5 あなたの、そばに――。 その2
「私がお役に立てることなんて、解呪しかないんだとおもうと、情けなくなってしまって……」
「それは違う!」
思わず強い声で返したところで、内扉が叩かれた。英翔が応じると、張宇が茶と菓子を盆に載せて入って来る。
「すみません、張宇さん。後は私が」
立ち上がった明珠が張宇から盆を受け取って戻ってくる。
「おいしそうなお菓子ですね」
茶の器と菓子が載った皿を並べながら、明珠が顔をほころばせる。
張宇が用意した菓子は、丸くて平べったい焼き菓子だった。表面に中の形の焼き印が押されていて、可愛らしい。
「季白の講義をずっと受けていては、疲れるだろう? 休憩用にと、夕べ張宇に買ってこさせたのだが……。渡すのさえ、忘れていたな」
それほど心に余裕がなくなっていたのかと、自分で自分に呆れてしまう。
「いただいてもいいですか?」
遠慮がちに問う明珠に、もちろんだと頷く。一口かじった明珠が顔をほころばせた。
「おいしいです! 中に
にこにこと嬉しそうに菓子を食べる明珠を見ているだけで、心のささくれが取れていくような気がする。
が、このまま
「明珠。一つ言っておくが」
明珠を真っ直ぐ見つめ、告げる。
「わたしが
視線を上げた明珠に、柔らかに微笑む。
「それに、わたしはお前が解呪の役にしか立っていないと思っていないぞ。現に、昨日から季白の鬼講義を受けているではないか。従者としても、励んでくれるのだろう?」
「はいっ! もちろん。もちろんです!」
何がそんなに嬉しいのか、菓子を噛み下した明珠が、笑顔で何度も頷く。
その顔は、迷子が道を見つけたように晴れやかだ。
だが、明珠を見れば見るほど、英翔の中で疑問が膨らんでくる。
「明珠。わたしには、どうしてもわからん」
吐息とともにこぼれた声は、我ながら弱々しい。
「お前は、解呪は仕事だと言った……。だが、仕事と言いつつ、お前は季白に高額な謝礼を要求していないではないか。お前はわたしに仕えることが、どれほど危険なことか、わかっているのか!?」
「危険、ですか……?」
きょとん、と小首を傾げた明珠のあどけない表情に、感情が
「わたしは命を狙われている。そのわたしの解呪に関わるということは、お前も命を狙われかねないということなんだぞ!?」
蚕家にいた時は、ここまでの不安を感じていなかった。
季白と張宇がいれば、明珠を危険に
明珠が
――襲撃され、明珠が英翔の前で斬られるまで。
生まれてこのかた、あの時ほど己の無力を呪ったことはない。
おとといは、元の姿に戻れたがゆえに、事なきを得た。
しかし、次も大丈夫だという確証が、どこにある?
もし刺客が英翔ではなく、明珠を狙うようになったら?
そう考えるだけで、全身が凍りつきそうになる。
しかも、明珠はそれをちゃんとわかっていない。それが、英翔をさらに苛立たせる。
常識がある者なら、危険がわかった時点で、逃げ出すなり、身の危険の代わりに高額な金品なりを要求するだろう。
いったい明珠は何を考えているのか――英翔には、まったくもってわからない。
「英翔様にお仕えしていれば、危険があるというのはわかっています……。けど、それを言うなら、英翔様ご自身が、一番危険じゃないですか!」
気遣うような、明珠の眼差し。
「己の危険は承知の上だ! 己の大願を叶えるためなのだ。我が身の一つや二つ、賭けんでどうする!? だが、お前は――っ!!」
叫んで、気づく。
明珠の安全のためというなら、すぐにでも明珠を解雇して、英翔から引き離すべきだ。
だが――英翔の大願を叶えるために、明珠は決して手放せない。
その矛盾が、英翔を
卓の向かいに座る明珠に右手を伸ばしかけ――途中で、拳を握り込む。
少年の無力な手。
守りきれるという保証もないのに、明珠の手をとっていいものか――。
答えの見えない迷いが、英翔を押し留める。と。
不意に、拳が柔らかなものに、しっかりと包まれる。
視線を上げた目に真っ先に飛び込んできたのは、英翔の拳を握る明珠の両手だった。さらに視線を上げると、真っ直ぐに英翔を見つめる明珠の眼差しにぶつかる。
「私……まだ小さい頃、憧れていた母さんに術師になれないと言われて哀しくて……。私なんかじゃ、誰の役にも立てないんだって、ずっと思っていたんです。私、英翔様を尊敬しています。身分が高いのに下々の者にこんなに優しい方を、私、英翔様以外に知りません。こんな私でお役に立てるのなら……」
明珠が、花のように柔らかに微笑む。
「危険は承知です。ですから、どうかおそばにお仕えさせてもらえませんか?」
「お前は……っ」
言いようのない感情に、言葉が詰まる。
明珠に手を掴まれたまま立ち上がり、小さな卓を回りこむ。
「そばにいてくれと頼むのは、お前ではなく、わたしが言うべき言葉だろうが……っ!」
明珠の椅子の隣に片膝をついてひざまずき、見上げる。
「あのっ、英翔様!?」
驚いて立ち上がろうとする明珠を左手で制し、
「何があろうとお前を
「もちろんです! これからも、お仕えさせてください!」
間髪入れずに返ってきた言葉に嬉しくなり、明珠の指先にくちづける。
「ひゃあっ」
「逃してやれんからな? 心してくれよ」
「は、はいっ! しっかりお仕えできるように、季白さんの講義も頑張ります!」
気合を込めてこくこくと頷く明珠に微笑み返し――もう一度、指先にくちづける。
ふわりと薫る、蜜の香気。
明珠はいつも甘くて――うっかりしていると、その蜜に
「やはり、お前は甘いな」
「へっ? あっ、お菓子の欠片がついてましたか!?」
とんちんかんなことを言う明珠に苦笑し、立ち上がって手を放す。
季白や張宇などの、幼い頃からそばにいる限られた者を除けば、これまで英翔の周りには、己の欲望を満たすために何らかの見返りを求める者しか、いなかった。
その中にあって、ただ英翔の役に立ちたいと言い切る明珠はあまりに異質で――あまりに甘い。
こんな気質で、
だが、明珠が英翔に仕えることを選んだのなら、英翔が守ればいい。
守りきれるかという不安がないわけではない。だが、英翔には季白も張宇もいる。
辛いのは、進むべき道がわからずに迷うことであって、道さえ見えれば、後はそれがどんな道であっても、進んでいくだけだ。
「英翔様、どうなさったんですか?」
問われて、己が笑みを浮かべているのだと気づく。
「いや。ようやく迷いが晴れた。……お前とちゃんと話し合うように助言してくれた張宇には、何か礼をせんとな」
「それでしたら、私もお礼がしたいです! 夜着とかお菓子とか買う手間をかけてしまいましたし……」
あわてて立ち上がろうとする明珠の頭を、なだめるようにくしゃりと撫でる。
「礼なら後で言えばいい。張宇は逃げんが、湯は冷める。新しい湯を用意させようか?」
「とんでもない! 大丈夫です。まだそんなに冷めていないでしょうから。英翔様もどうぞお風呂に行ってきてください」
「わかった。だが、冷めていたら遠慮なく言うんだぞ? お前に風邪などひかれては困る」
英翔は至極真面目に言ったというのに、何がおかしいのか、明珠は笑いながら頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます