20 賊の手がかりはなかなか得られません!? その2


「う――っ、しみるぅ~」


 長い髪を頭の上で簡単に団子にまとめて濡れないようにし、広い湯船に肩まで浸かった明珠は、「くは――っ」と、胸の奥底から息を吐き出した。湯船の上を漂っていた湯気が、ふわりと揺れ、たおやかな線を描く。


 今なら、呑み屋に来た仕事帰りの客が、酒を呑んだ途端、「ぷは――っ」と叫ぶ気持ちがわかる。

 慣れない書類仕事で、肩も背中も、ばきばきと音が鳴りそうに凝っている。一番ひどいのは、ずっと筆を握っていた右腕だ。明日に支障が出ないよう、左手でよくんでおく。


「んーっ」

 と大きく身体を伸ばす。湯温はちょうどよい具合で、温かいお湯が、身体にしみついた疲れを、とろとろと溶かしていくようだ。


「……気持ちいー……」


 寝そべったとしても、足が向こう側の壁につかない広い湯船に、たっぷりのお湯。なんと贅沢ぜいたくなのだろう。


「ふはー」

 身体の奥からゆるゆるとこぼれでる疲労に目を閉じ……。



「――ふぁっ!?」

 どぷんっ、と顔を湯に浸かりそうになり、あわてて目を開ける。


(えっ!? 寝ちゃってた!? どれくらい!?)

 それほど長い時間ではないと思いたい。が、いつまでも明珠が出てこないと、もし張宇を心配させていたら、申し訳なさすぎる。


 あわてて湯船から出、手拭いでざっと身体を拭きながら脱衣場へ移動する。

 大人数での利用は想定していないのか、湯殿の大きさに比べて、脱衣場はさほど広くない。


 明かりは背の高い燭台しょくだいが一本あるだけの薄暗い脱衣場に足を踏み入れた途端、明珠は異変を察知した。


 扉の向こうの廊下が、やけに騒がしい。


 何かあったのだろうかと、扉に駆け寄ろうとし、今の自分の格好に気づく。

 身に着けている物と言えば、季白から、絶対に何があろうと肌身離すなと厳命されている守り袋だけだ。風呂で濡らしたくないので、紐は首からかけたまま、守り袋自体は、団子にした髪の中に一緒に押し込んでいる。


 何が起こったのか知らないが、離れが騒がしいということは、龍翔の身の周りで何かあったに違いない。

 まだ湿り気の残る身体に、急いで肌着をまとい、細帯を締める。次いで、お仕着せの着物を羽織った瞬間。


 ばきっ! と異音が響く。


 驚いて音の発生源である扉を振り向いたのと、扉が廊下側から押し開けられたのが、同時だった。


 扉の隙間から、小柄な影が飛び込んでくる。全身黒装束に、目元以外を隠す黒い布の覆面。


 賊だ、と考えるより先に身体が動いていた。

 明珠を見とめ、一瞬、目を見開いた賊の前に飛び出す。


「《縛蟲ばくちゅう》!」

 小柄な賊の覆面の下から、少年らしい高いくぐもった声が響く。とっさに明珠はお団子の髪の中へ左手を突っ込んでいた。


「《還って》!」

 守り袋を握り、乱暴に引き出しながら、叫ぶ。

 明珠に巻きつこうとした縛蟲が、明珠にふれた途端、消えた。


「っ!?」

 賊が息を飲む。が、走る賊の動きは止まらない。


 真正面からぶつかり、二人してもんどりうって倒れる。


「うっ!」

 下敷きになった側の明珠は、背中を床にしたたかに打ち、思わずうめいた。賊がまだ小柄でよかった。大人だったら、つぶれていたかもしれない。


 逃げようとする賊と、逃がすまいとする明珠がもみ合う。立ち上がろうとした賊が明珠の胸元に手をつき――、


「きゃああっ!」

 甲高い悲鳴にか、手のひらにふれた柔らかな感触にか、賊がひるんだように動きを止める。


 その一瞬の隙を突いて、明珠は賊の顔を覆う黒布に手を伸ばした。無我夢中で、覆面を引き下ろす。


 布の下から現れたのは、予想以上に幼さを残した、少年の顔だった。絶対に、明珠より若い。

 入れ違うように怯んだ明珠の手を、少年が振り払う。逆の手を床につき、少年が身を起こそうとし。


「ぐぅっ!」

 突然、首が絞まって明珠は呻く。

 守り袋の紐が、少年が腰に佩いた短剣の柄に引っかかっていた。


「かはっ」

 気づかぬ少年が力任せに身を起こそうとし、つられて首が絞まる。うなじの薄い皮膚の上を紐がこすれ、ちりりと熱い痛みが走る。


 ぶつっ、と重みに耐えかねた紐が切れた途端、勢いよく後頭部を床に打ちつけた。


 それでも賊を追おうと、咳き込みながら、なんとか首をねじる。

 涙がにじむ明珠の目が捉えたのは、湯殿へと駆け込む賊の黒い後姿だった。


「《ば……っ》げほっ、ごほっ」

 《縛蟲》をぼうとしたが、急に入ってきた空気に咳きこんでしまい、言葉にならない。


 《縛蟲》を召喚するのなら、賊の姿を見た瞬間に、喚ぶべきだった。術師としての自覚が薄い明珠は、とっさに蟲を喚ぶことに慣れていない。


 咳き込みながら己の失態を悔んでいると、


「明順っ!」

 廊下から、龍翔の切羽詰まった叫びがした。


「無事か!? く……っ、火急の際だ、許せっ!」


 ためらいを振り切るような声がしたかと思うと、扉を押し開け、龍翔が長身を滑り込ませる。

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