36 前言撤回をしたくなったら、いつでも言え


「あの、龍翔様……」


「季白の言葉は、真に受けなくてよいぞ」

 いい加減、下ろしてもらおうと口を開いた瞬間、強い声で龍翔に告げられる。


「ええっ!? そんなわけにはいきません!」

 下りることも忘れ、反射的に言い返す。


「お給金をいただいているのに、その分の働きができていないなんて……っ! 季白さんが怒るのも当然です!」


「だから季白のことは……」

「季白さんに認められるかどうかだけじゃないんです!」


 己の倫理観に突き動かされるまま、声に力をこめる。


「お給料泥棒なんて……っ! そんなの、自分で自分が許せませんっ!」

 きっぱりと言い切る。


「だから、私がお役に立てることがあるなら、ちゃんと務めさせてくださいっ!」


 告げた瞬間。

 龍翔の秀麗な面輪がくしゃりと歪んだ。


 喜んでいるような、情けなさそうな、とがめるような……。明珠には理解できぬ複雑な感情が入り混じった末の、何とも困り果てた表情。


 まさか、そんな表情が返ってくるとは思わなくて、明珠はぽかんと龍翔を見つめる。


 何か、盛大な間違いでもしてしまったのだろうか?

 複雑な困り顔のまま、龍翔が重々しく口を開く。


「乾晶での務めを果たし、王都へ戻ることになれば、「龍翔」でおらねばならん時間は、今以上に増えることだろう」


 淡々とした口調。

 しかし、その裏に、龍翔が背負う重責を感じ、明珠はごくりと唾を飲みこむ。


「お前の方から、努めたいと言うのなら……」

 黒曜石の瞳が、明珠をのぞきこむ。


 心臓が、ばくりと跳ねた。


「王都に戻った時に備えて、鍛錬でもしておくか?」


「た、鍛錬って……」


 妙に胸騒ぎがする。

 喉が干上がり、うまく声が出てこない。


 龍翔が、悪戯っぽい笑みをひらめかせた。


「決まっているだろう?」


 声と同じく、弾んだ足取りで龍翔が歩を進める。

 行き先は、部屋の隅になる長椅子だ。


 ふわり、と壊れ物を扱うように、丁寧に長椅子に下ろされる。香の薫りが揺らめいたかと思うと、長椅子の前の床に膝をついた龍翔が、真正面から明珠を見上げていた。


「り、龍翔様! お着物が……!」

「着物など、どうでもよい」


 一言の元に切り捨てた龍翔が、悪戯っぽく笑う。


「着物程度で動揺していては、心臓がもたんぞ?」


 腰を浮かせた龍翔が距離を詰めてくる。

 ふたたび強くなる香の匂い。


 笑んだ声で、龍翔が告げる。


「心臓が壊れぬように慣らしておいたほうがいいのだろう?」


 龍翔の吐息が唇にふれ、明珠はあぶられたように顔を伏せた。


「それ、は……」


 解呪に努めるということは、つまり……。


 心臓がうるさく騒ぎ立てる。

 明珠の顔を下からのぞきこんだ龍翔が、いたわるように微笑んだ。


「無理はするな。わたしは、今のお前で、十分に努めてくれていると言っただろう? だから、季白のげんなど、聞き流せばよい」


 柔らかな声音。まるで、たゆたう春風に舞う花びらのように、そのまま流されてしまいたくなる、優しい言葉。


 だが、深く響く声音の奥底に、ほんのわずかに諦めが混ざっているような気がして。

 気がつけば、明珠はぶんぶんと首を横に振っていた。


「大丈夫です! やります!」


 龍翔が、虚を突かれたように目を見張り――いつもの悪戯っぽい笑みとも、柔らかな笑みとも異なる笑みを、唇に刻む。


 どこか、飢えた獣を連想させる笑みを。


「前言撤回をしたくなったら、いつでも言え」


 いつもより低い、熱をはらんだ声にひるみそうになり、唇をかみしめる。


「龍玉を」


 囁きが聞こえたと思った時には、秀麗な面輪が間近に迫っていた。

 あわてて守り袋を握り、目を閉じる暇もあらばこそ。


 柔らかな唇が、明珠のそれにふれる。


 反射的に身を引きそうになったのを、右手を掴んで引きとめられた。

 長い指先が明珠の指先を絡めとっただけで、緊張に身動きできなくなる。


 いつもより、少し長くくちづけていた龍翔が唇を離す。

 そっと苦笑したのが、目を閉じていても、気配でわかった。


「お前は、緊張すると、すぐに唇を噛みしめるのだな。《気》がなかなか出てこぬ」


「す、すみません……。でも……」

「でも?」

 耳に心地よい声が、柔らかに続きを促す。


 龍翔の吐息が睫毛まつげを震わせ、明珠は恥ずかしさにさらに固く目を閉じた。


「だ、だって、びっくりして変な声が出そうになって……っ」


 ふっ、と笑った息が前髪を揺らす。

「変な声ではないぞ?」

 うつむいた頬に、龍翔の右手がふれる。


「むしろ、愛らしくて、もっと聞きたくなる」

「な……っ!?」


 息を飲んだ瞬間、ふたたび唇をふさがれた。

 声ごと奪うような、いつもより、激しいくちづけ。


 薄く開いた唇の間に龍翔の熱い吐息が入り込み、目眩めまいを起こしそうになる。


「ん……っ、んぅ」


 思わず洩れた声をついばむように、龍翔の唇が離れかけて、またすぐふれる。


 どこか躊躇ためらうような――本当は思いきりみつきたいのを我慢しているかのような、抑えた動き。


 だが、明珠にとっては刺激が強すぎる。


 恥ずかしさに、頭がしびれるようだ。

 身体に力が入らず、何も考えられない。


 ぎゅっ、と龍翔の指に絡めとられた右手に力を込めると、そっと唇が離れた。


「心臓は、壊れてはいないか?」


 唇を離した龍翔が、楽しげに喉を鳴らす。


「お前とくちづける時は、驚かせてからの方が、よいようだな?」

「えっ、そん――んんっ!」


 答える間もなく、ふたたび唇が下りてくる。


 熱を孕んだ声はどちらかられたのか、明珠にはわからない。

 まざりあう吐息が、明珠の心までき乱す。


 思考が細切れになって、何も考えられない。

 ただ、ふれあう唇の熱さに、けてしまいそうになる。


 ひざまずいていたはずの龍翔が、いつの間にか腰を上げ、明珠に覆いかぶさる。

 頬にふれていた手のひらが頭の後ろに回って、かき抱くように引き寄せられる。


 絡み合うようにつないだお互いの指先が、融けるように、熱い。


 明珠には永遠のように思える時間ののち、龍翔がゆっくりと唇を離す。


 その途端、明珠は糸が切れた操り人形のように、龍翔の胸にくずおれた。


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