3 同室の女性に、贈るもの? その2


 張宇と隣室へ移動した英翔は、背後の扉越しにかんぬきをかけるかすかな音を耳にして、ほっと息を吐いた。


 いっそのこと、このまま一晩締め出してほしいと願う。


 そうすれば、如何いかに望もうとも、明珠のそばに近づけはしない。


 なぜ、あれほど無防備なのかと、苦い気持ちで思う。

 少年の英翔でも押さえこめてしまうほど非力なくせに、警戒心がなさすぎる。


 両手で掴んだ華奢きゃしゃな手首の感触を思い出す。

 あれでは、大の男には逆立ちしてもかなうまい。――たとえば、元の姿に戻った英翔には。


 もちろん、英翔自身は、明珠の意に染まぬことをする気など、芥子粒けしつぶほどもない。


 だが――。不意に身をさいなむ衝動を、いったいどうすればいいのか。ふとした拍子に、衝動が理性を乗り越えてしまいそうで、自分自身が不安になる。


「……張宇。一つ、買い物を頼まれてくれないか?」

 不安に突き動かされ口を開く。


「もちろんです。何か不足がありましたか? 何を買ってまいりましょう?」

 気軽に頷いた張宇に、ためらいがちに頼む。


夜着やぎを何枚か買ってきてくれ。その……明珠の」


 告げた途端、部屋の空気がぴしりと凍りついた。張宇が目を見開き、季白が鋭く息を飲む。


「え、ええと、その……」

 しどろもどろに口を開いた張宇の顔は、うっすらと赤い。動揺のあまり、視線があちらこちらに揺れていた。


「英翔様が自ら明珠に夜着をお贈りになられるということは、その、そういう……」

 もごもごと歯切れ悪く消えた張宇の言葉に、失言を悟る。


「違うっ! 妙な誤解をするな! 買うのは、男物の夜着だ!!」

「はい?」

 理解が追いつかないのか、ぽかんとする張宇に説明する。


「明順として仕えるというのに、夜着が女物では、どこから正体が洩れるかわからんだろうが。いや、他人に夜着を見せる気などないが……。念のためだ。明珠ときたら、ろくな夜着を持っておらんからな。あんな薄手の……」


「え、英翔様!? 明珠の夜着なんて、いったいいつ……!?」

「明珠の夜着なら、わたしだって見ていますよ」

 うろたえた声を上げる張宇に、さらりと季白が告げる。


「まあ確かに、あの夜着では、一目で女だとばれますね。貧相で薄手なせいで、身体の――」


「黙れ季白。しいたけを山ほど口に突っ込むぞ」

 思わず、きつい眼差しで季白を睨みつける。


「張宇、お前も見ればわたしの言いたいことがわか――いやダメだ見るな。とにかく!」


 一つ咳払いし、なんとか冷静さを取り戻す。


「わたしの従者としてそばに置くからには、夜着といえど、それなりのものを身に着けてもらわなければ困る! 厚手の男物の夜着を買ってこい。それと、日持ちする一口大の菓子も」


「菓子、ですか?」


「そうだ。季白の講義がずいぶん大変なようだからな。時折、菓子でも食べて休憩した方が、効率も上がるだろう。疲れた頭に詰め込んでも、結局、身につかん。……どうした?」


 目を丸くして英翔の言葉を聞いていた張宇が、不意に柔らかに微笑んだのに気づいて問う。


「いえ……」

 張宇は笑顔のまま、ゆっくりとかぶりを振った。


「ずいぶん、明珠を大切になさっておられるな、と」

「当然だ。わたしは主人だぞ。己の従者を大切にするのは当然だろう。ああ、お前も自分の分の菓子が欲しければ、買ってきてよいぞ?」


「ありがとうございます」

 流れるように片膝をつき、張宇が拱手きょうしゅの礼をとる。


「かしこまりました。英翔様のご要望の物を、買いそろえてまいりましょう」


 ◇ ◇ ◇


「そろそろ開けても大丈夫か?」


 ゆっくりと内湯に入った後。張宇は英翔に言いつけられた物を買いに行き、季白と部屋に戻った少年英翔は、遠慮がちに隣室へ通じる内扉を叩いた。


 そろそろ半刻(約一時間)は経つので、さすがに湯浴みは済んでいると思うのだが。


「明珠?」

 しばらく待つが、扉の向こうはしんと静まり返っていて、何の音もしない。


「明珠!? おいっ!?」

 内扉の取っ手に手をかけると、案に相違して、するりと扉が開く。内湯に行く前、確かに明珠が閂を下ろす音を聞いたというのに。


 ぞわり、と不安が背筋を滑り落ちる。


「すまんが入らせてもらうぞ!」

 一言断り、大きく扉を開け放つ。


 最初に目に飛び込んだのは、部屋の中央を仕切る衝立ついたてだ。明珠が使っているのは衝立の向こう側――だが、何の音もしない。


「明珠っ!」

 礼儀がどうだなどと言っていられない。

 衝立の向こうへ駆け込んだ英翔は、そこで、寝台に座って眠る明珠を見つけた。


 おそらく、湯を使った後、閂を外し、寝台に座って英翔を待つ間に寝落ちてしまったのだろう。


 思えば、明珠も昨夜、襲撃に巻き込まれてろくに眠れていない。さらに、生まれて初めて馬車に乗って、数刻も季白の講義を受けたのだ。柔らかな布団に眠気を誘われたとしても、責める者などいないだろう。

 実際、明珠には強がったものの、英翔自身もかなり疲れている。


 上半身を寝台に横向きに倒し、すやすやと眠るあどけない寝顔に、心の底から安堵あんどの息を吐く。

 明珠の身に何かあったのではないかと、ろくでもない想像が頭を駆け巡ってしまった。


「英翔様。明珠がどうかなさいましたか?」

 部屋に入ってきた季白に背後から問われ、かぶりを振る。


「何でもない。単に寝こけていただけだ」

 起こすのは忍びないが、座ったまま、上半身だけ倒して寝ていては、疲れも取れないだろう。


「手伝いましょうか?」

 衝立のこちら側へ来て尋ねる季白に、きっぱりと首を横に振る。


「一人で大丈夫だ。それより、お前はたらいを運び出しておけ」

 季白の視線が明珠に注がれたのを感じて、思わず声が低くなる。


「かしこまりました。では、隣室に下がっておりますので、何かありましたらお声をおかけください」

 季白が中身がすっかり冷めたたらいを抱えて出て行く。


 背後で内扉が閉まる音を聞き、あらためて明珠に視線を落とす。


 明珠が着ているのは、前にも一度見たことのある夜着だ。着古した薄手の生地のせいで、まろやかな身体の線がたやすく想像できてしまう。


「……男と同室だというのに、無防備すぎるだろう」

 それとも、少年姿の英翔は、男として勘定に入っていないのか。明珠のことだから、単に英翔を信用しているだけという可能性もある。が、英翔に真実はわからない。


 幸い、明珠は掛け布団をめくり上げて寝ていたので、足を寝台の上へ載せてやるだけでいい。全身を抱えるのでなければ、少年の英翔でも何とかなる。


「……明珠の靴を脱がせる縁でもあるのか?」

 一人ごちながら、明珠の足から靴を脱がす。囮として男装した時に季白が用意した、真新しい男物の靴だ。


 靴を脱がしても、明珠はすやすやと寝入っていて、起きる気配がない。よほど疲れていたのだろう。

 両膝の後ろに腕を入れ、力を込めて持ち上げる。力の抜けた身体は重く、よろめきそうになったものの、寝台の上に載せられた。


 載せた拍子に、夜着の裾が乱れ、ひきしまった足首からふくらはぎにかけての線がのぞく。


「っ!」

 あわててばさりと掛け布団をかけると、「んんぅ……」と明珠が身じろぎした。


 身を固くし、息をひそめて、じっと明珠をうかがう。

 もし今、明珠が起きたら、悲鳴を上げられても仕方がない。


 が、明珠は再びすこやかな寝息を立て始める。

 ほっ、と息を吐き、乱暴に掛け布団をかけた拍子に乱れて頬にかかった髪を指先でく。


 すべらかな肌の感触に心が跳ね、嫌でも昨夜の襲撃を思い出す。


 明珠の怪我を癒し、寝台に寝かせた後、濡らした柔らかい布で、この頬に散った血飛沫をぬぐった時のことを。


 傷はすでに治したので、何の心配もいらない――。理性ではわかっていても、血に汚れた愛らしい顔は、英翔の心に恐怖を刻み込むには、十分だった。


 愚か者とののしられても、仕方がない。

 張宇と季白の二人がそばにいて、明珠が妖刀で斬られるような事態が起こるとは、まったく想像もしていなかったのだ。


 龍翔りゅうしょうのそばにいる限り、そして、解呪の鍵を明珠が握る限り、今後も明珠が危険な目に遭う事態は、あるだろう。


 龍翔の大願は、いばらの道の先にしか、ない。


 己の手がいくら鋭いとげで傷つこうとも、耐えられる。己自身で、選んだ道だ。


 だが、明珠は違う。巻き込まれただけだ。

 だというのに、明珠は何と無防備に眠りこけているのだろう。不安など何もないと言いたげに、すやすやと。


 己への怒りを抑えきれず、爪が皮膚に食い込むほど、拳を握りしめる。


 術すら使えぬ、無力な小さな手。

 こんな手で、明珠を守りきれるのだろうか――?


 だが、明珠は決して手放せない。呪われたこの身が、解放されるまで。

 相反する想いが痩せた身体の中でせめぎ合い――。


 結局、打開策を見つけられず、英翔は苦くにがく、吐息した。


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