5 あなたの、そばに――。 その1


季白きはく。一つ聞きたいことがある」


 夕刻の宿。季白達の部屋で、少年姿の英翔は季白を睨みつけた。張宇は今、隣室の明珠へ、湯を張ったたらいを持って行っている。


「何でございましょう?」

 英翔の機嫌の悪さを感じているだろうに、ふだんと変わらぬ冷静な声音で季白が頭を下げ、主人の問いを待つ。


「明珠に、いくら払った?」


「……は?」


 予想だにしていない質問だったのだろう。珍しく、季白が間の抜けた声を出す。

「いくら、と言いますと?」


「言葉の通りだ。わたしの解呪をさせるために、明珠にいくら払うと約束した? それとも、従者としての給金を吊り上げて、引きとめたのか?」


 声が低くなったのが、自分でもわかる。季白のすました顔が、やけに苛立たしい。


「正直に答えろ」


「わたくしが英翔様に問われたことに隠し立てすることなど、ございません」

 きっぱりと断言した季白が、淡々と答える。


「明珠の給金ですか? 蚕家さんけで働いた分は精算して、明珠の希望で全額実家に仕送りするよう、処理いたしました。今後の給金についても、蚕家の時と同額で、月に銀貨三十枚で契約しましたが」


「嘘をつくな! 銀貨三十枚など……っ! それでは、その辺にいる職人の給料と、さほど変わらぬではないか!」


 怒りのままに叫ぶと、季白が心外だと言わんばかりに眉をひそめる。


「お言葉ですが、わたくしには英翔様に嘘をつく必要などございません。お信じになられないのでしたら、明珠が署名した書面をお見せしましょうか?」


 季白に嘘をついている様子はない。

 だが、それでは。


「あいつは、ふつうの侍女と変わらぬ給金で、こんな危険に首を突っ込んでいるというのか!?」

 朝の馬車でのやりとりが脳裏をよぎる。


「解呪は『仕事』だと言っていただろうっ!?」


 仕事だと思わねばやりきれぬほど、英翔とのくちづけが嫌なのだと――激情に駆られて迫った勢いは、涙を浮かべて震える明珠を目の当たりにした途端、しおれてしまったのだが。


 英翔の怒りなど、どこ吹く風で季白が頷く。


「解呪が明珠の仕事なのは間違いありません。というか、そのためだけに雇っているのですから。給金については……。本人が言い出さないので、不満がないのなら、別に良いかと思いまして。借金がある方が、こちらとしても行動を制限しやすいですし」


「お前は……っ!」

 握りしめた小さな拳の皮が鳴る。


 季白の取り澄ました顔を殴りつけてやりたいと、本気で思う。

 だが、そんなことより。


 足取りも荒く内扉に歩み、乱暴に開ける。


「明珠!」

「は、はいっ」


 衝立ついたての向こうから、張宇と一緒に、あわてた様子で明珠が顔を出す。

 涙に濡れた顔を見た途端――頭の中が、真っ白になった。


「何があった!?」

 明珠に駆け寄り、その肩にかかっていた張宇の手を振り払う。


「す、すみませ……っ」

 明珠の瞳から新しい涙がこぼれ落ち、英翔はますます動揺する。


「張宇! いったい……!?」


「明珠は、英翔様のお怒りを買ったのではないかと、悩んでいたようで」

 振り返りもせず問うと、張宇の穏やかな声が返ってくる。


「は?」

 予想だにしないことを言われ、間抜けな声が出る。


「怒るというのなら、明珠の方だろう!? なぜ、わたしが怒る必要がある!?」


「だ、だって英翔様……。今日は出て行かれたっきり、戻ってこられなかったじゃないですかっ。だから私、いったいどんな失敗をして怒らせてしまったのかと……っ」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、明珠が答える。明珠の両肩をつかんだ英翔の手の甲が、涙の雫で濡れる。


「な……っ」

 絶句した英翔をなだめるように、張宇がゆっくりと口を開く。


「その……。お互いに誤解があるようですので、一度、ゆっくり話し合ったらいかがですか?」


「そう、だな……」

 張宇の穏やかな物言いに、少しだけ冷静さを取り戻す。明珠には、確認したいことばかりだ。


「明珠。少し……」

 言いかけて、足元のたらいに気づく。


「ああ。先に湯を使った方がいいか? 冷めてしまうだろう?」


「お湯なんてどうだっていいんです! この季節なら、冷めたって風邪なんて引きませんし。英翔様のお話をうかがう方が、百倍大切です!」

 懐から出した手巾で涙をぬぐいながら、明珠がきっぱりと告げる。


「そうか……。では、こちらの卓へ来い」


「俺はお茶とお菓子でも用意しましょう」

 張宇が気を利かせて言う。


「そうだな。結局、昨日の菓子も、渡せていないままだしな」

 衝立の反対側にある小さな卓に、明珠と向かい合わせに座る。


 涙はぬぐったものの、泣きはらした明珠の目元は薄紅色に染まっていて、それを見ただけで胸に痛みを覚える。


「その……。初めに言っておくが、わたしはお前に怒ってなどいないぞ。むしろ、お前に嫌われたか、おびえられていると、思っていた」


 明珠の顔を真っ直ぐみられず、視線を伏せて告げると、明珠の素っ頓狂な声が返ってきた。


「私が英翔様のことを嫌うなんて! そんなことありえません!」


 即座に返ってきた断言に、思わず顔を上げる。

 驚きに見開かれた明珠の黒い瞳が、真っ直ぐに英翔を見つめていた。


「だが……。お前にとって、「解呪は仕事」なのだろう?」


 それにしては、なぜ季白に高額の金銭を要求していないかが、に落ちないが。

 英翔の言葉に、明珠がきょとん、と首をかしげる。


「……解呪がお仕事だということと、英翔様を嫌うということが、どうして結びつくんですか?」


「っ!? 解呪の時に泣いて震えていたくせに、何を言う!?」


 反射的に声を荒げると、明珠の愛らしい顔が、瞬時に朱に染まった。


「だ、だって、それは……」

 おどおどと、明珠の視線が揺れる。


「英翔様に怒ってらっしゃるんですかとうかがったら、私のせいだとおっしゃるし、やっぱりその、は、恥ずかしいですし……」


 耳まで真っ赤にして告げられ、愛らしく恥じらう様子に、反射的に手を伸ばしそうになる。

 すべらかな頬にふれたら、きっとその熱さにけてしまうに違いない。


「それに……」

 明珠の声に、我に返る。明珠がへにょ、と眉を八の字に下げていた。


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