19 かわいいかわいい子猫ちゃん? その2


 ちらりと龍翔が抱く子猫に視線を向けた少女が、うっとりとした眼差しで龍翔の秀麗な面輪おもわを見上げる。


「広い官邸の中で迷子になってしまって、どうしようかと思いましたけれど、殿下に見つけていただけるなんて、明珠はなんと運がいいのでしょう」

 感嘆の声音で言い、少女はにこやかに龍翔に微笑みかえる。


「名前のおかげかもしれんぞ」

 龍翔が顔の前へ子猫を抱き上げる。


「明珠とは、良い名だ」


 龍翔に軽くくちづけられた子猫の明珠が、その通りだと言わんばかりに、「みゃあん!」と鳴く。


「この子猫は宝春ほうしゅん嬢の?」


 龍翔の問いに、明珠はようやく少女の名を知る。うすうすそうではないかと思っていたが、やはり、総督の一人娘らしい。

 年の頃は、明珠とさほど変わらないだろう。いかにも良家の令嬢といった風情の、可愛らしい少女だ。


「そうですわ。先日、献上されたものですの。猫の献上品なんて、珍しいですけれど、あまりに見事な白い毛並みで、可愛らしいものですから」


「みゃあ」

 と宝春の言葉に応えるように子猫が鳴く。


「殿下は、猫がお好きですの?」

「ああ、嫌いではない」


 龍翔の大きな手に抱かれ、長い指で顎の下をくすぐられた子猫が、目を細めて、幸せそうに喉を鳴らす。


「まあ、明珠はすっかり殿下の魅力のとりこになってしまったようですわ」

 うっとりと龍翔を見上げて告げる宝春に、龍翔が柔らかな笑みをこぼす。


「お前は可愛い奴だな、明珠」

「なあん」と猫の明珠が甘えるように龍翔の手に頭をすりよせる。


 一方、人間の明珠は、反応しそうになるのを必死でこらえていた。


 猫と同じ名前なのは別によいのだが、龍翔が名前を呼びながら「可愛い」と褒めるのが、どうにも心臓に悪すぎる。

 一昨日、龍翔に「可愛い」とからかわれて、腰くだけになったのを思い出してしまい、いたたまれない。


「よろしければ、わたくしの部屋へ、お茶などお飲みにいらしてくださいませ。これほどなついているのですもの。殿下が来てくだされば明珠も喜びますわ」


「範総督の許可も得ずに、娘御むすめごの部屋を訪ねるわけにもいくまい」

 龍翔が生真面目に返すと、宝春は花のように微笑んだ。


「さすが、殿下はお人柄も優れていらっしゃるのですね。では、父にはわたくしから申し上げておきますわ」


「それより、明珠の爪を切っておいてやった方がいい。先ほど、わたしの従者の着物に、爪が引っかかってしまってな」

 急に龍翔が明珠を振り向き、宝春の視線に、明珠はあわてて頭を深く下げた。


「まあ、殿下の従者に失礼を。龍翔殿下の御手は、引っかかれたりなどしておりませんか?」


 一瞥いちべつしただけで、興味もなさそうに明珠から龍翔へ視線を移した宝春が、心配そうに細い眉を寄せる。

 猫を抱く手にふれようと指を伸ばした宝春に、龍翔はすっ、と子猫を差し出した。


「わたしは大丈夫だ。では、そろそろ明珠を返そう」

「にゃあん」


 今にも宝春の手に跳びかかっていきそうな元気な子猫に、引っかかれてはたまらないと思ったのだろう。宝春が視線で指示すると、後ろに控えていた侍女の一人が前に出て、両手で持っていた籠を差し出した。


 龍翔の手で籠の中に下ろされた子猫は、籠の中に入っていた大きな玉で遊び始める。


 籠は内側が青い絹で内張りされていて、貧乏人の明珠には種類はわからないが、大人の拳ほどもありそうな大きな玉は、おそらく貴石でできている。

 首に巻かれた絹の紐といい、玉を遊び道具にしているといい、総督官邸で飼われる猫はここまで違うのかと、卒倒しそうになる。


「この玉は?」

 龍翔も興味を引かれたのか、宝春に尋ねる。


「わたくしも存じ上げませんけれど、この子と一緒に献上されましたの。丸まって寝ていると、まるで瓜二つでしょうって」


 玉は乳白色をしていて、宝春の言う通り、真っ白な子猫が横で丸まって寝れば、まるで二つの玉があるように見えるかもしれない。玉の価値も知らぬ子猫は、無邪気にじゃれついている。


「龍翔殿下。あの……」

「宝春嬢。申し訳ないが、わたしはこれで」

 話しかけようとする宝春の機先を制するように、龍翔がきっぱりと告げる。


「ではな、明珠」

「にゃあん」


 最後に子猫の頭を一撫ですると、龍翔は宝春の返事も待たずに背を向ける。明珠も宝春に丁寧に一礼すると、急いで龍翔の後を追った。


 ◇ ◇ ◇


 部屋に戻り、ぱたりと扉を閉めると、すぐに季白の声が飛んでくる。

「ずいぶん長く、外においででしたね」


 龍翔がちらりと扉に視線を向けてから、ゆっくりと頷く。

「ああ。総督の娘につかまっていた。誰の入れ知恵かは知らんが、子猫を使ってな」


 龍翔の言葉に引っかかるものを感じ、思わず尋ねる。

「え? あの猫ちゃん、迷子になったんじゃ……?」


「いいや。わざわざこの部屋の近くまで来て放したのだろう。ずっと廊下の曲がり角のところに、気配があった。わたしが出てくるのを見計らっていたのだろう」


「ええっ!?」

 そんな気配など、全く気づかなかった。


「よほどわたしとよしみを結びたかったのか……。無駄というのに、ご苦労なことだ」

 はんっ、と鼻を鳴らした龍翔に、張宇が心配そうに眉を寄せる。


「そのわりに、長く外にいらっしゃいましたね? 何かあったのですか?」

「いや、少し立ち話に興じていただけだ」

 明珠を振り返った龍翔が、悪戯っぽい視線を投げる。


「子猫の名前が「明珠」だったものでな。可愛らしくて、ついついかまってしまった」


「ぶっ!」

 張宇が吹き出す。対して顔をしかめたのは季白だ。


「まさか、明順の正体がばれたわけではないでしょうね?」

 切れ長の目でじろりと睨まれ、反射的に背筋が伸びる。


「単なる偶然だろう。もし、明順の正体を掴んでいるのなら、もっとあからさまにそうと示して、何らかの接触をはかってくるはずだ」

 龍翔がきっぱりとかぶりを振る。


「まあ、おっしゃる通りでしょうが……。ですが明順、くれぐれも気をつけるのですよ!」


「は、はいっ!」

 季白の言葉に、明珠はこくこくと頷いた。

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