20 賊の手かがりはなかなか得られません!? その4
龍翔がくるんでくれた衣を脱ぐと、香の匂いが漂う。緊急事態とはいえ、絹の衣を借りてしまった。
(季白さんに怒られないかな……)
いや、心配するのは、それよりもむしろ。
(賊と会っていながら、逃がしたことを怒られそう……)
烈火のごとく怒る季白を想像しただけで、肝が冷える。
乾いた服に手早く着替え、団子にしていた髪をほどいて、いつものようにうなじのところで一つに縛る。紐が切れた守り袋は、切れたところで結び直して輪にし、首から下げた。
「すみません! お待たせしました!」
衝立から出てきた明珠を振り返った龍翔が、いつも通りの姿を確認して、ほっと表情を緩める。
「本当に大丈夫か? どこか怪我は……?」
心配そうに眉を寄せ、明珠の前まで歩み寄った龍翔に、ふるふるとかぶりを振る。
「大丈夫です! 癒蟲で治していただきましたから、どこも……」
言いつつ、無意識に右手をやったのは、首の後ろだ。
紐がこすれた時は痛かったが、今は痛みも何もない。
「ん? 首がどうしたのか?」
龍翔の長い指先が伸びてくる。明珠はあわててうなじから手を離した。
「いえっ、さっきもみ合った時に、守り袋の紐が相手に引っかかっちゃって、首の後ろがこすれたんですけど……。もう全然、何ともないです!」
心配させまいと説明したのに、
「もみ合った?」
龍翔の眉根がきつく寄る。
「もしかして、賊を捕まえようと立ち向かったのか!?」
「え、ええと……」
厳しい眼差しに、思わず視線を伏せる。
「すみません、逃げられて……」
「馬鹿者っ!」
「ひゃっ!」
刃を叩きつけるような声に、全身がすくむ。
「正体もわからぬ賊に一人で立ち向かうなど、何を考えているっ!?」
「す、すみま……」
絞り出した声は、我ながら情けないほど震えていた。
「わたしはっ!」
不意に強く身体を引かれる。気づいた時には、龍翔に思いきり抱きしめられていた。
「お前が倒れているのを見た時、胸が潰れるかと思ったぞ!」
龍翔の言葉に、賊を逃がしたことではなく。捕らえようと立ち向かったことを叱られているのだと、ようやく気づく。
「す、すみません! 何とかして捕まえないとって、無我夢中で……」
「だからといって、素手で賊に立ち向かう奴があるか!」
身体に回された腕の力に、申し訳ない気持ちになる。
賊は、短刀を佩いていた。もし抜かれていたら……と考えると、今さらながら、ぞっ、と背筋が凍る。
「申し訳、ありませんでした……」
震え声で謝ると、
「頼むから、無茶はしてくれるな」
と、苦しげな声が降ってきた。
怒りよりも苦みの方が強い声に顔を上げると、黒曜石の瞳にぶつかる。
「お前の身に何かあったらと思うと気が気でない。現に、先ほど倒れているお前を見た途端、賊のことなど、頭から抜けてしまった」
背中に回されていた右手が、そっと頬に添えられる。
優しく、熱い指先。明珠を見つめる瞳が、熱を
不意に喉の渇きを覚え、明珠は身じろぎしようとした。しかし、龍翔の力強い腕が逃してくれない。
「明――」
「夜分、失礼いたします! 副総督の貞でございますが、龍翔殿下はこちらにいらっしゃいますか?」
不意に、扉の向こうから発せられた声に、龍翔の動きが止まる。
「わたしはここにいる。何用だ?」
一つ吐息した龍翔が、顔を扉へ向ける。
冴え冴えとした声は、ずっかりいつもの龍翔だ。黒曜石の瞳に宿っていた夢見るような熱っぽさは、すっかり影を潜めている。
「お部屋においででございましたか。この騒ぎですでにご存知かと思いますが、先ほど官邸に賊が入り込みました。殿下の御無事を確認させていただこうと参った次第でございます。よろしければ、お姿を拝謁させていただけませんでしょうか?」
言葉遣いこそ丁寧だが、扉の向こうから語りかける貞の声は、ややうわずっている。
官邸に滞在している龍翔の身に万が一のことがあっては一大事と、取るものもとりあえず駆けつけてきたのだろう。
「わかった。少し待て」
扉の向こうへ告げた龍翔が、困り顔で腕の中の明珠を見下ろす。
「すまんが、少し《気》が欲しい。もし、術を使うこととなると、少し心もとない」
術を使うと、《気》を消費するため、青年姿を保てる時間が短くなってしまう。
外へ聞かれぬよう、抑えた声で囁かれた内容に、明珠はあわてて守り袋を握ろうとした。
龍翔が腕を緩めてくれたので、服の上から守り袋を握りしめ、目を閉じる。
優しく唇がふれたかと思うと、すぐに離れる。
目を開けた明珠が見たのは、さっと身を翻し、扉へと歩み寄る龍翔の後姿だった。
「顔を上げよ。この通り、わたしは無事だ」
扉を開け、前で膝をついて礼をとっていた貞に、龍翔が告げる。
「それよりも、賊の追跡はどうなっている? 官邸の被害などは?」
きびきびと問う龍翔に、貞もすらすらと答える。
「現在、警備兵を追跡にやっておりますが、現在のところ、捕らえたという報告は入っておりません。賊は、少なくとも二人以上でございます。二手に分かれて、一人がこちらへと逃げてまいりましたので、龍翔殿下の御無事を確認しに参りました」
貞が軽く一礼して続ける。
「範総督は御無事でございます。どうやら、賊の狙いは総督の身ではなく、物盗りのようでして……。総督の私室や執務室が、ひどく荒らされておりました」
「官邸の部屋がか?
龍翔の言葉に、貞はきっぱりと頷く。
「少なくとも、今回は倉は壊されておりません。念のため、追跡に遣わしている警備兵達が戻りましたら、倉の内部の点検もいたしますが……。しかし、鍵が盗まれたということもなく、こじ開けようとした形跡もございませんでしたので、陽動でもない限り、今回の賊の狙いは、倉にはなかったと見る方が正しいかと」
「陽動、か」
龍翔の呟きの低さに、床にひざまずいて背後に控えていた明珠は、思わず背の高い後ろ姿を見つめる。
明珠からでは龍翔の表情は見えない。だが、貞の顔が緊張に強張ったのは見て取れた。
「もし、わたしの前に立つ蛮勇があるというのなら、たとえ賊といえど、もてなしてやらぬでもないが。さて……」
決して夜気のせいではなく、部屋の温度が下がる。
冷たく思い空気を打ち払ったのは、聞き慣れた季白の声だった。
「龍翔様! 御自ら賊のお相手をなさるなど、おやめください! 何のためにわたくしと張宇がいるのですか!」
扉から姿を現したのは、季白と張宇だ。
「早い戻りだな。賊はどうなった?」
「現在、安理が追っております。ですが、捕らえるのは難しいやもしれません。何の前触れもない出現だったため、後手に回ってしまいました」
季白が悔しげに
季白に続いて張宇が口を開く。
「追いはしたのですが、賊を見失ってしまい……。龍翔様のおそばを長く離れるわけにはいかぬゆえ、ご報告も兼ねて、ひとまず戻ってまいりました」
「あの……」
報告と言えば、賊の顔を見たことを、誰にも言えていない。
おずおずと口を開いた瞬間、季白に鋭く睨まれた。「余計な口をきくな」と言わんばかりの視線の圧に、仕方なく口をつぐむ。
「貞殿。官邸の警備はいったいどうなっているのです? 二度も賊の侵入を許すなど」
「まことに面目もございません」
季白の厳しい声音に、貞は恐縮するほかないとばかりに顔を伏せる。
「明日、状況の詳細な報告をお願いします。貞殿も、せねばならぬことが山積みでございましょう。わたくし達が戻ったからには、たとえ賊が舞い戻っても、龍翔様には指一本ふれさせません。お戻りいただいて結構ですよ」
「心遣いいたみいります。龍翔殿下も、両の翼と名高いお二人が戻ってこられれば、百人力でございましょう。龍翔殿下の御無事を確認できましたゆえ、わたくしはこれにて失礼いたします」
丁寧に一礼した貞が、足早に去っていく。季白の言う通り、仕事が山積みなのだろう。
「龍翔様。何もお変わりはございませんでしたか? おそばをお留守にして、申し訳ございませんでした」
貞の背を見送り、龍翔に向き直った張宇が、申し訳なさそうに頭を下げる。龍翔は
「賊を追えと命じたのはわたしだ。気にするな。それに、明順さえいれば、賊など物の数ではない」
ちらりと明珠を振り返って微笑んだ龍翔が、季白と張宇に視線を戻す。
「それで、賊はどうなった? お前達がいて取り逃がすとは、よほど運に恵まれた賊だな」
深々と張宇が頭を下げる。
「いえ、こちらに情報が来たのが遅かったせいもあるのですが。力及ばず、まことに申し訳ございません」
「明順がいると知っていたわけではなかろうが……。まさか、湯殿に逃げ込むとは、予想外だったからな。追跡しそこなったとしても仕方がない。わたし自身、明順が倒れているのを見た瞬間、賊のことなど頭から飛んでしまった」
「明順が賊と⁉ 大丈夫だったのか?」
張宇が心配そうに眉を寄せて尋ねる。明珠はあわてて答えた。
「はい。脱衣場で鉢合わせしてしまって……。捕まえようとしたんですけれど、逃げられてしまいました……」
「一人で立ち向かおうとするなど、なんて無茶を!」
答えた瞬間、いつもは穏やかな張宇が、目を怒らせて叱る。
「す、すみません……」
肩を落として謝ると龍翔が取りなしてくれる。
「もうすでにわたしが叱った後だ。そのくらいにしてやってくれ」
「あのっ、それでですね。私、賊の顔を見ることができたんですけど……!」
ようやく報告できる、と勢い込んで告げると、三人が目をむいた。
「賊の顔を見たのですか⁉ 本当に?」
「はい。もみ合った時に覆面を掴んで……。私よりも年下の男の子でした」
「確かに、遠目に見た賊のうち、一人の後姿は、かなり小柄だった。ひょっとして女性の可能性もあるかと思っていたが、少年だったとは」
明珠は風呂に入っていたので知らなかったが、張宇の説明によると、官邸の総督達の住まいがある棟で騒ぎが持ち上がり、張宇や季白が駆けつけたのと入れ違いで、賊の一人が龍翔達の部屋がある離れへと逃げてきたらしい。
「すまなかった。俺が持ち場を離れたせいで、その……」
張宇に申し訳なさそうに頭を下げられ、明珠はあわててかぶりを振る。
「謝らないでください! 賊を捕まえようとするのは、当然のことですし、その……出くわしたのは、服を着た後なので!」
もし湯船の中で出くわしていたら、捕まえるどころではなかった。
季白が間に割って入る。
「明順。先ほど、貞殿がいた際に言おうとしたことは、賊の顔を見たということですか?」
「はい。賊を捕まえる手がかりになれば、と……」
頷くと、季白に厳しい視線を向けられた。
「賊の顔を見たという件は、他言してはなりません」
「ええっ!?」
驚く明珠に、季白は淡々と説明する。
「龍翔様が乾晶で功績を挙げるには、総督達に先んじて、我々が賊を捕らえるのが、一番手っ取り早い手段です。賊の顔を知っているという有利さを、みすみす逃す手はありません。それに、これはあなたを守るためでもあるのですよ」
「私を……?」
「あなたが賊の顔を知っており、面通しの証人になれると賊が知れば、あなたが狙われる可能性もあります。正体を隠し通すためにも、あなたが注目を浴びるような事態は避けねばなりません」
自分が狙われるという事態までは考えが及ばなかった。
黙り込んだ明珠に、珍しく季白が笑みを向ける。
「ですが、賊の顔を見るとは、よくやりました。早速、似顔絵を作って、安理の捜査に役立てましょう」
と、季白の声が聞こえていたわけでもないだろうが、扉を開けて安理が姿を現す。
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