30 楽しい楽しいお買い物? その1
「よし、じゃあまず、美味しいと噂の
宿を出た張宇が、珍しく弾んだ声を上げる。
にこにこと
「なんだ、その分厚い冊子は?」
「乾晶でおいしいと言われている甘味店の一覧です。自分で集めたものもありますし、安理が、出かけるならとくれた紙もありまして……」
「その全部を回っていたら、腹が破裂するぞ」
龍翔が呆れ顔で眉をひそめる。
「わかっております。とりあえず、おすすめの店から回っていきましょう!」
甘味が大好きな張宇は、今まで見たことがないほど、気合が入っている。
こんなにうきうきした張宇を見るのは初めてかもしれない。
「えーっと、その……。今日は、張宇さんと甘味巡りをするんですか?」
先に立って歩く張宇を、龍翔と手をつないで追いながら尋ねる。
確かに、街を歩いて回れば、乾晶の豊かさや、治安の様子もわかるだろう。
「ん? お前に行きたい所があれば、そこを最優先にするぞ? どこがいい? 服か装飾品でも見るか? 劇場があれば、そこでもいいぞ?」
にこやかに尋ねる龍翔に、明珠はぶんぶんとかぶりを振る。
「私は、英翔様と張宇さんの行くところについていくだけで、十分です!」
そもそも、官邸からお仕着せで出てきたので、お金は一銭も持ってきていない。
「そうだ。これを渡しておかねばな」
明珠とつないでいるのとは反対の手で、龍翔が懐から、薄紅色の小袋を取り出す。
受け取った小袋は、片手に収まる大きさの割に、ずしりと重い。
「今日の
「こ、小遣いって……」
「どうした? 足りなければ、まだあるぞ?」
「違います!」
とんでもないことをさらりという龍翔に、かみつくように答える。
「だ、だってこれ……っ。中身が銅銭ばかりだとしても、結構な額じゃないですか!? おまんじゅう、いくつ買わせる気ですか!? こんなにいりません!」
布袋を押し返したが、龍翔は受け取らない。
「その程度なら、たいした額ではないだろう? まあ、饅頭なら山ほど買えるだろうが」
「私にとっては大した額です!」
憤然と言い、ずいっ、と布袋を差し出すと、龍翔が形良い眉をしかめて吐息した。
「……まったく。お前は欲がない」
ひょいと布袋を取り、懐に入れ直した龍翔が、いたずらっぽく笑う。
「わかった。お前がそう言うのなら、これはいったん預かっておこう。その代わり、今日のお前の分は、すべてわたしが出すからな」
「それだと、お返しした意味がないじゃないですか!」
叫ぶが、龍翔は笑って取り合わない。
「今日は、羽を伸ばす日なんだ。わたしにつきあう経費だとでも思え」
「で、でも……」
まだ釈然としないものを感じていると、不意に龍翔がつないだ指先に力を込めた。
頭半分、低いところにある黒曜石の瞳が、明珠を見上げる。
「お前は、わたしと街を歩くのはつまらぬか?」
「そんなことありません!」
即座に否定する。
明珠の言葉に安堵したように、龍翔が愛らしい
(か、可愛い……)
「順雪とおでかけしているみたいで、嬉しいです!」
十歳を越えてから、順雪は外でなかなか手をつないでくれなくなった。
明珠の右手としっかりつないで隣を歩く龍翔の手は、導くように優しく、同時に頼もしい。
明珠としては褒めたつもりなのに、龍翔は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「やはり順雪か……。まあいい。お前が楽しそうだからな」
「そうおっしゃる英翔様だって、楽しそうですよ?」
龍翔の機嫌がいいと、明珠まで心が弾んでくる、敬愛する主人が嬉しそうなら、仕えている明珠だって嬉しい。
龍翔が、さも当然だとばかりに頷く。
「むろんだ。わたしの方はこの姿とはいえ、愛らしく着飾ったお前と、出かけられるのだからな。安理に、わざわざ服を見立てさせた甲斐があった。あいつは、こういうところは失敗しないからな」
「ほんとすごいですよね、安理さん。髪だって、あっという間に結ってくださって……」
「ああ、よく似合っている。……似合い過ぎて、変な虫が寄りつかないかと心配になるほどな。まあ、見つけたらすぐに追い払うが」
「あ、着きましたよ。このお店です」
龍翔の低い呟きに重なるように、張宇の弾んだ声が聞こえる。
張宇が足を止めたのは、店構えの立派な大きな菓子店だった。
「ここのお菓子はどれも美味しいらしいんですが、特に木の実入りの
張宇が店員に注文する数を聞いて、龍翔が顔色を変える。
「おいっ、それはいくらなんでも多すぎだろう!?」
「そうですか? 季白と安理と鍔と、あと俺のおやつが……」
ひい、ふう、みい、と指折り数える張宇に、龍翔が呆れた息をつく。
「お前が砂糖漬けになりたいというのなら止めんが」
笑った張宇が、うきうきと明珠に声をかける。
「あ、明珠。こっちの方は日持ちする菓子らしいよ。どうだい? 弟くんに送ってあげるなら、仕送りや手紙と一緒に送れるよう、手配するけど?」
「えっ!? いいんですか!? でも……」
さっき龍翔に財布を返してしまったので無一文だ。
順雪へのお菓子を買ってあげられるのなら、ありがたくもらっておけばよかった……。と早くも後悔すると、張宇が明珠の心を読んだかのように優しく笑う。
「菓子なんて高いものじゃないし、好きなものを選ぶといいよ。ほら、前にちゃんとお詫びをできなかっただろう? 遅くなったけれど、その埋め合わせということで」
張宇の言葉に記憶を探り、霊花山の高級蜂蜜をもらった件を思い出す。
同時に、初めて龍翔とくちづけした時のやりとりまで思い出してしまい、頬が熱くなる。
「う、埋め合わせも何も、もう蜂蜜をいただいたじゃないですか!」
もらった蜂蜜は、少しだけ自分の分を小さな壺に取り分けた後、順雪が喜ぶだろうと実家に送っている。
「あんなその場しのぎの品じゃ、俺の気がおさまらないよ! 髪飾りとか、ちょっとした小物とか、そういうものでもいいかと思ったんだけど……」
一度、言葉を切った張宇が、龍翔に視線を向けてから、明珠に向かってにっこり笑う。
「まあ、諸般の事情があってね。何より、明珠は自分自身に何かを贈られるよりも、弟くんに送れる物をもらったほうが、喜びそうだし」
「それは、その通りです!」
実家であれこれやりくりしていた頃から、明珠の優先事項は、自分よりも順雪だ。
順雪にお菓子を買ってもらえるなんて、感謝しかない。
「……張宇。お前、意外とこういうところはそつがないよな……」
「じゃあ、どれがいい? 好きなのを選ぶといいよ」
龍翔の小さな呟きを笑顔で受け流した張宇に促され、明珠は菓子が並んだ棚に向き直る。
「じゃあ、この干し
「気にしないでいいよ。俺が贈りたかったんだし。明珠が喜んでいるのを見るのは、嬉しいしね」
こちらの心をほぐすような優しい笑顔で告げた張宇が、
「すみません、これを二つ」
と、店員に注文する。
支払いを済ませ、店を出たところで。
「じゃあ、これが順雪の分で、これが明珠の分」
二つ包みとも渡され、明珠はびっくりした。
「えっ!? 一つは張宇さんの分じゃないんですか!?」
「ううん、明珠の分だよ。離れてしまっているけれど、弟くんと一緒のお菓子を食べるっていうのも、悪くないだろう?」
「張宇さん……っ」
張宇の思いやりの深さに、目が潤みそうになる。
「明珠を泣かすなよ?」
「これは嬉し涙なので大丈夫です! 張宇さん、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げると、張宇が笑ってかぶりを振る。
「喜んでもらえたようで、何よりだ。俺も、ようやく気がかりが晴れたよ」
明珠の頭に手を伸ばしかけた張宇が、髪を乱してはと思ったのか、途中でぴたりと手を止める。
低い声を出したのは龍翔だ。
「……張宇。お前、もしかして気安く明珠の頭を撫でているのか?」
「張宇さんに頭を撫でてもらうの、嫌いじゃないですよ?」
龍翔の責めるような声の響きに、思わず口を挟むと、強い視線が返ってきた。
「わたしは?」
「わたしは、って……?」
まなざしの強さに、少し怯む。
張宇に頭を撫でてもらうのは、すごく安心する感じで。
対して、龍翔は、何だがくすぐったいような気持ちになる。
だが、どちらにしても。
「嫌じゃないですよ? というか、撫でてくれる人によって、嫌とか嫌じゃないとか、あるんですか?」
「……まあ……。仕方あるまい、許すか。張宇だからな……」
龍翔が諦めたように吐息する。
「……英翔様。それ、安理が聞いたら「差別だーっ!」って騒ぎ立てますよ?」
張宇が穏やかに苦笑する。
「差別ではない。区別だ。張宇、お前も気をつけろよ? 明珠はお前の妹ではないのだからな。あまり気安く接しすぎるな」
「肝に銘じます」
「張宇さん、妹さんがいらっしゃるんですよね? 確か、双子さんだって聞いた気が……」
水を向けると、張宇は大きく頷いた。
「俺も街へ出る機会は少ないしね。今日は妹への土産も買いたいんだ。ただ、小間物屋って男だけだと入りにくいだろう? よかったら、つきあってくれないか?」
「もちろんです! じゃあ、先に行きましょう! せっかくのお土産なんですから、じっくり選びたいですよね! 英翔様は、それでよろしいですか?」
「ああ、もちろんよいぞ。張宇の妹達は、わたしもよく知っているしな」
なぜか微苦笑で頷いた龍翔が、
「……お前、本当に手慣れているな。もしかして、今まで何度も妹をだしに……」
「英翔様!? 何おっしゃるんですか!?」
張宇が目をむくが、龍翔は鷹揚にかぶりを振る。
「いや、別に構わんぞ。お前なら、安理と違って、まっとうなつきあいだろうからな。お前の幸せを邪魔する気は――」
「何を想像してらっしゃるんですか!? 違いますよ! よく妹達に街を連れ回されていたので、慣れているだけです!」
とんでもないとばかりに、張宇が叫ぶ。
明珠には話が掴めない。と、張宇が見る者の心を融かすような笑みを浮かべる。
「お言葉ですが、今のところ、そんな浮ついたことは考えられません。英翔様にお仕えするだけで、俺の両手はいっぱいいっぱいですから」
張宇の言葉に、龍翔が黒曜石の瞳をきらめかせ、悪戯っぽく笑う。
「年老いてから、泣き言をいう羽目になっても知らんぞ?」
「ご心配ありがとうございます。ですが、英翔様にお仕えする限り、人生を悔いる事態など、起こりえぬと思っておりますので」
張宇は動じることなく、懐の広さを感じさせる笑みを浮かべる。
龍翔が、珍しく楽しげに鼻を鳴らした。
「安心しろ。寂しいと思う暇もないほど、ずっと働かせてやる」
「ありがたき幸せでございます」
こちらも珍しく、張宇はおどけた様子で、胸元に手を当て、過剰なほど恭しく一礼した。
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