37 お前にふれて、平静でいられるものか
「明珠!?」
くたり、と胸元にしなだれかかってきた明珠を抱きとめた龍翔が、あわてた声を上げる。が、答えるどころではない。
嵐に
しびれるような甘さが全身を支配して、自分の身体が自分のものではないようだ。龍翔の手にふれられたところが、ぴくりと反応し、震えてしまう。
「……その。すまん、わたしが悪かった……っ。お前の甘さに
妙に
が、身体に力が入らない明珠は、そのまま龍翔の胸元に倒れ込んだ。
「め、明珠っ!?」
明珠の方からもたれかかってくるとは、予想だにしていなかったのだろう。
動揺した龍翔が明珠を支えかね、二人そろって床に倒れ込む。
尻餅をついた龍翔に、明珠がのしかかるような格好だ。
「明珠! すまんっ、本当に悪かった! 大丈夫か!?」
珍しく、本気で焦った様子で、龍翔が明珠の肩に手をかける。
いつの間にか、「明珠」と呼んでいることにも気づいていない様子だ。
明珠は、なんとか声を絞り出そうとする。
「こ……」
「こ?」
「この鍛錬、心臓に悪すぎます……っ」
息をするたびに、龍翔の香の薫りが明珠に届く。自分まで、同じ香りに染められてしまいそうだ。
身を起こさねばと思うのに、魂を抜かれてしまったかのように、どうにも身体に力が入らない。
頬を寄せてもたれかかった龍翔の胸は大きく、頼もしく、そんな場合ではないのに、不思議な安心感を覚える。
と。とくとく、とくとくと耳に届く速い脈拍に、ふと気づく。
自分の心臓が騒ぎ立てている音だと思っていたが、これは。
「……龍翔様も、緊張してらっしゃるんですか……?」
思いつきをそのまま口にすると、明珠を起こそうと両肩にかかっていた龍翔の手が、背中に回された。
抱き寄せられ、さらに鼓動が近くなる。
「当り前だろう……。お前にふれて、平静でいられるものか」
怒っているかのようにぶっきらぼうな声。だが、声の響きは、どこか甘い。
そろそろと顔を上げると、こちらを見つめる黒曜石の瞳にぶつかった。
目の下をうっすらと紅く染めた秀麗な面輪は、女の明珠が見ても、
「……すまん。無理をさせたな」
いたわるように龍翔の手が優しく頭を撫でる。
「その……」
黒曜石の瞳が、不安を宿して揺れる。
「お前に、嫌われてはいないか?」
予想だにしなかった言葉に、息を飲む。
反射的に、言葉が口から飛び出していた。
「そんなっ! 龍翔様を嫌うなんて、ありえませんっ!」
「っ!」
龍翔が言葉を詰まらせる。
凛々しい顔に朱が散った。
「お前は……」
ふたたび強く抱き締められる。
「あまり、わたしを惑わせてくれるな」
熱を
「お前の甘さにつけ入るような、卑怯は真似はしたくない」
苦い――激情を抑えつけたような、声。
「龍翔様……?」
小首を傾げると、身を離した龍翔が薄く笑った。
ぽんぽんと優しく頭を撫でられる。
「無理をさせたな。これでわかっただろう? お前は今まで通りでよい」
龍翔がいたわるように優しく笑う。
「さあ、菓子でも食して落ちつ――」
優しい、けれども無理やり何かを隠そうとするような笑顔に、反射的に手を伸ばす。龍翔の衣の胸元を握りしめ。
「で、でも、今後のために、鍛錬はした方がいいんですよねっ?」
今も、心臓はばくばくと破裂しそうに高鳴っている。
けれど。
「龍翔様のためでしたら、私……っ」
言い終らぬうちに、龍翔の大きな手のひらが明珠の口をふさぐ。
思いがけず強い力に視線を上げた明珠は、しかし、主の顔を見ることがかなわなかった。
龍翔が上半身をねじるようにして、そっぽを向いている。
一つに束ねた艶やかな黒髪から覗く耳朶が、色づいた花びらのように、うっすらと紅い。
口元にふれた手のひらも、明珠と変わらないくらい熱くて。
まるで、お互いの熱が混ざり合ったかのようだ。
思いがけない龍翔の反応に、どうすればいいかわからず、沈黙する。
口をふさがれたということは、黙っていた方がいいのだろうか。
そろそろと息を吐き出すと、吐息がふれた龍翔の手のひらが、ぴくりと揺れた。だが、手のひらはまだ離れない。
……それほど、龍翔の意に染まぬことを言ってしまったのかと、不安に思っていると。
「……お前は、本当に……」
そっぽを向いたままの龍翔が、深くふかく、疲れたように吐息した。
「そこでそれは、反則すぎるだろう……?」
「あの、その……っ。私、何か申し訳ないことを……っ」
謝罪は手のひらに
龍翔が、ふたたび深く嘆息した。
「……しかも、無自覚というのだから……。手に負えん」
「あのっ、私、ひどい粗相を……!?」
言いかけて、気づく。
今、まさにしている。
主の上にのしかかっているなど、言語道断きわまりない。
「すっ、すみませんっ! 龍翔様の上にだなんて、なんて失礼を……っ! お許しくださいっ!」
龍翔の太ももの上から飛びのく。
「お着物を汚していませんか⁉ あのっ、本当に申し訳――」
「落ち着け」
立ち上がった龍翔の足元にひざまずいて、着物を汚していないか確認しようとすると、呆れた声が降ってきた。
屈んだ龍翔が、明珠の両脇の下に手を入れて、ひょいと立ち上がらせる。
「お前は何一つ、悪いことなどしていない」
前かがみになった龍翔が、明珠の目をのぞきこむように真っ直ぐ見つめ、きっぱりと断言する。
「だから、少し落ち着いてくれ」
ぽんぽんと明珠の頭を撫でた龍翔が、優しく笑う。
その表情はいつも通りの龍翔で、明珠は心から安堵した。
と、龍翔が気まずそうに視線を逸らせる。
「その……。鍛錬についてはだな、あれはわたしにも負担が大きい。だからその……。しなくてはならぬなどと気負うな。……頼むから」
「は、はい! 龍翔様にご負担をかけるわけにはいきませんもんね」
頷くと、龍翔が視線を逸らしたまま、
「……そういうことにしておいてくれ」
と低く呟く。
それに疑問を抱くより早く。
くるりと明珠に向き直った龍翔が、宣言する。
「よし! 張宇の菓子を食べよう」
「はい?」
そういえば、先ほどを菓子と言っていた気がするが。というか。
「張宇さんのお菓子を勝手に食べたら怒られませんか⁉」
ふだんの穏やかな張宇からは、怒ったところなど想像できない。
だが、ふだんが温厚な分、怒ったらすさまじく怖そうだという予感はある。
そんな張宇の菓子を勝手に食べるだなんて。
びくびくと尋ねると、龍翔が苦笑まじりにあっさり告げる。
「安心しろ。張宇から、食べてもよいとちゃんと許可を取ってあるぞ? というか、日持ちしない菓子もあるからな。好きなものを食べてくれと言われている」
「そうなんですか。それなら……」
ほっ、と息をついた明珠の頭を撫でながら、龍翔が微笑む。
「甘いものは、好きだろう?」
「はいっ、大好きですっ!」
満面の笑顔で即答すると、龍翔の長い指先がぴくりと止まる。
が、すぐに大きくひと
黒曜石の瞳を悪戯っぽくきらめかせて、龍翔は高らかに宣言した。
「では、張宇の荷物で宝探しをするぞ」
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