34 お前は本当に愛らしい その2
安理が姿を見せるまで、そばに来ていることすら気づいていなかった明珠は、龍翔の人の気配を読む
「まあ、殿下。もう行かれてしまいますの?」
立ち上がった龍翔に、宝春もあわてて立ち上がり、龍翔に歩み寄る。
宝春の後ろに控えていた侍女が素早く動き、龍翔の前でひざまずくと、うやうやしく籠を差し出した。
龍翔がそっと籠に子猫を下ろす。
(あれ……?)
玉にじゃれつく子猫を見た明珠は、違和感を覚える。
乳白色だった玉の色が、前見た時よりも、わずかに濃くなっている気がして。
光の加減かと思っているうちに、侍女は、す、と後ろに下がってしまう。
「宝春嬢」
いつもよりわずかに低い、どことなく不機嫌そうな龍翔の声に、明珠はあわてて主を振り返る。
宝春が、
「賊も捕まっておりませんし、わたくし、不安ですの……。殿下のように頼もしい方がおそばにいてくだされば、怖いものなどございませんでしょうに……」
宝春が
「どうぞ、もう少し龍翔殿下のおそばにいさせてくださいませ」
甘えるように告げる宝春は可憐で、明珠だったら、一も二もなく「光栄です!」と即答していただろう。
自分の望みが叶わぬ経験など、したことがないと言いたげに、宝春はにこやかに龍翔を見上げる。
「龍翔殿下、どうか――」
「宝春嬢」
不意に、龍翔が空いている方の左手を宝春の手に重ねる。
龍翔に見つめられた宝春の顔が、
「わたしは乾晶の治安を取り戻すため、陛下から遣わされた身。一人のために動くことはできかねる」
そっと、宝春の両手を放した龍翔が、秀麗な面輪に
「一刻も早く賊を捕らえることで、宝春嬢の心の安寧を取り戻すこととしよう」
龍翔の笑みに魅入られたように動けなくなっている宝春を放って、龍翔が長身を翻す。
「では、失礼」
龍翔が悠然と歩を進める。と。
「明順。おいで」
振り返った龍翔に柔らかく微笑まれ、明珠は宝春達に一礼し、あわてて主を追いかける。
安理を振り返ることもなく、龍翔が冷ややかに問うた。
「陽達の調査はどうなっている?」
「いやー、それが今、官邸に報告に来てるんスよ。で、奥まで来ることはないでしょうが、一応、お伝えしておこうと思いまして。オレも鉢合わせしちゃ、まずいっスしね~。いや~、イイ時に来られてよかったっス♪」
「盗み聞きを許した覚えはないぞ」
龍翔の冷ややかな声に、こたえた風もなく安理がにへら、と笑った。
「やだなぁ、出る機会をうかがってただけなんで、不可抗力っス! それにしても……ぶっひゃっひゃっひゃっひゃ……。いや~、やっぱり龍翔サマにお仕えするのは、最っ高に楽しいっスね!」
ものすごく楽しげに安理が断言する。
明珠は安理が姿を現すまで、そばに来ていることに気づかなかったのだが、もしかして、ずっとそばで龍翔の台詞を聞いていたのだろうか。
だとしたら、妙に気恥しい。
明珠の動揺を読んだかのように、振り向いた安理がにやにやと笑う。
「いや~、明順チャン、可愛がられてるねっ♪」
「ふえっ!? あれは猫の明珠を可愛がっていたんですよ!? 私じゃありませんっ!」
大声で反論すると、再び安理が、
「ぶっひゃっひゃっ」
と吹き出す。
「ですって~。残念っスね、龍翔サマ♪」
「お前は余計な口を叩いている暇があったら、午前中に調べたことを報告しろ。陽達は今、誰に報告に来ているんだ?」
龍翔が安理を
「宝春からは、ろくな情報を得られなかったからな。時間の無駄だった」
明珠は、はあっ、と溜息をついた龍翔をおずおずと見上げる。
明珠が余計な気を回したせいで、かえって龍翔に負担をかけてしまったのだろうか。
と、明珠と目が合った龍翔が、悪戯っぽく微笑む。
「ああ、そんな顔をするな。横で反応するまいと頑張るお前を見るのは、なかなか楽しかったぞ?」
「り、龍翔様!? もしかして、わざと……っ!?」
思わず睨むと、龍翔が微笑んだまま、首をかしげる。
「うん? 子猫が愛らしかったのは、真実だろう?」
「えっ、はい。私もできたら撫でたかっ――」
「お前の方が愛らしいが」
龍翔の不意打ちに、息が詰まる。
その隙に、龍翔の長い指先が明珠の手を絡めとった。
「り、龍翔様!? ご冗談はおやめくださいっ!」
龍翔の手を振りほどこうとしたが、放れない。
「……えーと。報告はまたの機会にしましょーか?」
今にも吹き出しそうな安理の声に、明珠は恥ずかしさのあまり、深くうつむく。
が、龍翔は悔しいほどいつも通りだ。
「部屋に戻るまではまだかかるだろう? その間に報告しろ。それとも、複雑な内容か?」
「いーえー。午前中、調査してきましたけど、あの男は、間違いなく自警団の団長っス。《堅盾族》が村に引っ込んできてから、陽達とその仲間達を中心に組織された、急ごしらえの自警団ですけど、陽達の腕の良さのおかげで、検挙率はなかなからしいっス」
確かに、昨日、男に絡まれるまでは、街を歩いていて治安が悪いと感じる場面はなかった。
「術師としての腕の良さと、頼りになる兄貴分っていう性格で、団員だけじゃなく、街の人々にも一目置かれているみたいっスよ。やっぱり、昨日、大通りでゴタゴタを起こさなかったのは、正解だったみたいっスね~」
安理はくったくなくけらけらと笑う。
「それで、怪しい点は?」
冷静に主に続きをうながされ、安理は「ん~」と頭にやった手でがしがしと
「それが、さほど見つからなかったんスよね~。さっきお伝えしたように、
「砂波国?」
龍翔の声に、わずかに鋭いものが混じる。
明珠は季白の講義を思い出す。
砂波国は龍華国の西北に位置し、国境を接する国だ。国土が乾燥していて、作物が育ちにくいため、豊かな龍華国の富を、つねづね狙っているという。
「あ、でも、出身は乾晶らしいっスよ。親の仕事の都合で、砂波国に行っていたそうなんスけど、親も死んで、身軽な一人身になったから、龍華国に戻ってきたとか何とか……。今は、以前に《堅盾族》が使っていた自警団の詰所の二階で、一人暮らしをしてるっス」
龍華国と砂波国は、表立って敵対しているわけではないが、友好関係を築けているわけでもない。
だが、砂漠を横断する交易路上に位置するため、人や物の流通は絶え間ない。
乾晶でも砂波国の者をよく見るし、逆もまた然りだ。
砂波国から来たからといって、すぐさま陽達が怪しいとは断言できない。
「あ、それと~♪」
安理が急に弾んだ声を出す。
「女関係はキレーなもんだったっス! そこそこモテるようですけど、特定の恋人はなし。最近、こっぴどくフラれた彼女ってのもいないんで……」
安理がちらり、と明珠に視線を向ける。
「いったい陽達は、『誰』に執着してるんでしょーね? 乾晶出身らしいっスから、昔に別れた幼なじみってゆー可能性が高そうっスけど……」
「腕が立ち、人望も厚い自警団長か……」
龍翔が低い声で呟く。
「報告を聞いた限りでは、明珠にあれほどの執着を見せた理由が、さっぱりわからんな。とりあえずは、明順を陽達と会わせぬよう、気をつけるしかないか……」
吐息した龍翔が安理を振り返る。
「ご苦労だった。ひとまずはこれで良い。もし新しい情報が入ったら報告しろ」
「了解っス~。あ、そろそろ陽達の報告も終わってるかもしれないんで、オレはこれで失礼しま~す」
「待て、安理。陽達は官邸の誰に報告に来ている?」
「副総督の
「貞か。宝春と聞いた内容と一致するが、意外と高官とつながっているのだな。《堅盾族》の代わりとなれば、当然か……? 陽達自身についてなら、大した出世といえるだろうが……」
呟いた龍翔が安理に視線を向ける。
「
「あ、じゃあ、張宇サンを見かけたら伝えておくっス」
頷いた安理が、軽く一礼して去っていく。
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