33 花ならば、まだ愛でられる その2
いったい、龍翔はどうしたのだろう。
何と声をかければいいかわからず、困り果てていると。
「……張宇と安理の」
「はい?」
「あの二人の心配をしているどころでは、なかっただろう?」
呟いた龍翔が、伏せていた面輪を上げる。
そこに浮かんでいるのは、いつもの悪戯っぽい笑み。
見た途端、明珠は理解した。
「り、龍翔様っ! 確かに、胸が
龍翔の思考は、いったいどうなっているのか。
「でもっ、別の理由で私の心臓が壊れます――っ!」
心の底から叫ぶと、ふはっ、と珍しく龍翔が吹き出した。
「そうか。刺激が強すぎたか」
「そうですよ! 龍翔様の悪戯は心臓に悪すぎますっ! 私の心臓を何だと……っ」
「だが」
思いがけず強い眼差しが、明珠の瞳をのぞきこむ。
「お前の心を、わたしだけで占められただろう?」
「そんなの、いつものことじゃないですか!」
どこか
「いつだって、龍翔様のことを第一に考えております!」
「く……っ、はははっ」
頬にふれていた手が背中に回され、強く抱き締められる。
今日の龍翔は、身分を隠すために、香を
着物越しでもわかるたくましい胸板が頬にふれる。
身体に回された腕は力強く、けれども、まるで壊れ物をあつかうように優しい。
「まったく……。お前はいつも、わたしの想像の
楽しそうな龍翔の声に、問い返している余裕などない。
「あのっ、もうよろしいでしょう!? 張宇さんと安理さんは心配ですけどっ、胸が潰れたりはしないので、もう……っ! っていうか、別の理由で心臓が壊れますからっ!」
ぐいぐいと力をこめて龍翔を押しても、龍翔は楽しげに笑うばかりで、腕はまったく緩まない。
「そんなに惑わせてくれるな。今日は、お前の
龍翔の声が、苦みを帯びる。
「――季白の甘言に乗って、道を踏み外したくなる」
冷徹鬼上司である季白の名前に、反射的に背筋が伸びる。
だが、それよりも。
「龍翔様が道を外されるなんて……っ。そんなこと、なさるはずがありません!」
思いがけなく、力強い声が出る。
「政治の世界が綺麗ごとだけで済むはずがないって知ってますけれど……っ。でも、龍翔様は自ら望んで道を外すような方ではないでしょう⁉」
龍翔に仕えてから、まだ二カ月も経っていない。けれど。
「それくらい、新参者の私にだって、わかります!」
何だか泣きたいような気持になってうつむくと、優しく頭を撫でられた。
「……すまぬ。
困り果てた表情で、龍翔が明珠の顔をのぞきこむ。
「だから、頼むからそのような顔をしないでくれ……。少し、
そっと明珠を膝から下ろした龍翔が、自らも立ち上がる。
「心配なのだろう? 下で、季白と一緒に張宇達の帰りを待とう」
「は、はい……」
手を引かれて、部屋を出る。
宿の造りは、一階が受付や食堂で、二階に客室が並んでいるようだ。高級宿らしく、ゆったりと空間を取った、一階を見下ろせる階段ぎわまで来たところで。
「……お前達。戻ってきたのなら報告に来い」
階段下で額をつき合わせ、何やら話し込んでいる三人に、龍翔が呆れ声をかける。
「安理さん! 張宇さんも! 御無事だったんですねっ!」
階段を駆け下り、三人の元へ行くと、張宇が穏やかな笑顔で頷いた。
「ああ。明珠達もちゃんと宿に戻れたようで、ほっとしたよ」
明珠に続き、龍翔も階段を下りてくる。
優雅な所作のせいか、隠しても隠しきれぬ気品のせいか、一階にいる者達の視線が、自然と龍翔に集まる。まるで、舞台の上の俳優のようだ。
安理が龍翔を見上げて、にへら、と笑う。
「えーっ、オレ達、気を遣ったんスよ~。オレなんてもう、部屋の前まで行って聞き耳を立てたいのを必死で我慢して……っ! なのに~」
ぶう、と安理が唇を尖らせる。
「ちょーっと部屋から出てくるのが早過ぎじゃないっスか? 明珠チャンだって、まだ結い髪だし」
「くだらん戯言など聞いている暇などない。宿を引き払うぞ」
ひやり、と龍翔から冷気が立ち昇る。にぎやかなはずの宿の一階が、しん、と静まったような気がした。
「安理。人目を集めるような真似はやめなさい」
素早く動いた季白が、階段をのぼりながら安理を叱責する。
「えっ!? オレのせい!? 部屋に上がるなって止めたのは季白サンでしょ!?」
季白に続きながら、安理が言い返す。そばにきた季白に、龍翔が低い声で指示を出す。
「宿を突きとめられて、踏み込まれては厄介だ。すぐに引き払って官邸へ戻る。張宇と安理は面が割れている。季白、御者はお前が務めよ」
「かしこまりました」
頷いた季白が素早く動き出す。
「ええと、出るなら私も着替えてきた方がいいですよね?」
龍翔に小声で問うと、「ああ」と溜息混じりの頷きが返ってきた。
「そうだな。一度、部屋へ戻ろう」
龍翔がわざわざ明珠のところまで階段を下りてきて、手を差し出す。
無下にするのも申し訳なくて、手を重ねる。と、大きな溜息が降ってきた。
見上げると、悪戯っぽく微笑んだ龍翔が、重ねた手を持ち上げ、明珠の手の甲に、そっとくちづける。
「せっかく愛らしいのに……。残念極まりないな」
「っ!?」
思わず階段を踏み外しそうになったところを、素早く腕を回した龍翔に支えられた。
抱きとめられるような形になって、ますます頬が熱くなる。
「ひ、人前で、なんてことなさるんですかっ!?」
宿の一階には何人もの旅人や宿の従業員がいるというのに。
「ん? 人前でなければいいのか?」
「そういう問題ではございませんっ! 私なんかをからかっている場合ではございませんでしょう!?」
「からかう?」
手すりを持って、あわてて龍翔から身を離すと、意外そうな声が返ってきた。
「なるほど……。そう思われている、と」
「え、英翔様……?」
なんとなく、声の響きに不穏なものを感じ、足を止めて龍翔を振り返る。
龍翔の方が一段だけ下に立っている分、秀麗な面輪が、いつもより近い。
「由々しき問題だな」
龍翔が深々と嘆息する。
「時間があれば、じっくりと誤解をといて――」
「あのっ、急ぐんですよねっ!? お部屋に戻りますよ、早くっ!」
この場に留まっていては、すこぶる危険な気がする……っ!
ぞわぞわと背筋を
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