20 賊の手がかりはなかなか得られません!? その3


「明順っ!」

 床に倒れて咳き込む明珠の姿を捉えた瞬間、龍翔の黒曜石の瞳が見開かれる。


 次の瞬間、明珠は床に膝をついた龍翔の力強い腕に、上半身を抱き起されていた。


「怪我はっ!?」

 尋ねるのももどかしいと言いたげに、龍翔が《癒蟲ゆちゅう》を喚ぶ。


「賊……、ゆど……」

 首と背中の痛みが薄れていくのを感じつつ、報告しようとすると、


「賊などどうでもよいっ!」

 と一喝された。

 苛烈な声に思わず身をすくませると、龍翔があわてた様子で言い足す。


「賊など張宇達に任せておけばよい! そんなことより、お前に怪我はっ!?」

「だ、だいじょうぶ、です。もう、どこも……」


 剣幕に気圧けおされつつかぶりを振ると、龍翔が詰めていた息を吐き出した。そこへ。


「龍翔様! 明順! 御無事ですか!?」

 扉の向こうから、張宇の焦った声が届く。


「ああ、こちらは無事だ。――っ!?」

 明珠にちらりと視線を落とした龍翔の顔が凍りつく。


「だが、決して入るな! それよりも賊を追えっ! 賊は湯殿から逃げた!」

 刃のように鋭く厳しい声で龍翔が命じる。短く応じた張宇の声に、走り去る足音が続いた。


 ふう、と安堵したように息を吐いた龍翔は、しかし、不自然なほど明後日の方向に視線を逸らしたままだ。


「……?」

 薄暗い脱衣場の中でもはっきりとわかる秀麗な横顔から、自分自身に視線を戻し――悲鳴が飛び出しそうになった瞬間、大きな手のひらに口をふさがれた。


「すまんが、外に誰がいるか知れん。叫ぶのは我慢してくれ」

 目を逸らしたまま、申し訳なさそうに告げる龍翔にこくこく頷きながら、あわてて両手で着物の前をかき合わせる。


 生乾きの身体に羽織ったせいで、肌着が身体に張りついていて、かき合わせにくい。乱暴に布をたぐった拍子に、紐が千切れていた守り袋がころんと手の中に転がり、明珠はすがるように握りしめた。


 乱雑に着ていたところに、激しくもみ合ったせいだろう。着物の襟もとは、胸の谷間が見えそうなほど乱れていた。

 恥ずかしさに、口を押える龍翔の熱い手よりも、さらに自分の顔が熱くなる。羞恥しゅうちのあまり、気が遠くなりそうだ。


「手を離しても、大丈夫か?」

 視線を外したままの龍翔の声に、こくりと頷く。


 明珠の呼気のせいだろう。しっとりと汗ばんだ大きな手が離れ、明珠はふう、と息を吐く。悲鳴を響き渡らせるような羽目にならなくて、本当に良かった。


「立てるか?」

「は、はい」


 頷いた明珠が床に手をつくより早く、身体に回された龍翔の腕に力がこもり、なかば抱き上げられるように、立たされる。暴れている間に乱れた靴を見つけ、明珠は急いで履いた。


「少し待て」

 相変わらず明珠を見ないまま背を向けた龍翔が、やにわに一番上に羽織っていた衣を脱ぐ。


「り、龍翔さ――わぷっ!」

 かと思うと、突然、頭の上から上衣をかぶせられ、明珠はあわてた。


「じっとしていろ」

 龍翔が上衣で明珠をすっぽりとくるんでしまう。


「えっ!? あの……!?」

 顔だけをわずかに出して、明珠をくるんだ龍翔が、「よし」と満足そうに頷いたかと思うと、


「わっ!? きゃあっ!?」

 突然、龍翔に横抱きにされ、明珠は素っ頓狂な声を上げた。


「暴れるな。せっかく巻きつけた衣が乱れる」

 厳しい声で命じられ、反射的に動きを止める。


「その姿をさらすわけにはいかん。部屋まで運ぶから、じっとしていろ」

「で、でも……」


 確かに、さっきの姿で外へ出れば、一目で女だとばれてしまう。というか、恥ずかしくて出られるわけがない。

 だがしかし。どこに主人に抱き上げられて運ばれる従者がいるというのか。


「下ります! 自分で歩けますから……っ」

「静かにしていろ」

 明珠の抗議を無視して、龍翔が歩を進める。


 扉を開け、外に出た途端、いつもと異なるざわめきが届き、明珠はあわてて口をつぐんだ。

 そっとこうべを巡らせ、様子をうかがう。


 廊下や庭園では、松明をかかげた官邸の警備兵達があわただしく動き回っていた。龍翔に気づいた一人が駆け寄ってくる。


「龍翔殿下! 失礼ですが、その方は?」

「わたしの従者だ。賊に遭遇して驚いた拍子に転んで足をひねったようでな。これから部屋へ戻って《癒蟲》で治す。通せ」


「さ、左様でございましたか。失礼いたしました」

 龍翔の声は厳しいものではなかったが、見えない鞭に打たれたように、兵士がひざまずく。

 その前を龍翔は足早に通り過ぎ、自室の扉を開けた。


「あのっ、いったい何が起こっているんですか!?」

 扉が閉まると同時に、龍翔に尋ねる。


「官邸に賊が侵入した。今、張宇達や警備兵が追っている。……それより、お前は先にちゃんと服を着ろ」


 すたすたと衝立ついたての間を通り抜けた龍翔が、明珠の寝台がある一画まで進むと、ようやく明珠を下ろす。


「ありがとうございます……。でも、賊って、まさか龍翔様を狙って……っ!?」

 だとしたら、のんびり着替えているどころではない。

 顔を強張らせた明珠の頭を、龍翔がなだめるように撫でる。


「落ち着け。そんな格好でどうするつもりだ?」

「えっ、あ……」


 悪戯いたずらっぽく黒曜石の瞳で見つめられ、急に恥ずかしさが増す。

 くるまれた衣の胸元をぎゅっと掴むと、衣にたきしめられた香の匂いがふわりと届いた。


「賊はすでに逃げている。何かあっても、わたしが守ってやるから、安心して着替えるといい」

「だ、だめですよ! それじゃ、あべこべです!」


 守られるべきは明珠ではなく、龍翔だ。

 反射的に言い返すと、龍翔が苦笑した。


「心意気は嬉しいが、そんな格好で大立ち回りはさせられん。その……わたしは衝立の向こうの部屋の隅にいるから、早く着替えろ」


「はい……」

 龍翔の言うことはもっともだ。龍翔が衝立の向こうへ姿を消すと、明珠は急いで着替え始めた。

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