の音では、会話の内容など聞き取れぬだろう。


 張宇の問いに、英翔は呆れて隣の張宇を見やる。今は青年姿に戻っているので、張宇と頭の高さがほとんど変わらない。


「当り前だ。わたしがお前と季白に嫌われる心配などする必要が、どこにある?」


「いやそうですけど。その……。あまりにも意外すぎて、ちょっと理解が追いつきませんでした」

 呟いた張宇が、何かを思い出したかのように、顔を強張らせる。


「っ! もしかして、昨夜……っ」

 呟いたきり、なぜか頬を染めた張宇を、横目で睨む。


「何だ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」

「その……」

 視線をさまよわせていた張宇が、ややあって、こわごわと口を開く。


「もしかして、その、明珠に手を出されたり、とか……?」


 どすっ!!


「痛っ! ちょっ、やめてください! 俺、手綱を握ってるんですよ!?」


 脇腹に肘鉄ひじてつがめり込んだ拍子に、手綱から変な振動が伝わったのだろう。二匹の馬が不安そうにいななき、足を乱れさせる。


「なら、手綱をよこせ。そうすれば、遠慮なく馬車から蹴り落とせる」

「本気の目で脅さないでください! 絶対、渡しません!」


 張宇が、これが命綱だとばかりに、しっかと手綱を握り締めて踏ん張る。その足を英翔は遠慮なく蹴りつけた。


「わたしが嫌がる娘に無理強いする男だと思っているのか!? 本気で蹴り落とすぞ!」


 告げた途端、苦い自己嫌悪が英翔の胸をく。

「そう、だな……。わたしは最低の男かもしれん……」


「えっ、英翔様!? 急にどうなさったんですか!? いったい、明珠と何があったんです?」


 張宇の問いに、ちらりと背後を振り返る。先ほど、御者台に乗った時にも確認したが、車内と通じる小窓は、ちゃんと閉まっている。中の季白達の声は聞こえない。こちらの声も聞えていないだろう。


 車内での明珠とのやりとりを思い出す。

 絞り出した声は、我ながら、情けない響きを帯びていた。


「……くちづけの時、明珠が震えて嫌がっていたんだ……。石のように身を強張らせて。今までも、いつも身体を固くしていたが、涙を浮かべて震えられたのは、初めてだ……」


 告げた瞬間、「くちづけは仕事だ」と言われた時の胸の痛みを思い出す。


 あの時の怒りをどう表現したらいいのか、英翔自身、己の心がわからない。

 ただ、聞いた瞬間、胸に湧きあがったのは、激しい怒りと痛みだった。


 明珠の身柄を借金で縛ったのは英翔と季白だ。責められこそすれ、明珠が解呪は仕事だと告げたところで、英翔が傷つく必要はない。


 ――そんな資格など、ない。


 明珠が嫌がろうとわめこうと、英翔は明珠を手放す気など、欠片もないのだから。


 なら――この胸に巣くう感情は何だというのか。


 思考にふけっていた英翔は、張宇の声に我に返る。


「その……。明珠はあの年頃にしては、驚くほど男女の営みについて無知ですが、何の理由もなく、態度を変える娘ではありませんでしょう? 何か原因となることがあったのでは? その、季白に何か吹き込ま――」


「あ」

 張宇の言葉に、思わず顔を片手で覆って呻く。

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