4 くちづけはお仕事ですか? その3


「……一つ、心当たりがある。おとといの晩、襲撃された時に……」

「襲撃の時ですか!? いったい何が……?」


「その……」

 ここまで来たら、隠し立てはできない。英翔が張宇から視線を逸らしつつ、答える。


「くちづけの時に、舌を……」


「ああ、それは……」

 張宇が困ったように眉を寄せる。


「明珠には、ちょっと……。いや、かなり刺激が強かったかもしれませんね……」


「わかっている。だが、あの時は……っ」

 無意識に、唇にふれる。


 あの時のくちづけの甘さを思い出すだけで、陶然とうぜんとなる。


 《気》が足りなかったというのは、言い訳だ。

 あの時はただただ、明珠の蜜の甘さに溺れて、むさぼってしまった。そして。


「……明珠に嫌がられるのも、当然か……」

 嫌っ、と叫びながら突き飛ばした明珠の声が甦る。


「非常事態だったのでしょう? 明珠も話せばわかってくれるのでは?」

 穏やかな張宇の声は、英翔の不安を溶かすように優しい。


「そう、だな……」

 済んでしまったことを悔むのは、英翔の性格に合わない。


 それくらいなら、たとえ許してもらえなくとも、きっちりと謝罪した方が、すっきりする。


「ありがとう、張宇。お前に話して、少し気が晴れた。今夜にでも明珠と話して、謝罪しよう」


 ◇ ◇ ◇


「いえいえ、俺でお役に立てれば、これに勝る喜びはありません」


 英翔に微笑み返しながら、張宇は胸中でほっ、と安堵の息をつく。

 足取りも荒く御者台に乗ってきた時には、何があったのかと心配したが、ひとまず落ち着いたようだ。


 というか……。

 張宇は隣に座る英翔の、男の自分でも見惚みほれそうな秀麗な横顔をそっと盗み見る。


 先ほどの英翔は、幻ではなかっただろうか。

 英翔が五歳からのつきあいだが、あんな英翔は初めて見た。


 一人の娘の感情をおもんぱかり、嫌われたのではないかと、不安になるなど、それはまるで――。


 張宇は小さくかぶりを振る。

 果たして、本人に自覚はあるのだろうか?


 龍華国りゅうかこくの第二皇子。

 その肩書を持つ主人にとって、女性とは何らかの思惑を持って近づいてくる者であり、結婚や婚約は権力争いの道具の一つに過ぎない。


 成人しているにも関わらず、いまだ妻をめとっていないのは、並みいる貴族達が第一皇子派、第三皇子派、双方の出方をうかがって、《龍》の力だけは優れているものの、何の後ろ盾もない龍翔に、娘を差し出す気がないためだ。


 龍翔が何らの失策を犯して廃位でもされれば、それはそのまま、婚家の没落につながる。


 宮中での龍翔は、どちらの派閥にも鬱陶うっとうしく思われているのだから。

 我が身の立場の危うさは、龍翔自身が誰より知っているだろう。


 英翔が明珠のことをどう想っているのか、張宇にはわからない。英翔が己の心を自覚しているかどうかさえ。


 張宇にできることは二人のそばで、見守るくらいだろう。


 ◇ ◇ ◇


 明珠達が夕方に着いた町でとった宿は、今回も高級宿だった。昨日と同じように、内扉でつながった二部屋をとっている。


 英翔は隣の季白のところへ行っている。

 今日も部屋を二つに分けた衝立ついたてのこちら側で、荷物の整理をしていた明珠は、内扉が叩かれる音に、はっとして振り返った。


「明珠、湯を……」


「張宇さぁんーっ!」

 湯気の立つ大きなたらいを持った張宇の姿に、思わず駆け寄る。


「どうした? ちょっと待ってくれよ。今、たらいを置くから」

 衝立の明珠側の床にたらいを置いた張宇が立ち上がり、穏やかな目で明珠を見下ろす。


「どうした? 何かあったのか?」


 心に染み込むような優しい声音に、不意に、張り詰めていた気持ちが、限界を突破する。

 じわりと涙が浮かんで、背の高い張宇の姿がにじんだ。


「わあ!? どうしたんだ!?」


 うろたえた声を出した張宇が、両肩をつかむ。大きな優しい手にますます心が緩み、我慢していた涙がぽろぽろとこぼれ出した。


「張宇さん! 私、私……っ」

 涙と一緒に、日中、胸の奥に押し込めていた不安があふれ出す。


「英翔様のご不興を買ってしまったです……。でも、いったい何が原因か、まったくわからなくて……っ」


 今朝、御者台に出て行った英翔は、午前中に少年姿に戻ってしまったが、それでも車内には戻ってこなかった。

 結局、一日中、御者台で過ごし、先ほどの夕食の時でさえ、ろくに会話をしていない。


 いつも、英翔の方からあれこれとかまってくれるだけに、英翔に壁を作られると、従者の明珠は何をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。

 英翔の優しさの上に胡坐あぐらをかいていたのだと、しみじみ自分が情けなくなる。


「私、どんな大失態をしてしまったんでしょうか? このまま、クビになるんでしょうか?」


 自分で口にした「クビ」という言葉が、胸に突き刺さる。

 英翔に仕えられなくなるなんて、嫌だ。初めて出逢った、心から敬愛できる主なのだ。英翔の役に立てることなら、何だってする。


「お願いです、張宇さん! 教えてください! どうやってお詫びしたら、英翔様のお怒りをとくことができるんでしょう!?」

 すがるように張手で張宇の着物を掴んで問うと。


「明珠。頼むから泣かないでくれ」

 張宇の困り果てた声が降ってきた。


「まずは落ち着こう。な? 英翔様は、明珠に怒ってなどいないぞ。ただ、ちょっと……」


 張宇の大きな手が濡れた頬にふれる。

 涙でよく見えないが、きっと困り果てた顔をしているのだろう。


「英翔様は、その……」

 張宇がためらいがちに口を開いた瞬間。


 ばたん! と乱暴に扉が開く音がした。


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