1 お忍びの旅の始まりです! その2


 馬の交換所は、宿場の中でも比較的、大きな建物だった。一階が広いうまやになっていて、二階が宿になっているらしい。


「んんーっ」

 馬車から下りた明珠めいじゅは、袖がめくれて腕があらわになるのもかまわず、大きく伸びをした。娘の姿で腕を出していたら、はしたないと眉をひそめられるだろうが、今は男装しているのだ。遠慮しなくていい。


 初めての馬車に、やはり緊張していたらしい。凝り固まっていた身体の関節が伸びていく心地よさを、十分に味わう。

 隣では英翔えいしょうが同じように伸びをしているが、やはり育ちの差か。伸びをする所作さえ、洗練されている。


季白きはくが見たら、品がないと怒られるぞ」

 英翔が明珠を見て苦笑する。


「ええっ、はいいじゃないですか!」

 思い切りしかめた明珠の顔が面白かったのか、英翔がもう一度、笑みをこぼす。


 設定では、季白は急ぎの商用で乾晶へ向かう大店の若主人で、明珠達はその従者達ということになっている。

 大店の、としているのは、蚕家が用意してくれた馬車が、王都以外では見かけないくらい立派な馬車だというのと、資金に物を言わせて疲労した馬を取り替えて旅することに説得力を持たせるためだ。本来なら家紋が入っていてもおかしくないほど立派な馬車は、季白の指示だろう。あえて紋は入れられていない。


 主人役の季白の着物も、絹ではないものの、一目で仕立ての良さがわかる着物だ。


 その季白は、

「張宇、いいですか! しっかり二人に目を光らせておくんですよ!? 二人とも、くれぐれも馬車から離れないように! いい子にしていたら、好物を買ってきてあげますから!」

 と言いおいて、すでに馬車を下りており、


「……あいつは、乳母か子守りか?」

 と憮然ぶぜんとした顔の英翔に突っ込まれていた。明珠と笑い上戸の張宇ちょううが吹き出したのは、言うまでもない。


 だが同時に、「母親」ではなく、季白を「乳母か子守り」とたとえた、たった五歳で母親を亡くした英翔の境遇が脳裏をよぎり、つきんと胸が痛む。


 英翔の性格だ。明珠が心を痛めていると知れば、逆に「もう過ぎ去った過去のことだ」と、明珠が気にしすぎないようにと言うだろうが。


「じゃあ、水を汲みに行ってきますっ」

 心中を押し隠し、あえて元気よく宣言して歩き出すと、なぜか英翔がついてきた。


「英翔。即座に言いつけを破られると、俺の立場がないんだが」

 馬を馬具から放しながら、張宇が苦笑する。英翔が不機嫌に口を開く。


「わたしも厠に行く自由くらいあっていいだろう?」

「……まあ、怪しそうな奴もいないようだし。用が済んだらすぐに戻ってくるように」

 仕方がないなあ、と吐息した張宇に見送られ、英翔と連れ立って歩き出す。


 交換所の馬丁に尋ねると、厠も井戸も、厩を通り抜けた裏庭にあり、自由に使っていいということだった。付近の何軒かと共用にしている井戸らしい。


 先に厠に行った後、井戸に向かう。高めの塀で張り巡らされた裏庭の井戸は、すぐに見つかった。

 馬達に飲み水をあげたり、洗ったりしているのにも使っているのだろう。井戸は大きくて立派な造りだった。屋根付きで、作業しやすいように、周辺の空間も空いている。


「今日は天気がよくて風もあるから、お洗濯日和ですね」


 裏庭では、張られた縄に洗濯物がかけられ、春風にはためいていた。長年、主婦として家政を取りしきっていた明珠としては、洗濯したくてうずうずする光景だ。

 掛け布などの大物を綺麗に洗って干したら、どんなに気分がさっぱりするだろう。


 二階が宿の分、洗い物も多いのだろう。見上げると、若い侍女が二階の窓から裏庭を囲む塀に長い縄を張って、大きな敷布を幾枚も干している姿が見える。

 英翔に手伝ってもらって水を汲み、水筒に入れる。まもなく四月になるが、井戸の水はよく冷えていて心地よい。


「手伝っていただいて、ありがとうございます」

 水筒の栓を閉めた明珠は、あらためて英翔に礼を言った。桶から水筒の小さな口に水を入れるのは、なかなかの器用さを要求される。英翔が手伝ってくれて、本当に助かった。


「この程度のことなど、気にするな」

 英翔が苦笑をこぼす。


「それより、また敬語になっているぞ。わたしは今、同僚だろう? 季白にまた注意されるぞ」

「はうっ。人がいないので、つい……」


 一度、しみついた習慣は、なかなか消えない。加えて、裏庭には人影がなかったので、油断していた。

 英翔が仕方ない、とばかりに吐息する。


「練習が必要だな。「英翔」と、呼び捨てで呼んでみろ」

「ええっ!? 「さん」づけじゃだめですか?」

 ささやかな抵抗を試みると、呆れたように黒曜石の瞳がすがめられる。


「この姿の時は、どうみてもお前の方が年上だろう? 年下に「さん」づけは変ではないか?」

「ううっ、そうですけど……」


 明珠にとって英翔は、どんな姿をしていても、尊敬する主だ。

 弟の順雪を思い起こして和むことは確かにあるが、だからといって、従者としての領分を飛び越えるつもりはない、呼び捨てなど、もってのほかだ。


 が、敵をあざむくために必要とだというのなら、呼ぶしかあるまい。


「い、いきますよ。え、ええええ……」


 噛んだ。思いっきり噛んでしまった。


「ぷっ。なんだそれは」

 英翔が吹き出す。


「ちょっ、ちょっと待ってください! もう一度、挑戦します!」

 胸に左手を当て、深呼吸して心を落ち着ける。英翔の黒曜石の瞳を真っ直ぐ見つめ。


「え、英翔――」

 「様」と言いそうになるのを、唇を噛みしめてこらえる。と。


「うん、上出来だ」

「ふわっ!?」

 とろけるような笑みをこぼした英翔に、驚きの声が出る。


 嬉しそうな、くすぐったそうな、見ているこちらまで心が浮き上がるような、柔らかな笑み。

 まだ仕えてから短いが、英翔がこんな風に笑うのを見たことは、滅多にない。


「ど、どうなさったんですか!?」

「いや……。どんな名であれ、お前に呼ばれるのなら、心地よいものだと思ってな」

 明珠より、頭半分、背の低い英翔が、明珠の頬へ右手を伸ばす。


「あの……っ」

 不意に、明珠の視界に影が差した。かと思うと。


 べしゃっ!!


 湿った重たい何かが、明珠の顔面をふさぐ。風で洗濯物の一枚が飛んできたのだと、理解する暇もあらばこそ。


「きゃああっ!」

 二階から甲高い悲鳴が聞こえた。同時に、ばさばさと重く湿った音。


「明珠!」

 英翔に突き飛ばされ、尻もちをつく。かと思うと、英翔のせた身体と、大きく重い湿ったものが、のしかかってきた。


「んん――っ!」

 濡れた布が顔に張りついて、息ができない。


 視界が利かないことより、呼吸を阻まれた本能的な恐怖で、顔にかかった布を取ろうともがく。が、身体全体を上から覆う、湿った大きな布に邪魔されて、巧く腕が動かせない。


「暴れるな! 余計に絡まる!」

 すぐ近くで聞こえる英翔の高い声。だが、目も利かず、息もできないこの状況で、暴れるなという方が無理だ。


(だって、息が苦し――)


「だから暴れるなと――!」

 布を掴もうとしていた右手を、英翔に捕まれる。胸元に導かれた手が、反射的に守り袋を握りしめ。


 自分ではない手が、顔に張りついていた布を引きはがす。


「ぷあっ」


 空気を求めてあえいだ口に、柔らかなものがふれ。

 身体にまとわりついていた布が、ふわりを持ちあがる。


「えっ?」

 持ち上げているのは、頭上で輪を描いて浮く、人の身丈ほどの長さの白銀に輝く《龍》だ。そして。


「大丈夫か?」

 明珠の頬に大きな手で触れ、心配そうにのぞき込んでいるのは。


 ――青年姿に戻った英翔だった。


「突き飛ばして、すまなかった。立てるか?」


 青年姿の英翔が目の前にいるということは、さっき唇にふれたのは――。

 一瞬で、顔が燃えるように熱くなる。英翔を見上げられないでいると。


「明珠?」

「きゃっ」

 英翔が明珠の腰に腕を回し、軽々と抱き上げる。秀麗な面輪おもわが近くなり、心臓が跳ねる。


「どうした? まさか、足でもひねったか?」

「ち、違います! 大丈夫です!」


 今は、落ちた敷布を《龍》が持ち上げ、二人の姿を隠してくれているからいいものの、少年から青年の姿へ変わったところや、《龍》を人に見られたら大変だ。

 我に返った明珠は、あわてて手を振りほどき、自分の足で立つ。そこへ。


「す、すみません! 大丈夫ですか!?」

 二階で洗濯物を干していた侍女だろう。若い娘の声が布の向こうから聞こえてくる。


「ほんとすみませんっ! なんとお詫び申し上げれば……っ!」

 あわてた様子で布をめくりあげた娘の動きが、英翔を見て停止する。


 魂を抜かれたように、ぽーっと英翔の美貌を見上げる娘の眼前に、英翔が右手を伸ばし。

「《眠蟲みんちゅう》」

 眠りを誘う鱗粉りんぷんをまともに吸い込んだ娘の身体が、くたりとくずおれる。


「すまんが、夢と思って忘れてくれ」

 娘を横抱きにした英翔が、布の下から出る。あわてて明珠も後に続いた。役目を果たした眠蟲は、すでにかえっている。


 英翔が建物の壁にもたせかけるように娘を下ろしているうちに、明珠は《龍》が支えてくれている布を畳み始める。


 風にあおられて、縄が留め具から外れたのだろう。落ちてきた敷布は三枚もあった。動けなかったのも道理だ。地面にふれてしまった部分は土がついて、茶色く汚れてしまっている。もう一度、洗い直しとなると、大変だろう。

 同じ侍女として、洗い直しの苦労を思いやっていると、「どうした?」と英翔に顔をのぞきこまれた。英翔も布を畳むのを手伝ってくれる。


 支えていた敷布が無くなったとたん、宙に浮いていた《龍》は、音も立てずに姿を消した。

 万が一、誰かに見られていたら大変だと、あわてて周りを見回すが、侍女以外に裏庭に来た者はいない。その侍女も、今は夢の中だ。

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