4 くちづけはお仕事ですか? その1
明珠が気づいた時には、翌朝になっていた。
湯浴みの後、夜着に着替えて、英翔が戻ってきた時のために
靴を脱いだ覚えはないが、起きた時には、ちゃんとふこふこの布団にくるまっていた。あわてて身を起こして床を見ると、靴はちゃんとそろえて寝台の脇に置かれており、たらいも消えていた。
どうやら、昨夜、季白か張宇かに面倒をかけてしまったらしい。
後で謝って、お礼を言っておこうと思ったところで、
「起きたか?」
「あ、はい! おはようございます」
靴を履き、衝立の向こうへ行こうとすると、衝立越しに明珠の動きが見えているかのように、英翔の声が飛んでくる。
「来なくていい。着替えがまだだろう? わたしは隣へ行っている。支度が出来たら、隣へ来てくれ」
「はい」
英翔の軽い足音がし、内扉が開閉する。扉が閉まった音を聞いて、明珠はあわてて着替え始めた。着るのはもちろん、季白に渡されている男物の服だ。
それほどある胸ではないが、肌着の下にさらしを巻く。背中の中ほどまである髪は、うなじのところで一つに束ねた。
手早く身支度を整え、内扉を叩く。
「入りなさい」
という季白の声に部屋へ入ると、季白達三人は、すでに身支度を整えていた。窓の向こうの空はまだ薄暗い。夜明け頃だろう。
「早起きなのは感心ですね。朝食を食べたら、すぐ出発しますよ」
あいさつもそこそこに、季白が告げる。部屋の中央に置かれた卓には、すでに四人分の朝食が並べられていた。
「そうだ、明珠。これを荷物に加えておいてくれ」
張宇が
「その……。男物の夜着だ。夜着で人前に出る事態なんて起こらないと思うが、念のため、な」
「えっ? 夜着まで用意してくださったんですか!?」
驚いて腕の中の布の塊を見る。手触りからして、明らかにいい生地だ。
「しかも、こんなしっかりした生地で、いい仕立ての! あの……。その、お代は……?」
「そんなものは不要だ。お仕着せとでも思えばいい。お前はわたしの従者だ。あまりに貧相なものは着せられん」
ぶっきらぼうな口調で、即座に返答したのは英翔だ。
その言葉に、夜着は英翔が張宇に命じて用意させたのだろうと察する。季白が用意したものなら、きっと季白は事務的に渡すだろうし、張宇は明珠の夜着が貧相だと知らないはずだ。
思えば、蚕家にいた時にも、英翔は着物を汚して沈んでいた明珠のために、お仕着せを用意してくれた。英翔の気遣いが嬉しくて、深々と頭を下げる。
「英翔様、わざわざ夜着まで用意してくださって、ありがとうございます!」
「……男物の夜着を贈られて、そんなに嬉しそうにする奴があるか」
英翔の言葉はそっけない。明珠はぶんぶんとかぶりを振った。
「男物かどうかなんて、関係ないですよ! しっかりしたいい生地だなんて、それだけで嬉しいです。第一、夜着なんて人に見せるものでもないですし、男物か女物かなんて、ささいな差です」
「……わたしと同室だろうが」
不機嫌そうに呟いた囁きは、小さすぎてよく聞こえなかった。
「? 何でしょう?」
「何でもない。それより、早く荷物にしまってこい。朝食を食べよう」
「はい!」
英翔に促され、明珠はあわてて部屋に戻った。
◇ ◇ ◇
夜明け過ぎの早朝に発とうという旅人は、この宿では明珠達だけらしい。きっと普通の金持ち達は、急ぐ旅などせず、ゆっくりと出発するのだろう。
「? 季白さん、どうしたんですか?」
朝食の後、宿泊客の馬車が並ぶ
季白は乗るどころか、馬車の扉に手をかけ、閉めようとしている。
「どうしたんです?」
思わず扉を掴んで止めると、季白の切れ長の目と視線が合った。そこに浮かぶ冷徹な光に、嫌な予感を覚える。
「あなたが嫌がると思って閉めようとしたのですが。もちろん、わたしも乗りますよ。――英翔様が、元のお姿に戻った後で」
「ええっ!? それってどういう……!?」
英翔が元の姿に戻るということは、それはつまり。
一瞬で頬が熱くなる。
が、季白はそんな明珠に
「言葉通りの意味ですよ」
「で、でも今、元のお姿に戻る必要なんてないですよねっ!?」
「ええ。ですが、何刻の間、元のお姿に戻れるか、確認する必要はあります」
きっぱりと言い切られ、言葉に詰まる。
「
「は、い……。わかります」
季白の眼差しの強さに押されたように頷く。
「それに」
と、季白が疲れたように吐息した。
「これは、あなたの練習でもあります。いい加減、慣れてもらわねば。たかがくちづけで、毎回、今のように騒がれては、どこからばれるか、気が気ではありません」
「たかが、って……っ!」
恥ずかしさのあまり、思わず声が高くなる。
季白にとっては「たかが」かもしれないが、明珠にとっては「たかが」で済ませられることではない。
今でさえ、心臓が早鐘のように鳴っているのに、とてもではないが、そんな風に達観できない。
明珠の抵抗に、季白の切れ長の目が、す、と
眼差しが冷気を帯びた気がして、明珠は反射的に身を強張らせた。
「一度、あなたの立場を説いておく必要がありますね」
季白の声は、刃のように鋭い。
「何のためにあなたを雇っていると思っているのです? 解呪のために他なりません。それを満足にできないなどと言ってごらんなさい。許しませんよ」
「それはっ! わかっていますけど……っ」
言葉の刃が突き刺さったように、胸がずきずき痛み出す。
明珠は季白のように博識で、何でも器用にこなせる能力などないし、張宇のように剣の腕に長けているわけでもない。わずかに
どこにでもいる、ただの田舎娘だ。
ただ一点、解呪の特性を持ち、英翔にかけられた禁呪を一時的に解呪できるということを除いて。
自分の価値がそこにしかないことなど、明珠自身が、誰よりよく知っている。
取るに足りない自分自身が情けなくて目が潤みそうになり、唇を強く噛みしめる。
季白の言うことはもっともだ。
明珠は英翔の解呪のために雇われたのだから――解呪のためのくちづけなど、簡単にできなければ。
だが、理性ではわかっているものの、感情がついてこない。
季白が言う通り、練習すればそのうち、動揺することなく「たかが」と思える境地に至れるのだろうか。
いつの間にか、両の拳を固く握りしめていたらしい。
不意に、柔らかいものが、そっと手の甲にふれ、驚く。
ふれたのは、少年英翔の手だ。明珠の心をなだめるように、大きさのさほど変わらない少年の手が、明珠の手をなでる。
「明珠。わたしはお前に無理強いなどしたくない。お前が嫌なら、今朝はやめておこう」
優しく、いたわるように言われて、反射的にかぶりを振る。
「だめですよ!! だって……っ」
うまく言葉が出てこない。
だが、ここで英翔の優しさに甘えるわけにはいかない。優しさに甘えて、仕事もしない
「だって……。私は解呪のために雇われたんでしょう!? お仕事は、ちゃんと果たします!」
「っ!」
告げた瞬間、英翔の手が握り込まれる。明珠が思わず声を上げそうになるほど、強い力。
「――『仕事』と言うなら、務めを果たしてもらおうか」
英翔の声が、低くなる。
「では、さっさと済ませてくださいね。早く出立したいですから」
一方的に告げた季白が、ぱたんと馬車の扉を閉める。
「あっ、ちょっ……」
あわてて声を上げた時には、英翔が距離を詰めていた。
「あ、あの……」
押し返したいが、両手がふさがっていてかなわない。
大きめとはいえ、しょせん馬車の中だ。腰が引け、じりじりと下がった背中は、すぐに壁に阻まれる。
英翔の黒曜石の瞳は、明珠を見据えたまま、動かない。そこに硬質な感情を感じ取り、おずおずと口を開く。
「その……。怒ってらっしゃるんですか?」
「怒っている? わたしが?」
意外そうに英翔が問い返す。
小首を傾げる仕草はあどけないのに、口元に浮かんだ笑みは、愛らしい顔立ちには不釣り合いに、苦い。
「だとしたら、お前のせいだ」
「えっ!? 私、何か
「そんなことより」
明珠の問いを無視して、片膝を座席の上に載せた英翔が、明珠の両手を掴んだまま、さらに距離を詰める。
「『仕事』を果たしてくれるんだろう?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます