6(幕間)たとえ汚泥の道を歩もうとも


 蚕家本邸の地下にある牢に捕らえられて、何日経ったのだろう。


 薄揺はくようは、すでに数え切れぬほどついた溜息を、もう一度ついた。


 日の光も差さぬ地下牢では、日付の移り変わりなどわからない。牢の頑丈な格子の向こうに立てられた蝋燭ろうそくの明かりが、唯一の光源だ。 


 罪人を留めおく牢の明かりなら、獣脂を使った安い蝋燭か、魚油の灯籠だろうに、高価な蜜蝋みつろうの蝋燭というのが、いかにも蚕家らしい。地下牢を使う予定などなかったためだろう。


 そもそも、ふつうの屋敷には地下牢などない。


 蚕家の長い歴史の闇を凝縮したかのように、光の差さぬ牢の隅は、闇よりもなお、くらい。


 術を使えば、牢くらい、たやすく破れるのかもしれない。だが、蚕家から出ることはかなうまい。おそらく、外には罪人を逃さぬよう、結界が張られているに違いない。


 地下牢に捕らえられたのは、薄揺はくよう一人きりだ。清陣せいじんは、ここにはいない。

 引っ立てられる時にはすでに別だったので、おそらく清陣は、ここよりもずっと待遇の良い座敷牢にでも入れられているのだろう。


 ――龍華国の第二皇子を殺そうとしたのだ。いかに蚕家の嫡男ちゃくなんとはいえ、罪を免れまい。


 それとも、薄揺にすべての罪を押しつけて、清陣だけは生き残るのだろうか……?


 己の想像にぞっと血の気が引き、声にならぬうめきがれる。


 清陣のくびきから逃れたくて、主の背を押したというのに、これでは、自分で自分を地獄の淵に追いやったようなものだ。


 なぜだ? なぜ、こんなことになってしまった? と自問する。


 嫌だ。死ぬのは嫌だっ。それだけは……っ!


 心が、死への恐怖にきしみを上げる。歯の根が合わぬほどがちがちと奥歯が鳴り、全身が、氷漬けにされたように冷えていく。


 不意に、地下牢のよどんだ空気が動き、薄揺はひいっ、と声にならぬ悲鳴を上げた。


 地下牢に人が入って来るのは、日に三度。食事を運び、蝋燭を替える時か、さもなくば――。


 暗がりの向こうから、燭台を持った人物が近づいてくる。

 揺らめく灯火に照らされた人物は、


「……秀洞しゅうどう様……」


 蚕家の家令を務める思いがけない人物の姿に、薄揺はかすれた声で呆然と名を呼んだ。


 秀洞はたった一人で、後ろには薄揺を引っ立てる下男の姿一つない。

 だが、一人だからといって、薄揺に秀洞を出し抜くことなど、不可能だ。


 秀洞しゅうどうと、当主・遼淵りょうえんは異母兄弟の間柄だ。なかなか身ごもらず、半ば絶望視されていた先代の正妻が、遼淵を産むまで、めかけの子である秀洞が、蚕家の次期当主だと目されていた。


 天才の名をほしいままにする遼淵には及ばぬものの、遼淵が生まれるまでの約十年間、蚕家の次期領主として教育されてきた秀洞の実力は、並みの術師ではとてもではないが及ばぬと聞いている。


 遼淵が当主となってからというもの、秀洞は術師としての一線を退き、もっぱら蚕家の家政を取り仕切るようになったため、若い薄揺がこの目で秀洞の術を見たことはないが。


 だが、落ち着き払った様子で牢の前に立つ秀洞の、泰然たいぜんとした様子を見るに、己が薄揺に手向かわれるとは、露ほども考えていないらしい。


「秀洞様が、なぜ、このような所へ……? わ、わたしの処刑される日取りを、わざわざ伝えに来てくださったのですか……?」

 恐怖に強張る口を苦労して動かし、問う。


 五十歳を越えてなお、若い頃の端正さを残す秀洞の面輪おもわは冷ややかで、何を考えているのか、まったく読めない。


 ゆっくりと秀洞が口を開く。


「薄揺。お前は、死にたいのか?」


「死にたくなどありませんっ!」

 反射的に、叫んでいた。


 両手で格子を掴み、臓腑ぞうふを引き絞るような声で。


「死にたくなど……っ! わたしはただ、清陣様から自由になりたくて……っ!!」


 それが、どこでどう間違ってしまったのか。

 きっと、あの《互伝蟲ごでんちゅう》の誘惑に囚われてしまった時から……。


 血を吐くような薄揺の叫びに、秀洞の表情が動く。

 愚か者を憐れむように、薄揺を見つめ――、


「ならば、お前を生きのびさせてやろう」


「……え……?」

 静かに告げられた言葉に、虚を突かれる。


「それが、お前にとって幸いか、更なる不幸の始まりかは、わからぬが――」


 薄揺が秀洞の顔を見上げた時には、すでに憐みは消えていた。感情の読めぬ表情と声音で、秀洞が問う。


「お前に、選択の自由をやろう。ここで、座して死を待つか、それとも、汚泥おでいの道であろうと生きのびるか」


 初めて与えられた選択の自由に、薄揺は戸惑う。

 秀洞の言う先に、何があるのかはわからない。きっと、泥にまみれたいばらの道だろう。それでも。


「死ぬのは嫌です……っ! 死にたくない! わたしは生きたい……っ!!」


 身体の、心の奥底から、願いがあふれる。

 このまま、この昏い地下牢で処刑を待つなんて、耐えられない。


「ならば、これを飲め」

 秀洞が懐から栓付きの小さな小瓶を出す。


「中に、一時的に仮死状態となる薬が入っている。意識を失うのは数刻ほどだ。意識を失っている間に、お前が大罪に恐れおののくあまり、自害したことにして、蚕家から運び出してやろう」


 震える手で、秀洞から小瓶を受け取る。

 これさえ飲めば、豪奢ごうしゃな牢獄と同じだった蚕家から、出ることができる。その後のことは、すべて、ここを生きて出てからだ。


 薄揺は栓を抜くと中身を一気にあおった。


 かすかに苦みのあるどろりとした液体が喉を通り過ぎる。

 胃の中に入ったとたん、くらりと視界が回った気がした。


「すぐに眠気が回る。横になって待つといい。……次に気がついた時は、蚕家の外だ」


 薄揺が飲む様子を冷徹に観察していた秀洞が告げ、背を向ける。

 襲ってくる眠気にふらつきながら、薄揺は思わず秀洞の背に問いかけていた。


「なぜ、わたくしめを助けてくださるのですか……?」


 炎がかすかに揺れる燭台を持つ秀洞の歩みが、ふと止まった。振り返りもせず、暗がりの向こうから、低い声だけが流れてくる。


「……助け、か。お前は後でわたしを恨むやもしれぬぞ? ただ……そうだな。清陣の影のように生きてきたお前に、わたし自ら気まぐれを施してやってもいいという気分になっただけだ」


 かすかな――抑えつけていて、わずかしか感じ取れぬ感情の揺らぎが、低い声を震わせる。


 これ以上の問いは受けつけぬと言いたげに、秀洞が再び歩を進める。


 耐えられぬ眠気に床に座り込んだ薄揺は、ぼんやりと揺れる視界で、こごる闇の向こうへと消えてゆく秀洞の背を見送った。



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