35 切るにも勇気がいるんです! その2
「何だ?」
明珠から手を放した龍翔が扉に向き直る。
「お邪魔いたしまして申し訳ございません。
入ってきた
細かく折り目がついているのは、《
龍翔が手早く書状を広げ、目を通す。
「
期待をにじませて季白が問う。遼淵からの手紙ということは、龍翔の禁呪について、何かわかったことがあるということだろうか。
「禁呪についての内容ではない」
龍翔がかぶりを振って、季白の期待を否定する。
「王都で『昇龍の儀式』を終え、蚕家へ戻ってきた弟子の中に、解呪を得意とする者がいるから、乾晶へ遣わした、と。着いたら、いいように使ってくれと書いてある。文に書かれた日付からすると、近々、着きそうだな。弟子の名前は、
「聞いた記憶がございます。遼淵殿の高弟の一人で、若いながら、かなりの使い手だとか。解呪が得意とは存じませんでしたが……」
明珠の耳には、季白の説明がほとんど入って来なかった。
解呪が得意な遼淵の弟子。ということは――。
急に、地面が消えた気がした。
膝から、かくりと崩れ落ちそうになる。
無意識に伸ばした指先が掴んだのは、龍翔の着物の袖だ。
振り向いた龍翔が、ぎょっと目を見開いた。
「どうした!?」
次の瞬間、力強い腕に横抱きにされる。
「ひどい顔色だぞ!? 調子が――」
「その方が来られたら」
「何だ?」
かすれた呟きが聞き取りにくかったのか、龍翔が顔を寄せる。
明珠は不安を隠せないまま、間近に迫った黒曜石の瞳を見上げた。
「その、周康さんって方が来られたら、私、クビになっちゃうんでしょうか……?」
「そんなはずがないだろう!」
叩きつけるような強い声に、思わずびくりと身体が震える。
とたん、龍翔が「しまった」と言いたげな顔をした。
「落ち着け。周康が来たからといって、お前をくびにするはずがないだろう?」
龍翔がうって変わって優しい声で諭す。
「お前はわたしの大切な従者だ。お前は、わたしが従者を無責任に放り出すような者だと思っているのか?」
「いいえっ、そんな……っ」
「龍翔様のおっしゃる通りです」
季白の冷淡な声が割って入る。
「龍翔様のお言葉を正確に聞きなさい。遼淵殿は「解呪が得意な者」と手紙に書いていますが、「解呪の特性と持った者」とは書いていません。なにより、あの遼淵殿が、弟子に解呪の特性を持つ者がいて、龍翔様が蚕家にいる間に、呼び出して検証をしないわけがないでしょう? 何があろうと、王都から呼びつけていたに違いありません」
季白が自信満々に断言する。
確かに、あれほど《龍》に執着する遼淵が、貴重な機会をむざむざと逃すとは思えない。
「周康と申す者は、なかなかの野心家と聞き及んでおります。そのような者が希少な解呪の特性を持っていたら、もっと大っぴらに
龍翔に抱き上げられた明珠を睨むように見ながら、季白が苦々しい口調で説明する。
ほっとすると同時に、明珠は今の状況に気づいて、大いにあわてる。
「わあっ、すみません! 下ります! 下ろしてくださいっ!」
今度は、別の意味で血の気が引く。いや、
どちらなのか、自分でもよくわからない。
「すみませんっ! 早とちりしてしまってっ。あの……っ」
暴れたが、逆に龍翔にしっかり抱え直されてしまう。
「わたしが」
口を開いた龍翔の声の低さに、思わず動きを止める。
「わたしが、お前を簡単にくびにすると、思っていたのか?」
不機嫌きわまりない声。
明珠はあわててぶんぶんと首を横に振った。
「違います! あのっ、龍翔様のことをそんな風に思っているわけじゃなくて、その……っ」
身を乗り出し、龍翔の胸にそっと手のひらでふれる。
「龍翔様にもうお仕えできないかと思った瞬間、哀しくて何も考えられなくて……っ」
決して、龍翔の誠実さを疑ったわけではない。龍翔がそんな主でないことくらい、少し考えれば、すぐわかる。ただ。
「私が、これからも龍翔様にお仕えさせていただきたくて……っ」
どうか伝わってほしいと、
明珠の眼差しを受け止めた龍翔の視線が、
「……わかっているのならば、よい」
ふい、と視線を逸らした龍翔が、低く呟く。
「お前をくびにするなど……決してせぬ」
「はい! ありがとうございます!」
「……仕えるのならば、もう少し、役目を果たしてもらいたいところですがね」
ほっとしたのも一瞬。
季白が渋面で冷や水を浴びせかける。
「ひぃっ! す、すみませんっ!」
氷のような声音に縮み上がる。
季白の怒りはもっともだ。従者として役に立っているかと問われれば、土下座して平謝りするしかない。
季白から庇うように、龍翔が腕に力を込め、明珠を抱き寄せる。
「何を言う? 明珠はよくやっているではないか。従者としても。……もちろん、解呪の方も」
「わたくしは十分とは思いません」
季白の返事はにべもない。
「従者としては、そもそも期待していないので、大失敗さえしなければかまいません。ですが、解呪の方は、明らかに努力が足りぬでしょう。解呪のために雇われているのですから、もっ――」
「季白」
刃よりも鋭い声が、季白の言葉を封じ込める。
「それ以上、口にしてみろ。――お前とて、許さんぞ」
ひやりと、冷気のように立ち昇る威圧感。
季白が血の気が引いた顔で口をつぐんだ。
己に向けられた怒りではないと知りつつも、明珠の身体が勝手に震え出す。明珠は息を止めて、身体を強張らせた。
ややあって。
「……他ならぬ龍翔様が、そうおっしゃられるのでしたら」
まるで、凍えた身体を己の吐息で
「龍翔様の大願を叶えることこそ、わたくしの一番の望み。龍翔様が望まれぬのでしたら、わたくしからは、今はこれ以上、申し上げません」
が、面を上げた時には、いつも冷徹な顔に、どこか投げやりな表情が浮かんでいた。
「遼淵殿の手紙は渡せましたし、わたくしはこれで失礼いたします。……お邪魔して、無粋者とそしられたくはございませんので」
季白が龍翔の返事も待たずに部屋を出て行く。
扉を閉める寸前、龍翔に抱き上げられたままの明珠を見た視線が、ものすごく苦々しかった気がするのだが……。
お願いだから、気のせいであってほしい。
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