5 あなたの、そばに――。 その3
朝、目覚めた明珠は寝台に起き上がって、大きく伸びをした。張宇が買ってきてくれた新しい夜着の袖がめくれる。
新しい夜着は仕立てもしっかりしているし、肌ざわりも良くて、すこぶる快適だ。母の形見の着物から手ずから縫った前の夜着にも愛着はあるが、新しい着物など、明珠には滅多に手に入るものではないので、それだけで心が弾む。実家にいた頃は、古着屋で手に入れた着物ばかりだった。
昨日、英翔と話をして、英翔が怒っていないとわかったからか、心が軽い。鬼のように厳しい季白の講義を、今日も頑張って受けようと気合を入れたところで、
「おはよう。起きたのなら、わたしは隣室へ行っているぞ」
と、
「あ、すみません」
このやりとりは、昨日も交わした気がする。
ひょこ、と衝立の向こうを覗くと、英翔が寝台から下りようとしていた。
「どうした?」
「あ、いえ。英翔様は早起きだなあと思って……。もしかして、私のせいでよく眠れてないとか、ありませんか? いびきがうるさいとか……!?」
不安になって問うと、英翔が呆れたように苦笑する。
「いびきなど聞こえんから安心しろ。ふだんから朝が早いだけだ」
「それならいんですけど……。ちゃんと眠らないと、おっきくなれませんよ?」
「……もうすでに、十分成長していると知っているだろう?」
少年英翔の声が、不機嫌に低くなる。
「す、すみません。少年姿の英翔様を見ていると、つい……」
少年姿の英翔の
「……順雪と同じくらいの年に見えようと、中身は違うんだ。男物とはいえ、夜着でうろうろするな」
英翔の呟きは低すぎて、うっかり聞き逃してしまう。小首を傾げると、英翔は「何でもない」とかぶりを振った。
「さあ、身支度を整えるといい。わたしも隣室で着替えてくる」
「はい」
着替えを持って隣室へ歩いていく英翔の後姿を見送ってから、明珠は自分の支度にとりかかった。
◇ ◇ ◇
昨日と同じように、隣室で四人で朝食を食べ、宿の車停まりで英翔と二人、先に馬車に乗り込み。
「……そんなに緊張する必要はない」
身体を強張らせる明珠に、困ったように愛らしい顔をしかめて少年姿の英翔が苦笑する。
「あ、頭ではわかっているんですけど……」
明珠だって、好きで緊張しているわけではない。
だが、襲撃の時のくちづけや、昨日、英翔の機嫌を損ねたことを思い出すと、どうしても身が固くなってしまうのだ。それに。
「やっぱりその、どうにも恥ずかしいですし……」
少年英翔の顔を見ることができず、視線をさまよわせていると、座る明珠の前に立った英翔が、不意に頭を撫でた。
いたわるような、優しい小さな手。その手の優しさに、ゆっくりと緊張がほどけていく。
「前みたいに乱暴なことは、決してせん。恥ずかしいなら、龍玉を握って、目を閉じているといい」
「は、はい……」
言われた通りに、胸元の守り袋を両手で握り、目を閉じる。
英翔の手が頭からこめかみ、頬へとすべり、輪郭をなぞる。
「く、くすぐったいです」
優しい指先がくすぐったくて首をすくめると、英翔の手が顎を掴んで持ち上げた。
「やはり、お前は笑っているほうがいい」
吐息が明珠の唇にふれたかと思うと、柔らかなものにふさがれる。顎を掴む手が大きな手に変わり。
「……どうだ? 恐怖や嫌悪を感じたか?」
まぶたを開けた明珠の視界が捕らえたのは、気遣いをにじませた英翔の顔だった。
「いえ……」
ゆるゆるとかぶりを振ると、英翔の手が離れる。
「怖いも嫌も、感じなかったです、けど……」
立っているせいで、座っている明珠よりずっと高い位置にある秀麗な面輪を見上げる。
「……そのうち、恥ずかしいのにも、慣れるようになるんでしょうか……?」
心臓が早鐘のようだ。頬が燃えるように熱くなっているのが、自分でもわかる。
形良い眉を困ったように寄せた英翔が、明珠の隣に座った。
「わたしはお前ではないから、それについては何とも言えんな。まあ、おいおい慣れるとは思うが……」
と、明珠を見て、悪戯っぽく微笑む。
「わたしは、いつまでも初々しいのも愛らしいと思うが」
「ふえっ!?」
思いもよらなかった言葉が、理解できないままに耳を通り過ぎていく。
聞き返すより先に、馬車の外から声がかかった。
「もうよいですか? 出発しますよ」
「は、はい!」
季白が扉を開けて入って来る。
「早いな。もう少しゆっくりでもいいのではないか?」
英翔が不満そうにこぼす。
「英翔様のご機嫌が戻られたようで何よりです。が、急ぐ旅ですから、申し訳ありませんが、ご
英翔の声音をものともせず、いつも通り淡々と告げた季白が、ふと視線を上げる。
「ああ。ですが、夜ならまったくかまいませんよ。夜でしたら、時間もたっぷりありますし」
「……夜には少年に戻っているだろうが」
「別に、わたくしは夜に戻ってはいけないなどと、一言も申しておりませんが?」
「お前な」
英翔の声が、冷気を帯びて低くなる。
「青年に戻った時に、明珠と同じ部屋で眠る気はない」
「英翔様がそうおっしゃるのでしたら、それでかまいません。……今のところは」
季白が吐息とともに呟き、思惑ありげな眼差しを明珠に向ける。が。
「?」
明珠に季白の深慮遠謀などわかるはずがなかった。
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