32 これは何の修羅場ですか!? その2
「張宇」
歩こうとしない明珠に業を煮やしたのか、龍翔が短く命じる。
「ちょっと失礼するよ」
言葉と同時に、明珠は突然、張宇にひょいと横抱きにされた。
「ひゃあっ!? 張宇さん!? 安理さんの加勢じゃ……!?」
「ああ、それで俺にも《視蟲》なのか」
背中に荷物、両腕に明珠を横抱きにした張宇が、足早に歩く龍翔に遅れずついて歩きながら納得した声を出す。
「安理なら一人でも大丈夫だよ。それに、俺の役目は、英翔様と明珠を、無事に宿へ送り届けることだ。護衛として、英翔様のおそばを離れるわけにはいかない」
生真面目な顔できっぱりと言い切った張宇は、明珠がどう説得しようと、意思を変える気はなさそうだ。
と、張宇に横抱きにされた明珠を不機嫌に見た龍翔が口を開く。
「宿まではもう少しだ。早く宿へ戻れば、その分、張宇がとって返す時間ができるぞ」
「下ります! 下ろしてくださいっ! 自分の足で走ります!」
暴れるようにして、張宇の腕から飛び降りる。
走りやすいように、衣の裾をからげると、途端に龍翔の叱責が飛んできた。
「明珠! いくら人目がないとはいえ、年頃の娘が……っ!」
「で、でも、安理さんが……っ」
陽達はおそらく、かなりの術師だ。先ほど見た《縛蟲》の動きだけで推測できる。
いつぞやの季白のように、《蟲》を封じた巻物を持っているのならともなく……。本当に、安理は無事に帰ってこれるのだろうか。
不安で、涙で視界がにじむ。
ふん、と鼻を鳴らした龍翔が、不意に明珠の腕を引いた。走ろうとしたところを掴まれ、危うく転びそうになる。
「張宇。安理の元へ行ってやれ」
龍翔の言葉に、張宇が顔をしかめる。
「しかし……っ!」
「たとえ、陽達が何かの罠だとしても、わたしが元の姿へ戻れば、手を出せる者は、そうそういおるまい?」
「それは、そうなのですが……っ」
惑う張宇を、挑戦的に見上げ、龍翔が問う。
「このまま、明珠を泣かせるか?」
張宇が痛いところを突かれたとばかりに息を飲む。
ややあって。
「……かしこまりました」
低い声で答えた張宇が、固く目を閉じてそっぽを向く。
「張宇は、承知したぞ?」
どこか楽しげに、龍翔が告げる。
「え……?」
唐突な話の展開に、思考がついていけない。
龍翔が元の姿に戻るということは。それはつまり。
「ここ、外ですよっ!?」
「人目はない。張宇だってほら、目を閉じている」
「でっ、でも……っ!」
明珠の右腕を掴んだまま、龍翔が距離を詰めてくる。
「安理に加勢を、と願ったのは、お前だろう?」
明珠の覚悟を試すかのように、黒曜石の瞳がきらめく。
龍翔の言う通りだ。安理を助けるためなら、恥ずかしがってなどいられない。
ぎゅっ、と固く目をつむり、空いている方の左手で、服の上から守り袋を握る。
「……これほどお前に心配されるとは、安理の奴も果報者だ」
低く呟いた龍翔が、腕を握っていない方の手を、明珠の肩に置く。
気配で、龍翔が背伸びをしたのがわかった。押された肩が壁をこする。
覚悟していたものの、唇がふれた瞬間、身体が震えた。
肩にふれていた手が大きくなり、右腕を掴んでいた手が離れ、明珠の背中に回される。
壁から離れ、ふらついた身体を、青年姿に戻った龍翔の力強い腕に支えられた。
「これで、心配無用だろう?」
龍翔の深く響く声が、張宇を促す。
生真面目な張宇は決してこちらを見ないだろうと知っていても、恥ずかしくて、とてもではないが、顔を上げられない。
「かしこまりました。では、すぐに安理の元へ」
「頼む。ああ、荷物は置いてゆけ。邪魔にしかならぬだろう?」
「ありがとうございます」
張宇が背中の大荷物を置き、駆けていく足音が聞こえる。
それが聞こえなくなってから、明珠はようやくまぶたを開けた。
「あの……」
龍翔の腕の中で、居心地悪く身じろぎする。
人目がないとはいえ、路上で異性の腕の中にいるなんて、恥ずかしさで気を失いそうだ。
「張宇なら大丈夫だ。固く目を閉じていたからな。何も見ていない」
龍翔が腕を解いて、一歩離れる。
それでようやく、明珠は、もし張宇が目を開けてしまっても、視線が通らないよう龍翔が壁になっていてくれたのだと気づいた。が、礼を言うどころではない。
「さあ、張宇を心配させぬためにも、宿へ急ごう」
明珠は心臓が口から飛び出しそうだというのに、龍翔は落ち着き払ったものだ。
明珠の願いにこたえて、本来の任務を放って安理の加勢に行ってくれた張宇のためにも、無事に宿へ辿りつかねばと、明珠は恥ずかしさを我慢して、龍翔の手を握り返した。
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