33 花ならば、まだ愛でられる その1


 間もなく宿につこうという大通りで、明珠と龍翔はちょうど帰ってきた季白きはくに出くわした。


 張宇がいない上、青年姿に戻っている龍翔を見た途端、季白が血相を変えて駆け寄ってくる。


「何があったのでございますか!?」


 三人で宿へと戻る道すがら、龍翔が簡潔に陽達ようたつとの経緯を説明する。

 龍翔が話し終えた瞬間、ぎろりと季白に睨みつけられて、明珠はすくみ上がった。


「本当にあなたと関わりがないんでしょうね!?」


「ほ、ほんとです! 少なくとも私は、一切、見覚えがありませんっ!」

 ぷるぷると必死て首を横に振る。


「つまり、あちらが一方的に知っていると? しかし、故郷ならともかく、一度も来たことのない、辺境の街で……?」


「季白。そう明珠をにらみつけるな。怯えているだろう?」 

 真ん中を歩く龍翔が、さりげなく季白の視線をさえぎってくれる。


「……まあ、くわしい話は、張宇と安理が戻ってくれば、わかるでしょう」


 季白が溜息をついたところで、宿につく。

 龍翔が板蟲を還し、代わりに季白が荷物を持って、三人で部屋へ上がる。


「わたくしは階下で張宇達が帰ってくるのを待っておりますから。英翔様達は、このままお部屋でお待ちください」


 荷物を床に下ろした季白が、龍翔と明珠を振り向く。


 部屋に入ってもまだ、つないだままの手をとがめられている気がして、明珠は手を引き抜こうとしたが、かなわない。

 季白が小さく吐息して、明珠を見据える。


「宿が襲撃される可能性は低いでしょうが、油断は禁物です。狙いが英翔様なのか明珠なのかも判然としませんから、あなたは英翔様から決して離れぬように! いいですね!?」


「は、はい!」


 「英翔様といつまで手をつないでいるつもりですか!? 不敬です!」とでも叱られるかと予想していた明珠は、真逆のことを言われ、動揺する。


 が、季白の言う通り、明珠が一人で賊に対応できるわけがないので、龍翔のそばにいるのが、一番、安全なのだろう。

 従者としては、情けないことこの上ないが。


 季白が出て行き、明珠は青年姿の龍翔を見上げた。


「安理さんと張宇さんは、大丈夫でしょうか……?」


 龍翔に言っても詮無せんないと知りつつ、不安を自分一人の胸に抱えきれずに呟く。

 と、安心させるように、龍翔に頭をでられた。


「心配は要らぬ。二人とも、わたしが信頼する者だ。そうそうおくれは取らぬ」


 自信に満ちた声に、少しだけ心が軽くなる。

 と、龍翔が首を傾げて明珠に視線を落とす。


「そういえば、もう片方の手にずっと何を持っている? 先ほど、落とし物だと言っていたが……?」


「あ……」

 左手を持ち上げる。


 手の中におさめていた牡丹の花は、元々踏まれていた上に、移動中に握りしめてしまったせいで、見るも無残な様子になっている。

 くたびれた数枚の花びらが残っている程度だ。


「すみません……。せっかく、龍翔様がくださったのに、落としてしまったせいで……」


 あれほど綺麗に咲き誇っていたというのに。

 申し訳なさにうつむくと、龍翔の長い指先が手の上の牡丹を持ち上げた。


「捨て置いてもよかったものを。わざわざ拾ってくれたのか?」


 苦笑交じりの声に、呆れられただろうかと頬が熱くなる。


 龍翔にとっては、単なる気まぐれでした花にすぎないだろう。

 だが、明珠にとっては……。


「だ、だって……。龍翔様がせっかくくださった花ですから……。絹紐もですけれども、花だっていただいたことなんてなくて、すごく嬉しくて……」


 何より、敬愛する龍翔が明珠のためにと挿してくれたことが、何より嬉しい。

 うつむいたまま呟くと、龍翔が持っていた牡丹を、そっと卓に置いた。かと思うと。


「ひゃあっ!?」


 突然、龍翔が明珠を横抱きに抱え上げる。

 龍翔は明珠を抱え上げたまま、部屋の隅にある長椅子へ近づく。


「花など、お前の喜ぶ顔が見られるなら、両手でも抱えきれぬほど贈ってやる」


 長椅子に腰かけながら、龍翔が上機嫌で告げる。龍翔の膝の上に座る格好になり、明珠は大いに慌てた。


「お、下ろしてくださいっ! それに、そんなにたくさんのお花なんて、結構です! 花屋でも開く気ですか!? でるなら、一輪あれば十分です!」


 明珠の言葉に、龍翔が破顔する。


「確かに。お前の言う通りだ」

 深く頷いた龍翔の黒曜石の瞳が、明珠を真っ直ぐに射抜く。


「花は、一輪だけでよい」


「そ、そうですよね! あの、下ろし……」

「牡丹の花は残念だったが……。花ならば、まだ愛でられる」


「え? あの……」


 明珠は思わず室内を見回した。部屋のどこにも花瓶は飾られていない。

 龍翔に視線を戻すと、悪戯っぽい笑みにぶつかった。


「花ならば、わたしの腕の中にいる。花の化身のように愛らしいお前が」


「っ!? り、龍翔様、ご冗談がすぎ――」

「からかってなどいないぞ?」


 頬が熱い。そっぽを向くより早く、頬に龍翔の手が伸びてきた。

 大きな手のひらが頬を包み、龍翔から視線を逸らせなくなる。


「どんな姿のお前も愛らしいが……。娘らしく着飾ったお前を見るのは、格別に、心が弾む」


 とろけるような笑顔で、楽しげに龍翔が言う。


 恥ずかしくて、どうにかなりそうだ。

 龍翔の顔を見ていられなくて、ぎゅっ、と固く目を閉じると、龍翔が喉を鳴らして笑う声が聞こえた。


「よいのか? そんな無防備に目を閉じて」

「え……?」


 聞き返した途端、柔らかなものが額にふれる。


「ひゃっ!? なに――っ⁉」


 驚いて目を開けた瞬間、間近に龍翔の秀麗な面輪があって、息を飲む。

 とっさに背をのけぞらせて逃げようとしたが、逆に、背に回された腕に引き寄せられる。


「あ、あの、龍翔様っ。おたわむれは……っ」


「先ほど」

 あわあわとこぼした声を、龍翔の一言が封じる。


「先ほどは、唇を固く噛んでいただろう?」


 問われて、宿に戻る前のくちづけのことだと思い出す。

 同時に、あの時の恥ずかしさを思い出して、身体が沸騰ふっとうしそうになる。


「おかげで、《気》が足りぬ」


 問い返す間もなく、龍翔が身を寄せてくる。

 守り袋を握るいとまもあらばこそ。


「ん……っ」


 唇が、龍翔のそれにふさがれる。

 息を飲んだ拍子に、鼻にかかった声が洩れた。

 頬にふれる龍翔の手に、わずかに力がこもる。


 背中に回された腕が、明珠をさらに引き寄せ――、不意に、緩くなる。


 どこか名残惜しげに、ゆっくりと龍翔の唇が離れ。

 かと思うと、優しく抱き寄せた明珠の肩に、ぽすんとうつむいた龍翔の額がふれた。


「お前は、まさしく花だな。甘く、かぐわしく……。加減を誤って、手折たおってしまいそうになる」


 どこか、熱をはらんだ声。


 だが、うつむいた表情は、明珠からは見えない。

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