34 お前は本当に愛らしい その1


「明珠。お前は本当に可愛いな」


 上機嫌な龍翔の声に、明珠は叫び出したい衝動を必死で抑えた。

 明珠の内心を知ってか知らずか、龍翔は楽しげに言葉を継ぐ。


「素直に甘えてくるのが、ことさらに愛らしい。いくらふれていても飽きぬ」


 龍翔の長い指先が優しくすべる。

 見る者を魅了せずにはいられない柔らかな微笑みと、心地よく深みのある声。


 お願いだから、いい加減、やめてほしい。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。

 だが、反応することは許されず、明珠は唇をかみしめて羞恥しゅうちえる。


 と、龍翔の長い指先が、明珠のおとがいにかかり、上を向かせる。

 黒曜石の瞳が、悪戯っぽくきらめき。


「これほど愛らしいと、ずっとこの腕に、閉じ込めておきたくなるな」


 甘い声で優しく囁いた龍翔が、すり、と腕の中の明珠に頬ずりする。


「にゃあん」

 と、龍翔の両手に抱かれた子猫の『明珠』が、嬉しげに鳴いた。


「り、龍翔殿下は、ずいぶん明珠を気に入られたんですのね」


 頬を桃色に染めた宝春が、子猫を抱いた龍翔をうっとりと見つめる。


 四阿あずまやの長椅子にゆったりともたれ、子猫を優しくででやりながら、龍翔が見る者の心をとろけさせるような笑みを浮かべる。


 「ほう」と感嘆の吐息を洩らしたのは、宝春か、それとも後ろに控える侍女達か。両方かもしれない。


「愛らしいものがそばにいると、それだけで心が弾む。なあ、明珠?」


「にゃあん」

 ごろごろと、心地よさそうに子猫の明珠が喉を鳴らす。宝春が上目遣いに龍翔を見た。



「明珠ったら、すっかり龍翔殿下のとりこになってしまったのね。殿下が宿営地に行かれている間、ずっと寂しがって鳴いていたんですのよ」


 明珠達が官邸に戻ってきたのは今朝のことだ。


 朝から龍翔と季白は総督への報告に、安理は調査で街へと忙しく、明珠は張宇と、部屋で季白に命じられた書類をまとめる続きにとりかかっていたのだが。


 昼を回り、張宇も街へ出て、龍翔と二人で留守番をすることになったところで、突然、宝春が、子猫の明珠と侍女を引き連れてやってきた。


 龍翔は最初、迷惑そうだったのだが。


「そこの従者。龍翔殿下も、たまにはごゆるりと気の休まる時間が必要でしょう? そう思わない?」


 と宝春に笑顔を向けられた明珠が「おっしゃる通りです!」と頷き、子猫の明珠が「にゃあん!」とかごから飛び出しそうな勢いで暴れるにいたって、庭園の四阿に出ることをしぶしぶ了承した。


 もちろん、明珠は部屋で待っていますと遠慮したのだが、龍翔に、


「お前を一人にはできん」

 と一蹴され、


「供もつけずにいろと?」

 と言われては従うほかなく、四阿の隅で控えているのだが。


 龍翔は、宝春の言葉には簡潔に返事をするだけで、ずっと子猫の明珠をかまい続けている。


 子猫の方も、すっかり龍翔になついているらしく、大きな手に抱っこされて、ごろごろと幸せそうに喉を鳴らしていた。


(龍翔様って、猫好きでいらっしゃるんだなぁ……)


 龍翔の機嫌のいい顔を見られるのは素直に嬉しい。

 子猫とじゃれあっている姿は、いつも気を張り詰めている龍翔とは異なり、見ているこちらまで、なんだかほっこりしてくる。が。


(お願いですから、名前付きで「可愛い可愛い」って連呼しないでください……っ!)


 自分ではなく、子猫のことだと重々承知していても、心臓に悪いこと、この上ない。


 両手で顔を覆って、「お願いですから、もう勘弁してください~っ!」と床にくずおれたくなる。


 というか、正直もう、引き下がらせてほしい。


 龍翔の無駄に高いきらきらしさにあてられているのは、明珠だけではないらしく、先ほどから宝春や侍女達も、ずっと顔が赤い。


 なので、なんとか明珠も動揺がばれずに済んでいるのだが。


「総督殿はお忙しく過ごされているのか? 賊の行方もまだようとして掴めておらぬのだろう?」


 子猫の頭を撫でてやりながら、龍翔が宝春に視線を向ける。

 宝春は「そうなんですの」と大きく頷いた。


「まったく、言語道断な賊ですわ。二度も官邸に押し入るなんて……。わたくし、怖くて夜も眠れませんでした」


 宝春は、いかにも恐ろしそうに、華やかな絹の衣に包まれた我が身を両手が抱き締める。

 もし、龍翔が向かいではなく隣にいたら、しなだれかかっていたかもしれない。


「幸い、賊はすぐに逃げ出したと聞いたが……。何か、被害があったのか?」


「ええ、ございましたわ」

 きっぱりと頷いた宝春に、龍翔が意外そうに片眉を上げる。


 明珠の記憶によると、確か賊は、官邸の部屋をいくつか荒らしたものの、何も盗らずに逃げたと聞いていたのだが。


「それはそれは……。いったい、どんな被害が?」

 心配そうに眉を寄せて尋ねた龍翔に、宝春が身を乗り出す。


「わたくし、怖くて怖くて……。賊が入った日から、ろくに眠れておりませんの」


 愛らしい顔を哀しげにひそめて告げる宝春の顔色は、栄養が行き届いてつやつやしているように見えるのだが……。もしかしたら、化粧の下に隠されているのかもしれない。


「龍翔様のような頼もしい方がおそばにいてくださったら、怖さもやわらぐのでしょうけれど……」


 宝春が何かを期待するような、艶を含んだ眼差しを龍翔に送る。


 龍翔は言葉を返さずに、無言で笑みを深くした。

 しなやかな指先が子猫の白い毛皮の上をすべり、猫の明珠が恍惚と目を細める。


「宝春嬢の不安は、《堅盾族けんじゅんぞく》のまもり手が不在ゆえかも知れぬな。堅盾族の代わりに、自警団が組織されているという話は聞いたが……。自警団では、宝春嬢の不安を取り除くに力不足かな?」


 魂でも抜かれたように、ぽうっ、と龍翔を見つめていた宝春が、我に返ったように瞬きする。


「え、ええ。もちろんですわ。あのような平民の集まりなど……。二度も賊の侵入を許した警備兵と、大差ありませんもの」


 さげすみを隠そうともせず、宝春が顔をしかめる。

 龍翔は薄く笑んだまま、問いを重ねた。


「団長の陽達ようたつという男は、なかなかの術の使い手だという噂をきいたが、宝春嬢は会われたことは?」


「わたくしが平民に男に目通りを許すなど!」


 吐き捨てるように冷ややかな声で告げた宝春が、龍翔の視線に気づいて、あわてて言い足す。


「遠目に見たことはありますわ。大柄で粗野そうな若い男でございましょう? 術師というのは、初耳ですわ。殿下はよくご存じですのね」


 にっこりと感心したように微笑みかける宝春に、龍翔はゆったりと笑ってかぶりを振る。


「わたしは反乱鎮圧のために来たのだから、治安を守る者を気にかけるのは、当然のこと。官邸の中で、陽達についてくわしい者は?」


「副総督のていでしょうか……? 殿下がお知りになりたいのでしたら、お父様にうかがっておきますわ」

 

 宝春の言葉に、龍翔はそっけなくかぶりを振った。


「いや。宝春嬢に手数をかけては申し訳ない。知りたいことがあれば、自身で尋ねる。……ああ」


 龍翔の視線が、ふい、と四阿の外へ向く。


「従者が来たようだ。すまぬが、これて失礼する」


 龍翔の言葉に導かれるように四阿の茂みから姿を現し、地に片膝をついてこうべを垂れたのは安理だ。


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