35 切るにも勇気がいるんです! その1


 報告を聞きながら歩いているうちに、すでに龍翔の部屋のすぐ前まで来ていた。

 明珠が手を伸ばすより早く、龍翔が扉を開ける。


「す、すみません。龍翔様に扉を開けていただくなんて……」


 季白が戻ってきていたら、確実に叱られる。あわてて扉を押さえると、龍翔に苦笑された。


「それほど気遣う必要はない。扉くらい、自分で開ける」


「で、ですけど、ちゃんと従者として勤めないと、いつ季白さんに見つかって減給されるか……っ!」


 恐ろしさにぶるりと震えると、


「減給など、そんな事態、わたしが許すはずがなかろう」

 と、心強い声が降ってきた。


「そもそも、季白さえ反対しなければ、お前の借金など、あの《癒蟲ゆちゅう》で帳消しになっていたものを」


「ええっ!? あれはもう、前にお気になさらないでくださいと……!」


 龍翔の苦い声に、明珠はあわてて隣に立つ主人を見上げた。


 龍翔が言っているのは、蚕家にいた時に、御神木から落ちた明珠を受け止めようとした少年龍翔が、足をひねった際の話だ。


 あの時、龍翔は明珠に、

「《癒蟲》で足を治せば、なんでも望むものをやる」

 と宣言した。


 自分が告げた言葉を律儀に覚えていた龍翔は、蚕家を出る前に、明珠に、


「何でも望みのものを言え。季白が立て替えた借金の帳消しでも何でもよいぞ?」

 と言ったのだが、


「借金の帳消しなど、わたしは認めません!」

 と、季白に一言のもとに却下された。


 明珠の方も、たった一度、《癒蟲》を呼び出しただけで大金をせしめるなど、良心が許さなかったため、固辞し、この話は終わったものと思っていたのだが……。


 龍翔自身は、まだ納得していなかったらしい。


 英翔が足をくじいた時は、明珠はまだ、英翔の本当の身分を知らず、それどころか、腹違いの弟だと勘違いしていた。


 たった二ヶ月ほど前のことなのに、もうずいぶんと昔のことのような気がしてしまう。

 龍翔に仕える日々は、それだけ密度が濃い証拠かもしれない。


「余人はともかく、結果的にお前に嘘をつく羽目になるとは……」


 渋面の龍翔に、明珠はあわてて口を開く。


 誠実な龍翔らしいが、《癒蟲》を一度、喚び出したくらいで気に病まれては、こちらが申し訳ない気持ちになってしまう。


「龍翔様。お願いですから、もう気になさらないでください! もともと、大したお礼をいただく気なんて、ありませんでしたし!」


「しかし……」

 眉間にしわを寄せる龍翔に、勢い込んで言う。


「じゃ、じゃあ、昨日いただいた絹紐が謝礼ということで! それでいかがですか!? というか、そうしてください! 私も、タダでいただくのは心苦しいですし!」


 龍翔の渋面を和らげたい一心で言ったのに、眉間のしわはなかなかなくならない。


「それなら、改めてもっと良いものを……」


「いえっ、絹紐だけで十分ですから! 龍翔様にお手間をかけては申し訳ないですし……」


「手間などと」

 龍翔の声が低くなる。


「わたしは昨日、お前と出かけられて楽しかったぞ? ……お前の方は、そうではなかったか?」


「とんでもありません!」

 ぶんぶんと首がもげそうな勢いでかぶりを振る。


「私だって、すごく楽しかったです! おいしいものをたくさんいただけましたし、あんなに綺麗な着物を着たのなんて、初めてでしたし、何より、英翔様は可愛かったですし……っ!」


「その割には」


 どこかねたような声と同時に、腕を引かれた。

 よろめいた身体が、とすん、と龍翔にぶつかる。


「昨日渡した絹紐を、つけていないようだが」


「えーっと、これはそのっ、昨日はばたばたしていたので、ちょうどいい長さに切っている暇がなくてですね……っ」


「それだけか?」

 まるで、心の中を読んだかのように、問いを重ねられる。

「その……」


「……気に、入らなかったか?」


「えっ! そんなわけないですよ!」


 驚いて龍翔を振り仰ぐと、思った以上に近くに秀麗な面輪があって、びっくりする。

 あわてて顔を伏せながら、明珠は早口に説明した。


「そのっ、絹の紐だと思うと、切るのにも勇気が必要で……っ!」


「なんだそれは」

 ぷっ、と龍翔が吹き出す。


 腕を掴む力が緩んだ拍子に、明珠は急いで龍翔から、一歩距離をとった。


「絹のお着物に慣れてらっしゃる龍翔様にはわからないかもしれませんけど、絹なんて、私にとっては分不相応なもので……っ。というか、絹製品なんて、いただいた絹紐が初めてで……っ! もし間違えて短く切ったりしたらどうしようかと思うと、なんというか、ふんぎりが……っ!」


 何と言えば、龍翔に通じるのかと、あわあわと説明していると、とりあえず、明珠があわてにあわてていることは伝わったらしい。

 「わかったわかった」と、苦笑交じりに龍翔が明珠の頭をぽんぽんと撫でる。


「ならば、今、絹紐を持ってこい。自分で切れぬというのなら、わたしが切ってやる。髪紐はともかく、守り袋の紐は、万が一、ほどけて落としたりしては、一大事だろう? 何より、使わず死蔵するほうがもったいない」


「は、はい。ありがとうございます」

 龍翔が言うことはもっともだ。


 明珠が自分の荷物の中から、昨日送られた濃い青と薄紅色の二本の絹紐を取って戻ってくると、龍翔が小刀を出して待ち構えていた。


 見覚えのある豪華なこしらえの小刀に、明珠は目をむく。


「そ、それって、蚕家の家宝の『破蟲はちゅうの小刀』じゃないですかっ!」


 どう考えても、紐を切るなどという用途に使っていい品ではない。

 が、龍翔は気にした様子もなく。「絹紐をこちらへ渡せ」と手を差し出す。


「小刀を本来の用途に使って、何が悪い?」


「何だかこう、恐れ多いというか、もったいないというか……」


 明珠がもごもごと答えている間に、明珠の手のひらから紐を取り上げた龍翔が、青色の絹紐に刃を当てる。


「半分くらいにすればよいか?」

「はい。あまり長いと使いづらいので、それでお願いします」


 ぶつっ、と何のためらいもなく家宝の小刀で絹紐を切った龍翔が、次いで薄紅色の紐を手に取る。


「こちらは、加減を見て切った方がいいだろう」


 明珠の背後に回った龍翔が、後ろから明珠の首元へ紐を回す。


 龍翔が前かがみになった拍子に、ふわりと衣にたきしめられた香の薫りが届く。

 背中にふれそうなくらいにすぐ近くに龍翔の気配を感じて、思わず心臓が跳ねる。


「このくらいの長さでよいか?」


 心地よく響く声が耳のすぐそばで聞こえて焦る。

 髪を一つにまとめているせいで、むき出しの耳に、吐息がかかって、思わず悲鳴が飛び出しそうになった。


「は、はい! この長さで大丈夫です!」


 早口で言い、龍翔が紐を外した瞬間、そそくさと距離をとる。

 龍翔が再び紐を切り、小刀をさやに納めて、帯の間にしまう。


 それだけの所作なのに、龍翔が行うと、妙に絵になる。


「どうした?」

 柔らかく微笑まれて、明珠はぼうっと龍翔を見上げていたのだと、ようやく気づく。


「いえ、その……」


 動揺のあまり、さまよわせた視界の隅で揺れたのは、龍翔が切ってくれた薄紅色の絹紐だ。


「そのっ、本当に綺麗な色の絹紐だなぁって……。龍翔様が選んでくださっただけありますね」


 光沢のある淡い紅色は、まるで花びらをり合わせたかのようだ。


「なんだか、見ているだけでうっとりするような色です」

「確かに、愛らしい色だな」


 頷いた龍翔の黒曜石の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。

 す、と伸ばされた右手が、明珠の頬にふれ。


「頬を染めた時の、お前の色だ」


「ふえっ!?」


 優しい指先が肌をすべり、明珠は素っ頓狂な声を上げた。

 ふれられた頬が瞬時に熱くなったのが、自分でもわかる。


 龍翔が楽しげに喉を鳴らした。


「ほら、今もなっている」

「そ、それは、龍翔様がびっくりさせるから……っ」


 うつむいても、頬にふれた龍翔の手は離れない。それどころか、柔らかな笑い声が降ってくる。


「愛らしいものをでたくなるのは、自然なことだろう?」

「あのっ、ご冗談は……っ」


 頬がますます熱くなる。

 心臓に悪いので、本当に勘弁してほしい。


 可愛いなどと……。そんなこと、小さい頃に、亡くなった母に言われた記憶くらいしか、ない。

 分不相応な褒め言葉は、いったいどう返したらよいかわからなくて、困ってしまう。


「前もそう言っていたな。だが、冗談ではないぞ?」


 龍翔の声が、わずかに低くなる。

「お前は――」


「龍翔様。よろしいですか?」


 龍翔の声にかぶさるように、扉の向こうから季白の声が届く。


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